Importante Esprit
第五章


 にぎやかな人々の声が、風に乗って耳に届く。かすかな音を聞き分けて、現時点からの距離を測る。あと一時間もすれば、規模の大きな都市にたどり着くはずだ。
 もうすぐですよ、と主に言葉を向けようとして、アーティチョークはふと思いとどまる。その代わりに軽く首を傾け、背後の様子を窺った。
 幼い主と傭兵が、後ろを並んで歩いている。主は不機嫌そうに天を仰ぎ、傭兵は大地を踏む自分の足先を見つめている。出発してから一度も口を開かず、ただひたすらに黙っていた。
 アーティチョークが先に立っているのは、今は無き過去の名残である様々な機能を活用するためだ。しかしそれ以上に、あの二人の間に入りたくないからと言ってしまっても、あながち間違いではない。
(私もやりすぎでしたけど……)
 色の白い彼の頬は、たたいた部分だけがまだ紅い。時折細い指で撫で、顔をしかめている。ある程度加減はしたのだが、未だに痛みが残っているようだった。
(でも、私は間違ったことはしてませんです)
 主を殴るなど、本来ならば許されない。しかし、それをあえて破ってでも教えたかった。
 悪意を持って紡がれた言葉が、どれだけ他人を傷つけるのかを。悪意が無かったとしても、何気なく放たれた言葉で傷つく人がいるということを。たとえそれが目に見えなくても、傷を負った人がどれだけ苦しむのかを。言ってよいことと、言ってはいけないことがあるということを。
 今度こそは聞いてくれるかもしれない、思いなおしてくれるかもしれない――そんなささやかな期待と希望を込めて。
(人間は、変わることができるです。私だって変われたです。だから御主人様だって変われます)
 そう胸中で呟いてから、アーティチョークは一つ瞬きをする。
「……あ、れ?」
 自分は機械人形。性格は作られて与えられたもの、本来ならば無くても構わないものだ。主が望めば、この性格を取り替えることもできる。だが、彼の元にやって来た日から一度たりとも変更をしたことは無い。
 ならば、引き出した答えの根拠は何か。一体どうして『変われた』という答えが引き出されたのか。ひどくあやふやで曖昧なものでありながら、絶対にそうだと自信があるのは一体どうしてなのか。
 アーティチョークはしばらくの間情報を弄び、それに基づいた思案をしていたが、答えが出ないことに気づいてそれらを中断する。これもまた、失われた記録に関係があるのだろう。ならば、現時点において自分ができることは何もない。
 雨はいつしか止み、もやの向こうに巨大な門が見えてくる。
「もうすぐですよ、ご主人様」
 背後の主人に声をかければ、返事の代わりにくしゃみが聞こえた。

