Importante Esprit
プロローグ


 草を踏み分ける音がする。蒼々と茂る森の中を、歩く影は二つ。
「ご主人様、お怪我はございませんか?」
 前の影が振り返り、後の影に尋ねる。若い娘の声が、背後に広がる木々の合間に響いた。
「大丈夫だ」
 後の影がうなずく。零れ落ちる光に照らされて、長い髪が金の輝きを放つ。それを軽く払いのけると、ゆったりとした足取りで娘に近づいた。
「もうすぐ出口だから、そこで一息つこうか」
「はい」
 木々の途切れる場所がある。目の前に開けたそこより吹きぬける風は、一度強く彼らの体をたたいた。
 そこは静謐なる水の遺跡だった。眼下に広がる光景を、影から男女の形を取った二人が眺めている。
 白くきらめく石の柱、門、崩れた塔。ゆらめく水面を透き通して、草が身を躍らせている。その背後には細い滝。流れは古の記憶を抱き、河となろうとしていた。
「アーティ」
 あどけなさを残す青年が、傍らの娘を呼ぶ。
「あれからもう、五年が経つんだな」
 傍らの娘が、はい、と返事をする。
「世界はこうして、少しずつ変わっていくんだな」
「はい」
「人も、こうして変わることができればいい。違うな。変われるんだ。少しずつ、少しずつ……そうやって知っていって、気づいていけばいいんだ」
 娘はほんの少し、微笑った。
「ご主人様が、そうですもの」
「僕はまだ、入り口にいるにすぎないさ」
 青年もまた、微笑む。風が再び、彼らの外套をもてあそんだ。
「今思い返すと、よく分かる。あの頃の僕は、入り口にすらたどり着いていなかったんだ」

* * *

 大陸南東にある辺境の村、パースリー。南の港町へ行くための旅人が、中継地点として訪れる小さな村である。草原地帯のやや乾燥した地域であるが、貿易商も何かと立ち寄るため食べ物には困らない。
 名物といえるほどの品物は無いが、代わりにある建造物があった。その昔、そこに住んでいた魔術師(ムール・エイン)が、ある禁呪のために狂い死んだという塔だ。呪われたスポットとして、ちょっとした話題を呼んではいる。が、そこに一人の少年と一体の機械人形(レム・キトル)が住んでいるという事実は、村人にしか知られていなかった。

