Importante Esprit
第四章


「バレリアンという種族を知っているだろう」
 質問を質問で返すのか。礼儀がなっていない、と内心で嘆息しつつ、答える。
「知らないわけがないでしょ。獣を祖とする、別名『獣眼の民』。個体に危険が迫ると、理性を捨てて獣としての能力を解放する一族だって聞いてるけど……その凶暴性が危険だってことで、十五年前に集落一掃作戦が決行されてから、大分数が少なくなったみたいだね」
 肉食獣を祖に持つゆえか、男女問わず戦いを好む。いわゆる戦闘民族という奴だ。ここエグランテ大陸の東西南北に小さな集落を構え、西の一族は人間に最も近く、北の一族が獣に最も近いという。獣の血が濃い北の一族は、犬歯や爪も常人より長く目立つらしい。
 書物で得た知識ではあるが、たまたま興味があった部分をざっと読んだだけだった。今思うとそれが悔やまれてならない。確かまだ本棚のどこかにあったと思ったが。あとで引っ張り出して読んでおくか。
 意識を深く潜らせていたクラーリーに、カレンドラ天主騎士の硬い声が投げられる。
「私の目的は、あの男を――ディルを連れて行くことにある」
 意味が分からない。クラーリーは眉間に力を入れ、鼻を鳴らした。
「簡潔にその理由を述べてよ」
「あの男の持つ病が危険だということだ」
 ますますもって意味が分からない。
「病?」
「お前も見ただろう。無残に切り裂かれ、臓腑を食い荒らされ、ただの肉塊となった竜の姿を」
 鼻はもう当の昔に麻痺してはいたが、木陰の向こう側に未だ放置されているはずの肉塊を思い出した。再び胸の辺りが不快感を訴え、胃がかすかに痙攣して痛む。足下がふらついて、情けないことにアーティチョークに支えられた。湿った外套を口元に押し当てて吐き気を堪え、男をにらみつける。
「最悪……思い出させるなよ」
「あの殺戮衝動は『ビエニス』という。バレリアンの持つ、一種の発作のようなものだ」
 クラーリーへの気遣いすらせずに、ヘルバーは一度音を立てて外套を翻す。水分を吸って重くなった布が、吸いきれなかった雫を周囲へと散らした。
「ビエニスは、身体の欠如によって起こる原因不明の衝動のことを言う。肉体の一部分が少しでも欠損すれば発症し、治療法は皆無だ。知っているか」
 これは初耳だ。考えてみれば、バレリアンに関して調べているという研究者も、記憶にあるかぎり存在しない。書物に書いてあったことは、一般的な知識でしかなかった。うまく聞き出せば、専門的な資料になるかもしれない。
 クラーリーは顎を持ち上げ、無言のままに先を促す。
「軽度の者ならば、狩りの際に獲物を率先して傷つければ治まる。しかし重度の発症者は、相手の臓腑を喰らい、血を啜り、原型を留めぬまで自らの爪と牙で裂かねば治まらない。精神にも重度の負担をかけ、結果的に狂い死にする。そしてビエニスの症状が濃く現れるのは、祖先に最も近い北の『グラヴェオル』の一族だ」
 木陰の向こうから聞こえていた咆哮は、いつの間にか止んでいた。静まり返った夜の闇に、ただ雨の音ばかりが響いている。男はディルがいるだろう方向へ今一度目を向け、言葉を継いだ。
「あの男は手足を義肢で、左目を義眼で補っている。あいつの身体の大半は、血の通わぬ作り物なのだ」
 クラーリーの脳裏に、機械人形の手足が浮かぶ。鈍い蒼色をした義肢、作り物であることくらい一目瞭然である。左目のことは初めて聞いたが、そういえば時折髪の合間から見えた左目は、右目と異なる鈍い輝きしかなかった気がする。焦点も合っていなかったが、なるほど、義眼だったのか。
「たとえどれだけ作り物で補っていようとも、所詮それは作り物。欠けていることに変わりはない。あれだけ激しい身体の損傷を受けていて、ビエニスが軽度で済むわけがない。その結果があれだ。人間と行動させるには危険すぎる」
 指し示されはしたが、クラーリーには二度も見る気がなかった。示される指を無視し、頭にかぶった外套のずれを直して考える。バレリアンについてはよく分かった。ことに殺戮衝動『ビエニス』については、研究者としても大いに満足できる内容だった。
 しかし同時に、研究者としてはもっと調べたい。珍しい義手に義足を持っていて、数が減ってしまったバレリアンで、書物には書かれていない『ビエニス』という症状を持っている。貴重な研究資料がさらに貴重になった。これはもう、簡単に手放すわけにはいかないではないか。
「だからあいつを連れて行きたいってわけね」
 クラーリーは前髪をかきあげ、鼻で笑ってみせる。男は相変わらず、無感情にクラーリーを眺めていた。
「はいそーですかそれじゃあ危ないのでぜひ連れてってくださいな、ってなると思った? 僕は魔術師で、学者だ。研究者なんだよ? 研究材料を勝手に持っていかれるのは困っちゃうなぁ。ましてや貴重なバレリアンの発症事例なんだし、珍しい義肢つけてるし、重要な資料になるんだから」
「ご主人様……!」
 アーティチョークが小さく声をあげた瞬間、男が初めて目の表情を変えた。萌芽色の瞳が険しくなり、強く鋭い光が燃え上がったのだ。
「……なんだと?」
「だーかーら。僕の所有物を勝手に持っていかれちゃ困るって言ってるんだよ」
 事実を言っているだけだ。何をそんなに怒るのだろう。クラーリーは腕を組み、こちらをにらむ男をにらみ返す。
「僕みたいな大天才の考えることが、下等生物に分かるとは思わないけど。この僕が研究してあげることに意味があるんだよ。僕の研究は、他の誰よりも深くて詳しいところまで届いている。上辺だけ研究して満足するような奴らに、こんな面白い研究材料渡せないでしょ? だから僕が研究して『あげる』んだよ。役に立たない下等生物どもに研究されるより、ずっと有効な使い方してあげるよ」
 ヘルバーが大剣を一つ振る。風を切る音と共に、鈍い銀が闇を裂いた。
「――たった今、理由が増えた。お前のような人間の下に、あいつを置いておくわけにはいかない」
 地を這うような低い声に、あからさまな怒りが聞いて取れた。
 理解できない。なぜそこまで怒るのだろうか。ただ他の奴らよりもずっと有効に、あの傭兵を活用できると言っているだけなのに。この自分が、大天才クラーリー=スクラレアがわざわざ、バレリアンという種族のこともビエニスのことも、全部無償で調べつくしてやると言ってやっているにも関わらず、だ。
(だいたい、下等生物のくせに何で僕に偉そうな口利いてるのさ!)
