Importante Esprit
第四章


 ご主人様、と、頭上からアーティチョークの声が降ってきた。眠気に浸る意識を何とか引っ張り上げ、クラーリーは近くに置いてある時計に手をかける。まだ朝と呼ぶべき時刻ではない。
「何だよ……人が疲れて寝てるところに……」
「ご主人様、ディルさんがいらっしゃらないんです! 探しに行きましょう!」
(そんなつまらないことで起こすなよ……気が利かない人形だな、ったく)
 ただでさえ寝起きで苛々しているというのに。眉間に力を込め、大きく舌打ちする。言外に漂う空気で気づいたのだろう、アーティチョークはうなだれて小さく謝罪した。
「ご、ごめんなさい……でも、ディルさんの気配がなくて……」
「放っておけよ。下賎な傭兵に構っていられるほど、僕は暇じゃないんだ」
「でも、ご主人様」
(まだ食い下がる気なのか、この馬鹿人形……いい加減にしろよな)
 クラーリーは再度舌打ちして、毛布越しにつかまれた腕を払った。温もりを残した毛布が一旦離れ、隙間から夜の冷たい空気が入り込んでくる。その感覚すら、今は鬱陶しい。
 苛立ったまま背を向けると、アーティチョークは言いにくそうに付け足した。
「……その、代わりに魔物の生体反応を感知したのですが……それも、両方危険度が高い魔物で……」
「何!?」
 慌てて跳ね起きて、火元を確認した。薪は十分に足されている。魔物は一部を除き、焔と灯かりを嫌う傾向にある。野宿をするときには火を絶やさない――『旅に出る君たちへ』12ページ目にあった言葉を頭の中で反芻しながら、念のために近くにあった枝を全部放り込んだ。
 音を立てて燃え上がるそれに少しだけ安堵して、アーティチョークを促す。
「魔物の種類は?」
「えぇと、これは竜(イレス)だと思いますです。おそらくは蛇眼竜(サーピュラム・イレス)さんです」
 蛇眼竜。眼光には特殊な力が宿り、目をあわせたものは身体の自由を奪われて丸呑みにされてしまうという。魔物のことを熟知する魔猟人(メドゥス)ですら恐れる、竜系の下位種だ。
「何だって!? 貴重な資料になるかもしれないじゃないか!」
 クラーリーの思考が一瞬で明瞭になる。種類を聞いた途端、眠気も吹き飛んでしまっていた。
 竜に関する資料は極端に少ない。魔猟人が学者から嫌われていることもあるのか、その生態系は紙媒体で残されていないのだ。くわえて竜は危険なこともあり、誰も調査に乗り出そうとしない。
 もしかしたら、という期待が膨らむ。若き魔術師でもあり、学者でもあるクラーリーにとって、この事実はひどく魅力的なものだった。
「それで、もう一つは?」
「そ、それが……分からないんです」
 アーティチョークは困ったように額へ手をやった。機械人形章(レム・キトルシーム)の辺りをこつこつと指でたたきながら、何度も首をひねっている。
「うー、うー、うーんと……獣系の魔物であることは間違いないですが……えーと、えーと、すごくすばしっこくて、うまく感知できないですよぉ」
「よし、じゃあ確かめに行こう。どの辺りだ?」
 外套を羽織り、立ち上がる。アーティチョークは呆然とこちらを眺めていたが、我に返ったのか慌てて外套の裾をつかんできた。
「ご主人様! そんな、すっごくすっごく危険ですよぅ!!」
「お前、さっきと言ってることが違うぞ。それに、ディルが近くにいるかもしれないだろ? 探しに行くんじゃなかったのか?」
「あ、あうぅ……」
 妙な呻き声を立てて、うるさい給仕係は黙り込んだ。全く、これだから頭の回路がことごとく切れている馬鹿は嫌いなんだ。クラーリーは大げさにため息をついてみせた。
 正直、あの傭兵のことはどうでもいい。探したければ勝手に探せばいい。それよりも蛇竜の何らかの調査見本が手に入れば、新たな発見があるかもしれないのだ。この機会を逃したら、次はないかもしれない。早く行かなければ。
 クラーリーは未だに呻いている給仕に向けて、催促の言葉を投げた。
「行くのか、行かないのか?」
「い、行きますですよ! ご主人様が危なくないように、アーティがお守りいたしますから!」
