深キ森ニ生キル者

終章


 森林の中心部は、依然として静謐の最中にある。大樹から注がれる透きとおる木漏れ日を浴びながら、娘が一人佇んでいた。木々の囁きは耳を柔らかくくすぐり、彼女の白い衣を撫でていく。
 巫女の守人がかつて身に着けたその衣装には、無駄な装飾品が一切ない。しかし、零れ落ちる碧の光を反射している様は、きらびやかな宝石や金銀の腕輪首飾りには無い清らかな美しさを持っていた。選ばれたもののみがまとうことを許される、いわば騎士の鎧と同じもの。
 自分が着るのは恐れ多い気もしたが、これを授けた本人は涼しい顔をしていたものだった。お前が着るのにふさわしかろう、などと、もったいぶった口調で言っていたっけ。
 波の音に似たざわめきと記憶に浸る意識、そこに紛れて誰かの声が聞こえた気がした。懐かしい声、懐かしい足音、懐かしい姿。思わず口元がほころんだ。
「ケリィーっ!」
 対面する向こう側から、二つの影がやってくる。
「あーっ!! ケリィ、ケリィーっ!!」
 一人は陽気な馬娘、こちらを見るや否や全速力で飛びついてくる。長く伸びた蜜色の髪をゆるくまとめた彼女は、年を重ねた分だけ女らしくなっていた。
 倒れそうになるのを何とか堪え、後からやってきた狼男に笑みを向ける。
「アイビィ、ニップ。よく来てくれた。五年ぶりだな」
「あぁ。ちょいと野暮用片付けるのに手間取ってよ」
 男は機嫌よさげに尻尾を振り、腕組みをしてにやりと笑う。
「お前さん、ちっとばかし女らしくなったじゃねえか」
 からかおうと画策する彼の表情は、アイビスと対象にちっとも変わっていなかった。きっと毛皮のせいだろう。胸もとに密集する白銀の毛並みを引っ張りつつからかい返せば、
「そういうあんたは、ちょっと老けたね。自慢の毛並みに禿げができてるよ」
「こいつぁガキにむしられたんだ、俺が老けたわけじゃぁねえ」
 彼は情けなく肩を落として弁解した。
「ユウロがむしっちゃったの。あの子、パパの毛皮が大好きだから」
 アイビスが面白おかしく再現し、ニップはそれを慌てて押し留める。温かなものが心に広がっていく。幸せそうな友人たちが、ケリィにはとても嬉しかった。
「そうか……もう、五年経つんだね」
「ケリィが国を継がないって宣言してから、もう五年なんだね」
「国に残された最後の王族が、王位継承権を放棄しちまうなんて、前代未聞の大騒ぎだったな」
 そうだ――ケリィは風になびく自分の髪を押さえて回顧する。
 後に『浄化ノ日』と呼ばれるようになったあの日、アイビスたちの元へ出向いたケリィを迎えたのは、盛大な歓声と、絶えた王家の再興を強く望む人々の声無き訴えだった。
 大地の恵みを映した髪、静寂と豊穣の証の瞳。これらを継承した人間は皆死に絶え、正統な王家の血を引く者はもはやケリィ以外に残されていない。おそらくタンタルが人々へ真実を伝えたのだろう、人々はケリィが玉座に着くことを強く勧めたが、ケリィは首を縦に振らなかった。
「私は、王にはなれない理由があったから」
「この森を守り、この大地を守る。でしょ? でも、王様になったらそれもできただろうにさ」
 アイビスが一つ耳を動かす。柔毛に包まれた茶色の耳は、わずかな鳥のさえずりにも敏感に反応して動いていた。
「うん。だけどね、アイビィ。私は馬鹿だから、国を治めることはできないって思ったんだ」
 息を吸う。森林特有の清々しい空気が、肺をゆっくりと満たしていく。天を覆わんばかりに広がったミズノキの葉から、雫が一粒頬に落ちた。
「王は民を治める者。誰かの上に立って指示すればいいかもしれないけど、それじゃあ『王が言うから協力してやっている』『妥協してやっている』っていう意識を少なからず生むんじゃないかなって、私は思う」
 上下意識は双方に亀裂を生じるきっかけにもなる。しかし、「してやっている」「されてやっている」そんな考えがあれば、たとえ表向きが手を取り合っているように見えても意味がない。
「立場を対等にしなくちゃ、見えてこないものがある。支配するされるっていう意識をまず払わなくちゃいけない。もちろん、重たい責任がのしかかってくるから、それが怖かったんだとも思うけど……でも」
 風が木々の合間を駆け抜けていく。乱された髪を丁寧に指で梳いて、ケリィは言葉を繋いだ。
「でも、それ以上に……私は森林と人間が一緒に暮らしていけるように、お手伝いがしたいと思ったんだ。父上のように強制的に排除するんじゃなくて、少しずつ長い時間をかけてお互いを知っていくことが大切なんだと、私は思う。そのためのきっかけに――そのための架け橋になれればいいなって」