 さざめく喧騒は、心地よく頬を撫でていく。石造りの建物が立ち並ぶその隙間を縫うように、人々が市場を広げていた。使い古した絨毯の上に珍しい品を並べ、覗き込む人々へ陽気に話しかけている。
 ここエストルは、世界中を旅する商人(クロクス)たちの立ち寄る交易の街である。ロゼヒップ領国の主要都市であり、領国の首都でもある。人口およそ十五万人前後。一年を通じて訪れる商人たちを含めると二十万人を超える。もっとも、この情報は五年前のものだ。多少の誤差は生じているはずである。この賑わいを見る限り、五年前よりも人口が増えていることは明らかだ。
「すごいですねぇ」
「ま……これでも首都だからな。一番小さい領国の首都なんて、たかが知れてるけど」
 尖った声で言い捨てる主の口を慌てて塞ぐ。幸い喧騒にかき消され、誰も気に止めていないらしかった。
「ところでご主人様、情報の上書きをしたいので、ちょっと街を見学したいです」
「上書きね……それくらいならいいか。お前にしちゃ珍しく実のあることを言ったな。珍しい」
 よほど珍しかったのだろう、クラーリーはやや感心したように繰り返す。そういう主自身も、街中の様子に好奇心を刺激されたらしい。ぐるりと周囲を見回し、二度三度うなずいた。
「暇つぶしには丁度いいだろう。お前が勝手な行動をしないように付き合ってやるよ」
「ありがとうございますー」
 ディルさんは、と視線を移す。ディルは軽く肩をすくめ、首を振った。
「そっちにいる。気が乗らん」
 低く短い言葉を残し、そのまま酒場へ歩いていく。こちらを振り向くことは、一度もなかった。
「あー、行っちゃいましたー……」
 できれば彼にもついてきてほしかったのだが。指をくわえてその背中を見送っていると、クラーリーが小さく鼻を鳴らす。
「また勝手に行動しやがって……下等生物のくせに、誰が主か分からせないと……あとで逆らえないくらいの痛い目にあわせてやる」
 回路の奥が焼ける音がして、自然と眉が寄っていく。
 やはり理解してくれなかったのか。これほどの頭脳を持っていながら、どうして理解してくれないのだろう。それとも理解したくないのか。いずれにせよ、話を聞いてもらえない、理解してもらえない悲しさというものは、これほどまでに気力を奪うものなのだと改めて思い知る。機械人形の自分がそうなのだから、ディルのやるせなさは――『彼』の絶望は計り知れない。
 頭蓋の奥が、音を立てて動いた。気がした。
「あ、れ」
 今何かが紛れ込んだ。『彼』とは誰のことだろう。懐かしい温かさを持つその三人称は、一体自分のどこから検索されてきたのだろう。『彼の絶望』とは、一体何を意味するのか。共通項を見出して結びつけるほど、それが残っているというのだろうか。
「……アーティ? おい、行くんじゃないのか」
 いぶかしそうな金色の声に、暗い場所に沈みかけた意識が引き戻された。どこか戸惑った眼差しで、クラーリーがアーティチョークの袖を引っ張っている。彼がもっと小さかった頃の仕草と同じだ。やはり彼は、根本的なところが変わっていないのだろう。
「あ、ごめんなさいです……ちょっと、情報の混乱があったみたいで」
「おいおいしっかりしろよ。お前はこの大天才の給仕なんだからな、そこのところ自覚してくれないと困る」
 小さな手が離れる。それを少し寂しい心地で眺めてから、アーティチョークは一つ頭を振った。
 記録の混乱と分析は、優先順位はさほど高くない。時間があればいくらでもできる。だからこのことは、もう少し後になって考えよう。今は宣告したとおり、情報の更新をしなければ。
 人間がよくやるように、自分の頬を一つ張る。激しい音と同時に、視界がぶれるくらいの衝撃が襲ってくる。人間は本当に器用だと改めて実感した。なかなか加減が難しい。下手したら起動できなくなってしまう。今後は控えることにしよう。
 学習したことをしっかり記録に残してから、アーティチョークは満面の笑顔を主に向けた。
「さ、お待たせしましたご主人様!」
「な……なんだよ」
 何かを察知したらしく、主の体がじりじりと後ろへ下がっていく。そこを逃さないよう、素早く腕を拘束した。
「楽しいエストル見学に、いざしゅっぱーつ! ですー!」
「ちょ……ま、ひ、引っ張るな!! 抜ける、腕が抜けるぅぅ!!」
 主の叫びが尾を引いて、後ろに流れていくのが分かった。