 硬く閉ざされた扉の中、螺旋階段を一人の少女がのぼっていく。手には盆が、上には菓子と茶器の一式が乗っていた。柔らかな茶の髪はゆるく波打ち、頭部の高い位置で一つにまとめられている。一昔前に流行った蒼い給仕用の制服は、彼女によく似合っていた。
 少女はいくつも部屋を通り過ぎ、最上階にある木の扉を控えめにたたく。
「ご主人様ぁ、お茶が入りましたよ」
 扉の内側が騒がしい。時折何かをひっくり返すのか、盛大な音がする。
 少女が待つこと数刻、やがてそれも静かになり、ようやく「入れ」と許しが出る。少女は片手で扉を開き、夕暮れ色の目を丸くして言った。
「ご、ご主人様? 一体何やってるですか?」
「見れば分かるだろ」
 対する少年は、少女を見もしないまま作業を続けている。時折落ちてくる長い金髪を払いながら、分厚い魔道書を積み重ねていた。本棚から本を取り出し、軽く中身を眺め、いらないと判断したものは隣に放り投げている。近くには長旅用のコムフリーが置いてあり、衣類が乱雑に詰めてあった。
 育ち盛りの割りに小柄な彼の体では、なかなかに大変な作業だろう。少女は盆を机に置き、少年を手伝いながら再度尋ねる。
「お掃除するなら、私に言ってくださればいいですのに……」
「別に掃除じゃない。ちょっと旅しようと思ったんだ。その旅支度だよ、だから見て分からないのかって」
 少女の手に取られた本を奪いつつ、少年は答えた。
「へ? ど、どちらまで?」
「『天空に最も近き都』。カレンドラだよ。そこで僕の有り余る才能を存分に使おうと思ってね。まぁ二三年帰れないと思うから」
 少女は大きな目を幾度も瞬き、ちょこん、と首を傾げる。
「……カレンドラ……で、一体何をなさるですか?」
「あのな……常識だぞ」
 一方の少年は手を止め、呆れたように少女を眺めた。
「……まぁいいや。中古品にも分かるように説明してやるよ。カレンドラは、ここから北西の方角にある大陸の最高峰、オシマム山脈の中にあるとされる古代都市のことさ。『ジーグ=イ=タリス創世神話』第三章46ページ目に書いてあるとおり、カレンドラは神々の技術を随時進化させ、さらなる高みを追及する勤勉な者が集まる都だ。機械なんかは、人間と神の力が合わさって初めて作られた技術だな。魔術も神が伝えたもの、言葉もそう。つまりカレンドラには、『今現在進化している技術』と『失われた太古の技術』の両方が存在する。これはもう、魔術師はもちろん、機械専門の技師(バルム)も、魔術の才能がなくて研究だけに留まっている学者(エルデア)だって、空を駆ける星をつかむ思いなわけさ。もちろん、天才的頭脳と知識と技術を持つこの僕、クラーリー=スクラレア様だって例外じゃないさ。なんていったって、僕はあらゆる知識を網羅し、あらゆる機械技術を学んでいるわけだからな! こんな有能な人材、世界中を探し回っても僕くらいなもんだろうね! 専門家に留まらない万能型だし! こんな辺鄙な片田舎にすっこんでるような小物じゃないだろ、だいたいここいらの下等な人間共、僕がいかに有能なのか分かっちゃいな……ん? おい、聞いてるのか? アーティ、アーティチョークッ!」
 途中から主観と自画自賛を交えて白熱していた少年の主張は、少女の異変によってようやく打ち切られたのだった。
「ピー……う、うう〜ん……処理許容量超過……これ以上分析不可能ですぅ……」
 頭から煙を噴き上げている少女を軽く小突き、少年は大げさなため息をつく。
「……全く。やっぱりこうなったか……ったく。いいよいいよ。お前みたいな中古品のダメダメに説明したのがそもそもの間違いだったよ」
 本をいくつかコムフリーに押し込んでから、蓋を閉める。その時点で煙が治まり、少女が我に返った。
「はっ、ご、ご主人様っ! ご用意はお終いですかっ! すみません、私がぼんやりしていたせいで!」
「……いいよ。何かお前がやったら惨事が起きそうだから。僕は早速出発するから、留守番しててくれよ。いいな、絶対に僕の部屋のものは壊すなよ。本は埃を払うだけだからな。扉は出力三分の一だぞ、あとは」
「ちょ、ちょっと待ってください! ご主人様お一人でなんて危険ですっ!! 私もお供いたします!!」
 少女の手があげられる。少年が慌てて、机の上にあった盆を取り上げた。
 振り下ろされた手のひらが、頑丈な石の机にたたきつけられる。机はビシビシと悲鳴をあげながら、無残に崩れ去った。
「ご主人様は、私をゴミ捨て場から拾って直してくださいました! 戦闘用の機能しかなくて、給仕としては何の使い道も無い私を、ご主人様はこうやって置いてくださいました!! 私もご主人様のために恩返ししたいんですっ!! お願いいたします、ご主人様!! 私も連れて行ってくださいませ!!」
「ちょ……っ、げっ、な、何で制御装置があるのにあんな馬鹿力が出るんだ!? 制御装置の意味がないじゃないか! ……って、分析してる場合じゃない!! こら、アーティ! やめろ、分かった! 分かったからやめろって!!」
 振動で倒れそうになる盆上の茶器を死守しつつ、少年は叫んだ。少女の手が止まる。瞳はじっと主を見つめていた。
「……な、何だよ」
「ご主人様、私を連れて行ってくださるのですねっ!?」
「だから、そう言ってるじゃないか。分かったならさっさと……」
 少年が茶器を本の上に置いたや否や、少女の細い腕が彼に伸ばされる。
「嬉しいっ!! ありがとうございます、ご主人様っ!!」
 恐るべき破壊力を持つ腕が、少年の華奢な体に巻きついた。制御装置をつけてなお、彼女の腕は岩をも砕く。それが細い少年の体ならば、言わずもがな。
「ば、馬鹿ッ!! うぉっ、力、を、い・れ・る・なぁぁあぁぁああああ!!!」
 少年の断末魔が、石造りの塔に響き渡った。


第一章


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