 だから玉座を断った。ここにいる皆で力を合わせて、これからを生きていきたかったのだ。王も民も関係なく、人間も森ノ民も関係なく、知恵を出し合い、力を貸し合って生きていきたかったのだ。
「お前は相変わらず甘ちゃんだな」
 ニップのごつい手がケリィの額を小突く。痛みによろめいて踏みとどまると、彼は豪快に笑った。
「だが、俺はそういうの嫌いじゃねぇぜ」
「ケリィらしいわ、本当に」
「ああ、ありがとう」
 ケリィも二人の親友に微笑みかける。
 この国は今絶対王政ではなく、共和国として新たな軌道に乗り始めている。森林と共存する形で人々は暮らし、巫女は彼らの迷いを払うときのみその声を聞かせる。代表者こそ数人あれ、国民全員で国を動かしている。森林に住む獣一匹であっても、守人となった自分であっても、誰かが欠けても国は動かないのだ。
 機械技術の見直しもなされているのだと、たまにやってくるタンタルが教えてくれた。機械精製の際に発生する毒素を最小限に抑え、森林が短い期間で浄化できるよう研究が進んでいるのだそうだ。いずれ来るその瞬間を記録することが、タンタルの楽しみの一つなのだとか。
 王家の人間が優遇され、支配する時代は終わった。これからは、この国に根ざすすべての命が国を作っていく――本当に嬉しい。人々が自然の声に耳を傾け、あるいは語りかけて、理解しようとしてくれているのが嬉しい。そして、そのことに喜んでいるのはケリィだけではない。
「あ、ユプシィちゃん!」
「おうチビ、元気にしてたかよ」
 揺らぐ深緑から抜け出てきた少女は、かすかに口元を緩めて二人をみとめた。
「二人とも、子どもはどうした」
「お隣のスタナムさんが預かってくれるって。先に行っていいって言われたから、お言葉に甘えて来たの」
 不意に飛び出した名前の持ち主を、ケリィは瞬時に思い描く。あの誠実な近衛隊長が、家の猫の捜索と称して何度もケリィを訪ねてきてくれたことも、『浄化ノ日』に銃を向けられたことも、今ではただ懐かしい。
「スタナム将軍か……顔は怖いが、彼はいい人だったな。父上に内緒で、よくお菓子をもらったっけ」
「あとでご子息と一緒に連れてくるって言ってたわよ。ロザリー姫にぜひともお会いしたいって」
「まだ姫なんて言ってるんだな。今度姫って呼んだら殴るって約束したのに」
 こんなに優しい記憶があったのかと、時が経ってから何度となく驚いたものだった。父に罵られ、誹られていた痛みが和らいだせいなのだろうか。
 ユプシィが瞳を細め、穏やかに微笑う。少しだけ成長した少女の面差しに、碧色に縁取られた金がはじけた。
「楽しみだな」
「ユプシィは会うの初めてだね。あとでいっぱい話を聞こう。近衛隊長時代の失敗談とかね」
 と、木々の陰の合間を縫って、誰かが歩いてくるのが見えた。肩に小さい影を一つ背負い、たくましい腕を振ってこちらに向かってくる。バスケットを抱えている左手の脇には、ひょこひょこと歩く老人の影がある。
「じゃあ、俺らはちょっくらスタナム氏をお迎えしてくらぁ」
「タンタルさんも来てくれたのね! やった、シュレの実ジュースと美味しい紅茶が追加よっ」
 アイビスははしゃいで走り出し、ニップは苦笑しつつそれを追う。昔と何も変わらない光景がそこにあった。
 ユプシィがケリィを見上げる。ケリィもユプシィを見た。
「ねぇユプシィ」
 手を繋ぐ。今握っている白く華奢な手が、過去に自分を抱きしめてくれたことを、亡き母の言葉を思い出させてくれたことを、そのおかげでここにいられるのだということを、ケリィは決して忘れはしない。
「私はここを守るよ。無駄な命なんて一つもないんだって、人生が終わるときまで教えていくよ。かつて母上が言ってくれたこと……かつてユプシィが言ってくれたことを、ずっとずっと語りついでいくよ」
 光の欠片が、まるで戯れるかのように鼻先をかすめていく。いつしか光は碧を溶かし、ますます透明な輝きを帯びて滝のように流れ込んできていた。
「だからユプシィも、愛想をつかさずにずっと見守っていてくれよ」
 ユプシィは年頃の少女の笑顔を浮かべてうなずいた。
「……善処してみよう」
 この大地に、森林と静寂の神ファイの加護があらんことを。少女の声は大樹の幹に沈み、螺旋を描いて大地へと染みていった。

 大樹は頭上高くにそびえ、人々はその懐に抱かれながら生命を奏で続ける。その調べを見つめ、その調べの素晴らしさを語りながら生きる娘が一人、今もなお大地を守っているのだという。
 その者はいつからか、こう呼ばれるようになったという。

 巫女の紡ぎし浄化の言、そこに示されし守人の名。
 ――深キ森ニ生キル者、と。



(初回アップ:2007.11.29)

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