 雨の気配を見せ始めた空を眺め、念のため毛布を片付けて荷物を持つ。ディルの分の荷もまとめて担ぐアーティチョークに続き、探知機が示す方角へと足を急がせた。

 果たして、そこに蛇眼竜はいた。ただし、それが蛇眼竜だと気づくまでに少々の時間を要した。というのも、直視することすら拒絶したくなるくらいに酷い有様だったからである。
 もはやそれは生物の形を成していなかった。肉塊と呼ぶことすらはばかられる。詰まっていた中身をすべて外へ引きずり出され、体液もろともぶちまけられた、そんな状態であった。かろうじて蛇眼竜と分かったのは、残されていた微弱な波動をアーティチョークが感知したからである。もっとも、その発生源となる一つ目はえぐられ、虚ろな空洞と成り下がっている。
 雨が、降り出した。外套を頭から被り、端で口と鼻を覆いながら近くの木へと避難する。鉄錆の濃く不快な臭いは、雨の雫に打たれて少しずつ薄まっていく。
「あ、……」
 ふと、アーティチョークが短く声をあげる。指で示した場所に、誰かがいる。クラーリーは目を細め、それが見知った顔であることに気づいた。
 傭兵が一人、生き物だったものの前でうずくまっていた。天を仰ぎ、獣にも似た咆哮をあげている。
「ディルさん……」
 一体何をしているのか。契約主を差し置いて、こんな夜中に、雨の中で、死体の前で。
「ったく、どうかしてるよ……契約違反だぞ、繊細な主を単独で置いていくなんてさ。あいつ、頭おかしいんじゃないの? あーあーしかも貴重な蛇眼竜がずたずただよ……これじゃあ採集すらできやしないじゃないか。どうしてくれるんだろ」
 彼女は沈黙したまま、外套越しにクラーリーの肩を抱いている。返答が無いことに苛立ち、クラーリーは肩に置かれた腕をつかんでにらみあげる。
「こんな夜更けに主を単独で置いていって、あの馬鹿は頭がおかしいんだよ! こんなところで無駄な時間使ってる暇があるなら、さっさと帰って僕のために寝ずの番をするのが当然だろう!? あいつは僕のものなんだ、勝手に意思を持たれて動かれちゃ困るんだよ! そうだろう、アーティ!」
 魔術師が接近戦に向いていないことなど一目瞭然。くわえて自分は、万が一に襲われた際に守られるべき主なのだ。決して離れずに身を挺して主に尽くすのが、護衛という仕事ではないか。最初に契約を結んだとき、あの男は自分の所有物になることを承諾した。それなのに、所有物が勝手に行動するなんて、どこからどう見たって正常ではない。
 だが、クラーリーが主張を口にした瞬間、アーティチョークの表情が硬くなった。まるでこちらの言い分が悪いと非難するような、険しい色を帯びている。それだけではない。夕暮れ色の瞳をつりあげ、唇を震わせてにらみ返してきた。
「ご主人様……! あなたという方は、何ということを……!」
 どうして言葉の意図を理解しようとしない。どうしてこちらの主張が正しいと認めない。クラーリーの心を、激しい怒りが侵食していく。
「何だよその顔は! お前は僕の給仕係だろ!? 僕の言っていることの半分も分かってないくせに、それなら黙ってうなずいてればいいんだよ、この出来損ないの欠陥人形!! お前らはただ僕の言うことを聞いて、僕の望むとおりに利用されていればいいんだ! 生きる価値のない下等生物共のくせに!!」
 アーティチョークの目が見開かれ、次いで手が振り上げられる。
「僕を殴るのか、この――」
 クラーリーが新たな言葉を発するその直前に、双方のどちらのものでもない言葉が滑り込んできた。
「そこで何をしている」
 男の声だ。単語の一つ一つまで明確に聞き分けられるほど、はっきりとした発音をしている。しかし、声に感情を聞き出すことはできない。普通の機械人形にも似た、平坦な喋り方だった。
 白銀に輝く鎧に、雨の雫が伝って落ちている。羽織った外套の色も、目元を覆う仮面の色も、全てが白を基調にしたものになっていた。袖口には紅の糸で縫い取りがされているが、周囲の暗さも相まって何が書いてあるのかは読み取れない。腰には刀身が長く広い、大剣と思しきものを提げている。
 焔を写し取ったかのように鮮やかな髪に、声と同じく感情が窺えない萌芽の瞳。整った顔立ちはどちらかと言えば優しげであったが、どこか人間とは異なる荒々しさを包括している気配があった。
