プロローグ

 遠くから靴音がする。持ち主の苛立ちをあらわしている、硬く冷たい音だ。近づいてくるそれに、私は顔を上げた。
「ロザリー! どこにおる、ロザリー!」
 父が、私の名前を呼んでいる。きっと怒りのあまりに唾を飛ばして叫んでいるに違いない。
「ここにおります、父上」
 私はドレスの裾をつまみ、深く礼をする。父はそんな私を見つけ、猫なで声を出す。笑みを作ろうとしているのだろう、口元がわずかに引きつっていた。
「おおロザリー、我が娘、話があるのだ。お前も十と二になったのだから、この話がいかに重要かわかるだろう」
 私は知っている。その瞳が決して、情愛の色を持たないことを。浮かべようとする笑顔が、作り物だということを。
「はい、父上」
 返事をして、私は父の言葉を聞く。
「この機ノ国の大半を、あの忌々しい『眠レル森』が占めているのを知っているな」
「はい、父上」
「そこを全て焼き払い、生活区域を広げれば、さぞやこの国は豊かになるであろう」
 この国は、人の居住できる場所が少ない。内陸のほぼ大多数が森林地帯で覆われているからだ。増え続ける人口に対し、住む区域はごく限られている。定められた場所で暮らすには、あまりにも人の数が多すぎるのだ。いつか森を切り開かねばならないだろう。
 父の苦労はもっともである。一国の王として、国民のことを第一に考えねばならないのだ。国民が飢えれば国は滅びる。
「だが、忌々しい森ノ民めが邪魔をしおる。分かるかロザリー、彼奴らがわが国の発展を邪魔しているのだ。以前の争いで大半を葬り去ったのだが……生き残りがおったらしい。そやつが結界を張った、ゆえに今は入ることが出来ぬ」
 森を取り巻く草色の霧、それが結界なのだという。人を惑わせ、外に出してしまう幻の霧らしい。城の窓から幾度となく眺めたあの美しい光景を思い浮かべた。肩を並べて共に見た、母の細い後姿が蘇る。
「あの化け物共が好みそうな手口よ」
 父は忌々しげに足を踏み鳴らす、その音で私は我に返った。父はしばらくの間憤っていたが、やがて私へと向き直り、告げた。
「ロザリー、お前に命を下す」
 私は身を硬くして、父の命を聞く。
「この国のハンターどもに紛れ、結界が解けるのを待つのだ。そして結界が解けたならば、中に進入し、生き残りを抹殺しろ。それが済んだならば王宮に帰ってこい」
 初めて、父に仕事を任された。国の存亡をかけた重大な任務。失敗をするわけにはいかない。
「お任せを、父上。この命に代えても、必ずやこの任を成功させてみせましょう」
 私の返事を聞いて初めて、父は薄笑いを浮かべた。
「それを聞いて安心した。私の自慢の子供らをこれで殺すわけにはいかんからな」
 心臓に一瞬だけ、鋭い痛みが走った気がした。体の末端が、急速に冷えていく。
 息を詰める私を眺める父の目は冷たい。言葉は続く。
「メルトは大事な跡継ぎ。シェーラは違う国へと嫁に出す。そうするに相応しい器量を持っているからな――しかしお前はどうだ? 精霊がどうだ、英雄譚が何だなどと、夢に惑ったことを口にして、知性の欠片も見当たらぬ。お前のような出来損ないは、下賎なハンター連中に紛れたところで何ら違和感もないだろうよ」
 思わず唇を噛み締めた。
 分かっている。今更言われずとも、自分がいかに父を失望させ、落胆させたか。兄と姉に比べて、どれほど愚かだったのかも。父の役に立つことすらできないのに、どうして言い返す権利がある。
「どうした? 私の言葉に、何か不満でもあるのか?」
「いえ……なんでも、ありません……父上」
 かろうじてそう返すのがやっとだった。
「ならば早く行け。あぁ、髪は切った方がよい。目障りだろう」
 亡くなった母に褒められた、自慢の髪を。腰まで伸ばした濃茶の髪を握り締め、私はうなずく。不意に視界がにじんだ。
 父は言うだけ言ってから、私に背を向けた。二三歩先に行き、ふと立ち止まって私を見る。
「そうだな。一つ、条件をつける。もしこの仕事が成功したら、世の中には自慢の娘として公表する……いいか、成功したらの話だ。お前のような無能な、塵同然の価値しかないものが成功するのかは甚だ疑問だが、これだけは守ると誓ってやろうか」
 それはつまり、私も兄や姉のようにかわいがってくれるということだろうか。抱きしめて、褒めてもらえるということだろうか。暖かな笑顔で、私を迎えてくれるということなのだろうか。
 暗く湿っていた心が、一気に晴れ渡った。私が何よりも望んでいるものを与えてくれるというのなら、これほどの幸福が他にあるだろうか。
「父上、私……私、がんばります!」
 もう遠ざかっている父の背に、私は精一杯の声で誓った。

