Importante Esprit
第六章


 旦那、と呼ばれ、のろのろと視線を上げた。人の良さそうな初老の男性が、心配そうにこちらをのぞきこんでいる。蓄えられたひげと目元のしわに、記憶の中の誰かが重なった。
「旦那、もうおよしになったほうがいいんじゃないですか」
 一拍の間を置いて、鈍った脳が意味をはじき出す。これ以上飲んだら身体に毒だと、彼は心配をしてくれているのだ。確かに、ここで潰れれば主人である彼に迷惑がかかる。
 それでも――彼には悪いが、今は飲まなければ『何か』が飛び出してきそうで恐ろしい。
 返事の代わりに懐を探り、金貨の入った袋を取り出して放り投げる。袋は狙い通り、主人の手の内に収まった。困惑ゆえの沈黙が双方の間に積もっていく。喧騒はその上に塗り重なり、奇妙な具合に溶け合っていた。
「旦那……」
「同じものを」
 空になったグラスをつかめば、中の氷が音を立てた。薄く研磨された水晶の容れ物を、水滴が模様のように覆っている。きっと冷たいのだろうが、触れた指先からは何の温度も感じられない。
 そのくせ、感覚は残るのだ。肉を裂き、骨を砕く嫌な感覚は、作り物の指を、腕を通して強く心を引っ掻いていく。生き物の温もりや、こうしたものの心地よい冷たさは一切感じ取れないくせに。
「もう十本目じゃないですか」
 構わない、の意を込めて首を振る。酒場の主はため息をつき、突き出したグラスを受け取った。空いた瓶が触れ合う音が涼しい。十本分放置されたそれを片付けながら、主はなおも言葉を継いだ。
「嫌なことを忘れるために酒を使うのは、決して悪いことではありませんが……あまり飲みすぎて溺れてしまうのも、どうかと思いますよ」
 分かっている。それでも、こうしなければ別の『モノ』に溺れてしまう。それが何よりも恐ろしい。
「……何があったのかは存じ上げませんが……あまり、無茶だけはしないでくださいね」
 いたわりの言葉と共に、今一度瓶とグラスが出された。手酌で注ぎ、一息であおる。喉を滑り落ちていく冷たい液体は、いつしか強烈な熱でもってそこを焼いた。
 今日、自分は、子どもを殺した。同族の娘を、この手で殺した。槍から這い登ってきたそれを、かき消したくて仕方が無い。
 目を閉じる。額を押さえる指には硬い金属の重みしかない。倒れた少女の身体を支えたはずなのに、だくだくと流れる血の温度や、徐々に失われていく温もりを感じることは一切できなかった。
 今日、自分は、子どもを殺した。あれほどまでに求めていた、同族の仲間を、殺したのだ。