 全く見知らぬ第三者を前にしてまで、言い争いをしている場合ではない。クラーリーは一旦怒りを胸の内へ押し込み、男のほうに向き直る。
「そういうあんたこそ誰? っていうか、まずそっちが先に名乗ったらどう? 大天才であるこの僕が先に名乗るなんて、馬鹿馬鹿しくてできないし。身分の低い下等生物が先に名乗るのが礼儀ってもんでしょ?」
 男はしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。笑ったのかと思ったが、表情は全く変化していない。
「なるほど。お前の中ではそういうことになっているのだな。ならば今は、それに従ってやるとしよう」
 強調された言葉が、ひどく癪に障る。文句を言おうと口を開いたとき、男はそれを遮るように声を重ねてくる。
「私の名はヘルバー=バローナ。カレンドラの天主騎士(ヴァリエガータ)」
 予想もしなかった単語に虚を突かれ、クラーリーは唖然とする。
 その名の示すとおり、天主騎士は本来神の傍仕えをする騎士のことを指した。神々が自分たちの国へ帰った後は、領主のことを神に見立ててそう呼ぶ。だがこの男は、どう考えても領主のことを示しているようには思えない。ガルデニア領国内にあるとはいえ、その通りならばガルデニア領国天主騎士と名乗るはずだ。一体なぜ、わざわざカレンドラの名を出したのだろう。
 そこまで考えが至った途端、クラーリーは再び言葉を失った。
 カレンドラは『天空に最も近い都』。ありとあらゆる知識が集まり、ありとあらゆる技術が集まる最先端の都市。大陸最大の規模を誇るガルデニア領国ですら、既に支配権を手放している場所。つまり一つの都市でありながら、一領国に匹敵する規模と権力を持って機能し、一点に留まっていながら、世界に影響を与えることすらできる場所ということになる。領主よりも地位の高い者、それは即ち神以外に他ならない。
 神を抱きし永遠の都――神の住まう都、その天主騎士ということは。
 男は腰の剣を引き抜いた。艶かしい光を放ちながら、鋭い銀は雨の雫をその身に受ける。
「私は『神の代行人』。神に選ばれし代弁者。神の御許に君臨し、神の御意思を具現化する者」
 そして銀は、クラーリーへと向けられる。アーティチョークが警戒して素早く構えるが、男はそれ以上動かない。
 やがてゆっくりと、言の葉が紡がれた。
「クラーリー=スクラレア。神の命により、貴様を抹消する」
 銀は鈍く光を放ち、真っ直ぐに伸びてクラーリーの喉を狙っている。
 雨は止むばかりか、ますます激しく降りしきるばかりだ。雫の合間を縫う小さな嗚咽の方角を気にするように、男は時折視線をやっている。にも関わらず、射るように鋭い気配はこちらへとどめられたままだった。この男、こちらの動向を余すところ無く観察している。
 気に入らない。観察することは好きだが、観察されるのは嫌いなのだ。こちらが見下されるのだけは、どうしたって我慢できない。
「それで――カレンドラの天主騎士様が、何でこんなところにいるんだよ」
 クラーリーは男に問い掛ける。
「御意思以外にも、私には目的があった。それを片付けるためだ」
 淡々と、とつとつと、ヘルバーは語る。片手で持つことが難しいはずの大剣を軽々と持ったまま、クラーリーをひたと見据えている。生き物と思うにはあまりに感情の見えない、無機質な輝きをしている瞳だった。
(機械人形みたいだな……気持ち悪い……)
 不気味なまでに表情のない眼差しに、クラーリーは悪寒を耐えられない。まるで機械人形が相手を識別し分析するときの目を思い出す。決して気持ちのいいものではなかったが、まさかこんなところで――しかも生きている動物からそんな印象を受けるとは思いもしなかった。
 何となく目を合わせるのが嫌で、剣の切っ先を見る。曇り一つない銀色の先を、透明な雨の雫が滑り落ちていく。
「で、目的は何?」
 突き刺さる相手の視線を受けながら、クラーリーは男に問い掛けた。


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