 露店は見えていた以上に多くの品物が並んでいた。食べ物や果物、丁寧に磨かれた宝石に、大粒のそれらをあしらった装飾品。楽器や衣装、刀剣の類も並んでいる。どれもこのエグランテ大陸では見かけない、外の大陸からのものだった。
「あ、これ『ペリーラの涙石』ですね。……あれ、でもこれ、石の色が違うです」
 宝石の一つを手に取り、分析してみる。鉱物の成分なども概ね変化はないが、鉄分が多く含まれていた。通常の『ペリーラの涙石』ならば透明に近い水色だが、この石は燃えるような紅を宿している。
「よく知ってるねー。これは『涙石』の亜種でね、ガリカ大陸でも珍しいんだそうだ。これくらい美しい赤を持つ石を『ペリーラの情愛』と呼んでるんだ」
 なるほど。知識としてかろうじて知ってはいたが、『ペリーラの情愛』という種類になることは知らなかった。吟遊詩人の歌に好まれる悲劇の祈歌姫(ルピナス)ペリーラ――愛しい者を想う涙が姿を変え、彼女の心に燃えただろう恋の色と同じになる。だからこの石には、その感情の名がついているのだ。商人はそんなことまで教えてくれた。礼を言い、小さな魔よけの石を購入してから次に向かう。
 こうして商人と会話をしながら、新しい記録を更新し、書き換えていく。新たな事実を知るのは面白い。何度となく体験しても、新たな発見は新鮮な喜びを伴うのだ。人間の学者や魔術師が、学術や魔術を絶えず追求するのも分かる気がする。
「すごいですね、ご主人様!」
 はしゃいで振り向いたアーティチョーク、その視界に幼い主の姿は無い。
「はれれ?」
 慌てて周囲を見回して、さらに驚愕の事実を発見する。
 金袋が無い。確かにさっきまで握っていたのに。まさかすられたのだろうか。探すのは簡単だが、この人ごみでは追いかけるのも難しいだろう。
「どどど、どうしましょう……!!」
 うろたえて、アーティチョークは右往左往する。混乱し錯綜する指令を何とか制御しつつ辺りを見回せば、主の人より小さな頭がちらりとのぞいた。
「あっ! ご主人様ー」
 人を跳ね飛ばさないよう慎重に歩き、主に近寄る。丁度クラーリーは店主に金を握らせたところであった。細い手首には件の金袋がかけられている。
 見るからに怪しげな店だった。魔物の腕と思しき干物や髑髏、生きた瞳のようにぬらぬらと光沢を放つ、目玉に似た宝石をあしらった大剣。明らかに血であろうもので染められたドレス。机の上には山盛りになった何かの灰や蝋燭や黒焼きが置かれ、その隅には魔法道具が折り重なって放置されていた。
 クラーリーはどうやら、この山から何かを発掘したらしい。手に握られた白い布の端が、山の隙間から伸びている。
「お前みたいな奴も、なかなかいいものを持ってるもんだね」
「ひひひ。まいど」
 じゃらりと音を立てて金貨を零し、店主は隙間の空いた歯をむき出して笑う。
「ご主人様、何買ったですか?」
 ようやくアーティチョークに気付いたのか、クラーリーはああ、と手のそれを示した。
 純白の布に、留め具としてか手のひら大の宝石があしらわれている。金の台座に余計な装飾が一切無い。宝石の表面は綺麗に磨かれており、濡れたような光を放っていた。どうやら帯のようである。
「これを身体の前面に出すように……だってさ。幸運だったよ。この服、意外とだぶついてて不快だったんだよね」
 ぱちん、と小気味よい音が響き、それは主の腰に収まる。身を飾るための帯なのだろうが、宝石以外には余計な装飾品が何もない。その代わり、布も宝石も一級品であることは分かる。主の細い腰にそれが巻きつくことで、少々だらしない印象だったそこをすっきりさせた。
「いいものですねぇ」
「掘り出し物だったと思うよ。魔力増幅を図るためのものらしい。僕の類稀なる魔力をさらに底上げしたら、これはもう最強じゃないのかい?」
 いつになく主人は上機嫌だった。それから思い出したように、アーティチョークへ皮袋を渡す。すっかり軽くなっていた。
「あの……」
 なんだか、ちょっといやな予感がする。アーティチョークは幼い主に、そっとお伺いを立ててみる。
「その帯、おいくらだったのでしょう……?」
「ん? ああ、これか?」
 提示された金額は、アーティチョークたちが所持していた金額のほぼ九割であった。頭の中にある情報が、雷で一息に吹っ飛んでしまったような、それほどの衝撃が全体を走り抜ける。いや、実際に体験したことはないけれども。
「ご……ごご、ごっ、ご主人様……」
「何だよ、さっきから。面白い顔しちゃってさ」
 本気で分からないのだろう。クラーリーはきょとんとして首を傾げている。
「ど……ど……どうするですかぁ! この中にはですねっ、明日の宿屋代とか、食費とか、いろいろ入ってたですよっ! これじゃせっかく街にいるのに野宿さんですよぉー!」
 それはさすがに悲しいものがあった。自分だけならば全然問題はない。だが、繊細な神経のクラーリーが一緒なのだ。ただでさえ消耗が激しい彼のために、宿だけはせめてよいものを取りたい。が、街に滞在している間、簡単なお手伝いの積み重ねで溜めたお金が、一瞬にして帯一本に消えてしまったのだ。
 これからどうすればよいのだろう。クラーリーだけはせめて布団で寝かせてやりたいのに。
「ううう、どうしましょうっ、どうしましょうーっ」
 本日三回目、右往し左往するアーティチョークをしばらく眺めてから、彼はいとも簡単にその答えを口にした。
「闘技場で稼げばいいじゃないか」
 慣れない言葉が飛び出してきた。アーティチョークはうろたえるのをやめ、ぽかんとして主を見つめる。
「へ……?」
「あのなあ。ここエストルは、闘技場と領国内唯一の図書館があるところだぞ。記録にないのか?」
 呆れたように言われ、改めて検索してみる。確かにそれと合致する情報が見つかった。他のことに気を取られていたため、見落としていたようであった。
「も、申し訳ございませんです。あのー、それでその、闘技場で稼ぐとは……」
「全部説明するの面倒くさい。だからとにかくついてこいよ。登録して稼がせてやる」
 言うが早いか、クラーリーの小柄な身体は人ごみに紛れる。
「ま、待ってくださいよぅー」
 かすかにその流れから感じ取れる魔力を頼りに、アーティチョークは彼の後をついていった。

(2009.5.18)


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