* * *

 歓声が嵐のようにとどろく中、息を切らしてディルは立ち尽くしていた。生身の身体を鈍い痛みが包んでいた。鋭い爪でえぐられた胸もとからは、未だに血が止まらない。全身から汗がにじみ出している。ぜえぜえと耳障りな音がまとわりつく。自分の呼気であることは嫌というほど理解していた。握り締める愛用の槍の穂先から、粘ついた液体が滴り落ちていく。
 司会の少女は目を見開き、泣きそうに顔を歪めていた。何を言っているのかは聞き取れない。拡張器を握る手は細かく震えて、力の入れすぎで白く変色している。先ほどの明るい実況が嘘のようだった。
 その視線の先、己の足下、倒れ伏した少女が一人。鮮やかな紅の髪は、自らの体からにじむ紅に浸されている。ぴくりとも動かない。
 司会の少女が唇を震わせる。獣の瞳が捉えたそれは、確かにアニス、と言っていた。倒れ伏した小柄な身体は、先ほどまで自分に襲い掛かっていた者とは思えぬほどに華奢だった。力なく放り出された腕も、痛々しいまでに細い。
 少女は、獣と化していた。飢え、猛る獣と化して、その牙と爪を惜しみなく向けてきた。同族だと気付いたときには、胸もとから血がしぶいて――死ぬ、と。思った。思った、ときには。頭の中で何かがはじけた。身体の奥が熱くなって、殺戮への期待と歓喜が駆け巡って、それから――
 気がついたときには、もう何もかもが遅かった。ただ思い返せるのは、少女の薄い肉体を貫いた、あの嫌な感触ばかり。今更、手が震えた。足も、かろうじて立っているのがやっとだった。
 広がりゆく紅に、白い指が濡れている。その指先が、かすかに動いた。とどめを刺せと、未だ荒れ狂う獣が囁く。頭を抱えてそれを宥め、食い入るように少女を見つめた。
 がくがくと痙攣を繰り返している。死が彼女をさらおうとしている。にも関わらず、彼女は身を起こそうと足掻いていた。
「お、にい、さん」
 未だ止まぬ大歓声の中、少女の言葉が切れ切れに届いた。ディルはとっさに膝をつき、少女の背に手を差し入れて抱き起こした。失われていくだろうその体温ですら、金属の腕はつかんでくれなかった。
「……なた、……グラヴェ……なの、ね……そうい……、におい、するわ」
 胸から流れる血液が、少女のまとう衣服を汚した。拭ってやりたくても、己の固い腕ではそれも躊躇われた。
「そうだ」
 目が見えないのだと、悟った。だからうなずかず、久しぶりに声で返した。
 少女が笑う。穏やかな笑みであった。
「……よか、った。やっと、あえ、た……うれ、し、い、おにい、さん……あり、がと、……とっても、苦しかっ……た……から」
 見れば、髪に隠れた少女の片目は無残につぶれていた。血にまみれた腕も、その片方は自分と同じ義手であった。
 こんな状態になって、見せ物のように扱われて、それでも少女は待っていた。自分を――散り散りになった仲間を待っていた。
 意識を保っていたら。せめて、荒れ狂う闘争の本能を押さえ込めていたら。彼女のことを、助けられたかもしれないのに。
「っ、……すまない」
 零れ落ちた謝罪を、少女は笑って受け止める。
 嗚咽はかみ殺した。今ここで泣いても、少女の傷が癒えるはずがないのだから。
「いい、の……ビエニス……もう、治せない、から……パペルのこと、傷つけ、そう……なって……パペル、いるの……ごめ、……ありがと、楽しかっ……大好きよ」
 華奢な身体を、抱きしめる。これだけ望んでも、これだけ願っても、最期の温度すら感じることすらできない。忘れないように記憶に刻みつけることすらできない作り物の腕を、これほどまでに恨めしく思ったことはなかった。
「……必ず伝える」
「おにい、さん、……あ、ありが、と……他の、仲間のこと……」
 よろしくね、と囁いて、少女は二度と動かなかった。再び抱きしめても、消えていく命の温もりを感じることはできなかった。
 歓声はいつまでも止むことはなく、雨のように降り注いでいた。