 そこが一番腹立たしい。自然に口調が尖り、攻撃的になる。
「お前何様? 僕は雇い主で、あいつは雇われてる身分なんだよ。僕が所有者なの。所有者が所有物をどう扱おうと所有者の勝手でしょ。それ以前に、この大天才クラーリー様に偉そうな口利かないでくれる。下等生物のくせに、高位の人間様に盾突く気なの?」
 ヘルバーがすいと目を細める。そのくせ、瞳の光は弱まるばかりか強まる一方だ。反抗などを通り越し、殺意すら浮かんでいる。
「自分の立場が理解できていないようだな、クラーリー=スクラレア。お前は確かに絶対の力を持っている。しかし今は罪人だ。罪人に対してへりくだることなど、私にはできん」
 吐き捨てられた意外な言葉に、クラーリーは三度驚かざるを得なかった。今目の前の男は、確かに『罪人』と言った。誰を指しているのかと問われれば、それは間違いなく自分のこと以外に他ならない。
「……何だって?」
 それは一体どういう意味なのだ。なぜ罪人と呼ばれなければならないのか。問いを口にする前に、男は剣を持ち直して構える。既に肩から、否、全身から殺意と怒りが立ち上っている。
「私は『神の代行人』。神の御意思を遂げるため、そして私の目的を果たすため。過ちの種は芽を出さぬうちに潰す――覚悟」
 アーティチョークがクラーリーの前へ躍り出るが、それ以上にヘルバーのほうが早い。アーティチョークへ蹴りを放ち、あっという間に吹っ飛ばす。小柄な給仕係が大地にたたきつけられたのと同時に、男が剣を振りかぶるのが見えた。
 飛び退ろうとしても間に合わない。この距離では防護壁を張ることもできない。駄目か。
 思った瞬間、金属同士がかみ合う甲高い音がした。背の高い男が、天主騎士と自分の間に入り込んでいる。
「ディル、邪魔をする気か」
 傭兵のたくましい背中が、クラーリーの目の前にあった。先ほどまでうずくまっていた者とは思えない。槍を横に倒し、その柄で剣の刃を受け止めていた。
「そうまでしてその人間を庇う理由は何だ。哀れみか、それとも情けか、庇護の対象と認知したか」
 剣を退かないまま、ヘルバーは問い掛ける。戸惑っているのか、それとも焦れているのか、先ほどの単調さはなくなって早口になっていた。
「違う」
 ディルは低く、返事を返す。
「では何だ!」ヘルバーが怒鳴った。あわせて剣を払い、後退して間合いを取る。「貴様の動く理由は、昔から感情的なものだった。それ以外の何がある! 答えろ、ディル!」
 沈黙が降りる。よく見れば衣服のあちこちが破れ、全身から血の臭いがしていた。手袋ははめておらず、拳の形を作る機械人形の手が覗いている。
(重度の『ビエニス』持ちのバレリアン、か――)
 クラーリーは胸中で呟いて、槍を握る作り物の手へ視線をやった。滑らかな蒼鈍色の金属が、雨に濡れて光沢を放っている。
(しかも貴重な時代の機械人形の手足を持っている、と)
 これは面白いことになってきた。自然と口元が緩む。大図書館のあるエストルに着いたら、そこでいろいろと調べ物をしてもいいかもしれない。
 そこまで考えたとき、ディルがぼそりと答えを落とした。
「俺は、雇われた。雇われたならば、その契約を全うする義務がある。それだけだ」
 淡々と紡がれた言葉に、少なくとも相手は驚いたらしい。再度沈黙が生まれたが、すぐにヘルバー自身の手によって拭い取られる。
「それだけか」
 ディルはうなずく。
「そうか」
 ヘルバーもうなずいた。それからクラーリーのほうへ向き直ると、剣を鞘に収める。瞳に宿っていたあの光は、もう失われていた。
「今回は退いてやろう。過ちの種、神の真実が暴かれる前に、潰す。覚えておけ」
 機械人形のような声音でそう言うと、彼は懐から小さな石を取り出す。カルダが使っていたものに酷似した、あの黒い石だ。
 彫り付けられた文字から紅い光が漏れ、次の瞬間にはヘルバーの姿は跡形もなく掻き消えてしまっていた。


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