 雨の音がする。私は濡れた衣服を身に着けたまま、寒さに震えていた。ドレスも何もかもを城に置いてきて、ほとんど下着同然だった。
 父は衣服を用意してくれず、私のドレスを脱がせた後、そのまま私を城下町に送り出したのだ。あれから既に二日が過ぎようとしていた。
 着の身着のまま、食べるものも無い。飢えに負けて、何度も食べ物に手を出そうとした。その度に追い回され、体力も尽きた。雨に打たれて体温を奪われ、こうしてある家の軒先で膝を抱えている。
 ほとんど城の外へ出してもらえなかったけれど、それでも今までは恵まれていたのだと知った。父は悪くない。何も知らない私が悪いのだ。
 と、扉の開くきしんだ音がした。この家の主人だろうか。また怒られるに違いない。それはもう嫌だ。とっさに立ち上がろうとして、かち合った視線に動けなくなる。
 私を見つめているのは、瞳の大きな女の子だった。顔立ちは人間のそれだったが、耳が獣の、それも馬のものだった。紅の花を一輪、耳元に差している。
「こんにちは。あ、今はこんばんは、だね」
 半獣の女の子だった。スカートからは馬の足が二本、のぞいている。上半身は同い年くらいの、人間の姿をしていた。
 半獣は野蛮だと、父からくどいほどに言われている。たまに城の中の警備をしているのを見る程度だったが、出来うる限り話さないように努めていた。野蛮な種族と話せば、父から嫌われてしまう。
 私は少女を無視し、再び膝を抱えてうずくまる。しかしこの少女は、私のことなど構うことなく隣に座った。
「私、アイビスっていうの。アイビィって呼んでね。それよりもどうしたの? こんなところで。名前は? どこから来たの」
 答えようとして、思い出した。城を出たときから、あの名前は捨ててしまったのだと。そしてこれは重大にして極秘の任務だということを。
 黙っていると、彼女は困ったように首をひねった。柔らかそうな蜜色の髪が揺れる。
「うーん……あ、そうだ! おなか空いてない? これあげるね」
 手渡されたのは、焼きたてのパンだった。途端に忘れていた空腹が蘇る。だがこれを、本当に私にくれるというのだろうか。
 戸惑っていると、少女は笑って、もう一つ渡してくれた。
「食べていいんだよ。どうぞ」
 言われて、私は一心にパンにかぶりついた。毎日食べていたものなのに、別物のように美味しい。こんなに美味しいなんて、初めて知った。途中で喉に引っかかり、何度もむせたが、それでも私は空っぽの胃にそれを押し込むのをやめなかった。
 私が夢中で食べていると、少女は一旦家の中に入り、少ししてから出てきた。手には湯気の立つカップ、甘い香りがする。
「これ、あったかいミルク。ここのパン屋さんのおばちゃんがね、サービスしてくれたんだよ」
 夢中で飲み干す。火傷をしたのか、口の中がひりついた。痛みを覆い隠すほどに強いミルクの甘み、今まで飲んだどの飲み物より美味しかった。
 私の食事を眺めながら、半獣の少女は語り続ける。
「私ね、花売りしてるの。でも今は、ギルドっていうハンターの集まり所にお仕事を届けに行く仕事もしているのよ」
 ハンター。最も卑しく、プライドを持たない下賎な職業。父はそう言って、ハンターを嫌悪していた。私は彼らと同じだという。だから私を彼らに紛れ込ませようとしたのだろうか。
「ねえ」
 彼女は満面の笑顔で、私に問いかけた。
「あたしと一緒に来ない? みんないい人だし、優しいよ」
 私は黙っていた。かじかんだ指に、あたたかなカップの熱が染みていく。
 父の嫌悪する場所に行くことになるのだ。だがそこへ行かなければ、封鎖されて久しい眠レル森へ入ることが出来ない。
 私は小さくうなずいた。彼女の顔が綻ぶ。
「わぁっ! じゃあ、あたしたちこれからお友達だね!」
 友達。初めての言葉に、私もほんのかすかな喜びを覚えた。


深キ森ニ生キル者

(訂正:2007.7.1 再訂正:2007.8.23)

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