* * *

 あれだけ捜し求めていた仲間を、殺した。
 親友の少女の目の前で、殺してしまった。
 血に濡れたこの腕は、血に飢えたこの身体は、仲間を求めることすら許してくれない。
 同族を前にして感じたのは、戦いに対する拒絶より――殺し合いができるという、悦びだった。
 バレリアンは獣を祖とする。強い敵と戦う際に血が騒ぐのは、どうしたって仕方が無い。
 だからこそ、狩りで全て発散されるようになっている。獣の本能を発揮して獲物を狩り、それ以外は喧嘩で済ませる。それでよかった。自分もそうだったのだから。
 いつからこうなった。いつから、満たされなくなった。いや、分かっている。四肢を落とされ、発作を抱え込むようになってから、だ。
 血の臭いに酔い、肉の味に酔い、砕ける命の感触に酔う。ひどい目眩と吐き気を覚えるのに、その衝動が止まらない。
 手探りで瓶を探す。こつりと音がし、一拍の間の後落下して割れた。中身が無残にぶちまけられ、磨かれた木の板にしみを作る。麻痺し始めた鼻の先を、濃厚な酒の香りがかすめていった。
「旦那、大丈夫ですか」
「すまん……」
 ため息と共に漏れた声は、自覚できるほどに酒の臭いがした。泥酔している、と言ってもいい。そう、これほどまでに酔わなければ、もはや気を紛らわせることすらままならない。あの臭いを、味を、感触を、――衝動を、消し去ることができないのだ。
 酒は元々好きだったが、ここ数年では発作が終わる度、浴びるように飲んでいる。悪癖だと分かっているが、他にどうしようもなかった。
「大分、酔ってらっしゃいますね」
「……ん、……」
 傾く肩を主が支える。槍が倒れて凄まじい音がした。店内の視線が、こちらに向けて注がれる。
 その最中。ほの明るい店内に、目蓋を射抜く金がゆれた。
「あっ、ディルさんっ」
 ついでひょこりと顔が覗く。雇用主の専属給仕、機械人形の娘だ。安堵したような、困ったような表情でこちらを見ている。
「探しましたよ……あの、ちょっとよろしい……」
 少女の声が、ぶれた。それから少し遅れて、右の側頭部に痛みが走る。受身も取れずに椅子から転げ落ちた。背中を打ちつけ、息が止まる。胸もとの包帯を踏みつけられ、傷口が開くのを嫌でも実感した。
「何勝手に金譲渡してるのさ」
 冷たい音は幼い。明らかな侮蔑を含む夕日の瞳は、温かな色にも関わらず温度を感じられなかった。
 クラーリー=スクラレア。雇い主。
「何……の」
 目眩がひどい。呼吸がうまくできない。突き飛ばされたのだろう、店の主人が慌てて背中を撫でてくれる。
「とぼけないでよ。さっきそこに、あの司会が来てた。そこで話を聞いた。お前さ、賞金の半分をやっちゃったんだってね。最後の対戦相手の葬式代と墓代だって」
 霞む意識で何とか思い出した。
 アニスの友人――パペル、パペリッチだったか。白い衣装を身にまとう、司会の少女。退場するその一瞬で、受け取った金の半分を彼女に押し付けた。手に掛けた同族にできる償いは、本当にそれだけだったのだ。
「僕の所有物の癖に、勝手にそういうことされちゃ困るんだよねえ」
 踏みにじられた箇所から血がにじむ。身体が重く、ひどく熱かった。汗が顎を滑り落ちていく。
 これは自分が闘技場に出たからこそもらった金であって、彼のものではない。その理屈は通らない。その道理を通すなら、自分が出ればよかったのに。
 やはり彼は幼すぎる。仮にも天才であるのならば、もう少し冷静になって考えたらどうだ。
 ぼんやりと彼の顔を眺めていると、不意に笑いが零れた。
「何笑ってるのさ!」
 圧力がさらに増し、傷が今更痛み始める。
「ご主人様!! おやめくださいまし!!」
「アーティ、離せよ! こいつ、僕のことを笑ったんだぞ!! 大体、たかだか下等生物が一匹減っただけじゃないか! そんなのに墓だ何だって馬鹿じゃないのか!!」
 ――その、言葉は。同じ仲間を侮辱するのは、許せない。
 全身のばねを用いて立ち上がり、幼い少年の胸倉をつかみあげた。少年の顔が、驚愕と恐怖で硬く強張る。
「ふざけるな!!」
 店内が、水を打ったように静かになった。
「俺の仲間を侮辱することは、たとえ貴様が主であっても絶対に許さない!! 自分の味方ですらそのような扱いをする貴様なんぞに、下等生物呼ばわりをされるいわれなどない!!」
 少年の瞳には、薄っすらと水が溜まっている。今にも泣き出しそうな表情で唇を震わせていた。
 その唇が、かすかに動いた。
「……っ、お前、なんかっ……! 野垂れ死に、すればっ、いいんだっ……! この、下等生物……!」
 目の前が一瞬紅く染まった、気が、した。思わず片手を振り上げて、
「ディルさんっ……! お気持ちは分かりますけれど、どうか……!」
「旦那、無理はよくありません! 傷口が開いていますから!」
 両脇からの静止に、我に返る。瞬間、先ほどよりもひどい目眩が襲ってきた。胸倉をつかんだ手を外し、同時に体勢を保てず座り込む。傷口が燃えるように熱い。酒が急に回ったのだろうか、身体全体が妙に火照り、嫌な汗をかいている。
 荒れる呼吸を押し込め、今一度少年をにらむ。少年は咳き込みながら、給仕の少女に支えられてこちらをにらみ返していた。
「……ディル……お前っ、どうなるか分かってるだろうな!」
 そんなの、分からなくていい。店主の肩を借りて立ち上がる。二階を使いますか、との言葉に、了承の意を込めてうなずく。
 彼のいる宿には、戻りたくない。不快感もあるが、それ以上に――箍の外れた自分が、彼を殺してしまうのではないか、それが恐ろしくもあったのだ。
「ディル! また勝手な……!」
「ディルさん、あの……っ」
 階段を上る背中に、アーティチョークの声が届く。
「パペリッチさん、でしたか? 明日、あなたにお礼が言いたいそうなので……その、もしお加減がよろしかったら、明日の朝……宿にいらしてください」
 お大事に、とつけ加え、それきり言葉は途切れた。わめく少年を引き連れて、彼女は出て行ったらしかった。叫び声は遠ざかり、少しずつ戻ってきた喧騒に溶けて消える。
「……大丈夫ですか」
 力なく、うなずく。表現できぬ感情が胸にせりあがってきて、ひどく苦しかった。

(2009.7.26)


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