Importante Esprit
第六章




 疼痛がする。主に頭、それから胸元と、義肢をはめた関節部分。うずくそれを動かして、ディルは額の寝汗を拭った。
 薄い窓布からは蒼い光が漏れている。太陽は出ていない。硝子の外は朝もやがかかり、昼の喧騒が嘘のように静かだった。鐘の音がする。五つ、鳴った。部屋の扉の向こう側も、しんとしている。階下の物音は、おそらく店主が下準備をしているからだろう。
 身支度を整える。朝の冷気に冷やされた腕が軋んだ。彼らはもう起きただろうか――そんなことを考えたとき、控えめに扉を叩かれた。
「もし……あの、ディルさん、起きてらっしゃいますか」
 機械人形の声だった。
「どうした」
 努めて普通に返したつもりだが、出した言葉は自分でも分かるくらいに強張っている。相手にも伝わったのだろう、扉越しに小さく、謝罪が聞こえた。
「あの……ええと……その、すみません。どうしてもお加減が気になってしまって……入っても?」
「構わん」
 手袋をはめ、固定するために布を巻く。左手のそれを巻き終えたとき、ようやくそろりと顔が覗いた。
「おはようございます」
 うなずく。目が自然と金色を探したが、視界を射抜く光はどこにもない。
「ご主人様は、下でお待ちです。その……お止めしたのですが、私が勝手に行動するのがお気に召さないと……」
 ため息が漏れた。この機械人形の娘も大概哀れだ。自分勝手な主に振り回され、いいように使われている。人間のために作られたのだから、ある程度は仕方がない。だが、あの少年は限度を越えている。他の生き物たちですら、彼にとっては『下等生物』以外の何者でもないのだ。近くにいるからこそ、この娘が一番手ひどい扱いを受けているだけで、結局はどれも同じ価値のないものなのだろう。
 槍と荷物を取り、娘のそばに歩み寄る。それから視線で用事を問うた。
「あ、えっとですね。パペリッチちゃんが……昨日の司会の女の子が、ディルさんを呼んでらっしゃいまして……お仲間さんもご一緒にどうぞ、とのことです。お礼が、したいそうなので」
 礼をされるようなことをしただろうか。記憶にはない。ディルは片眉を上げるだけに留め、そのまま部屋の外へ出た。アーティチョークがそれに続く。古びた木の階段を降り、蝋燭の明かりが灯る酒場へと進む。酒場には当たり前だが人はおらず、主人が丁寧に掃除をしている最中だった。がらんと広がる空間に、暖かな光が一つ。昨日ディルが座っていた場所に、幼い魔術師が鎮座している。
「ご主人様、お待たせしました」
「遅い」
 愛想の欠片もない声で突っ返すと、クラーリーはディルをにらみつける。
「……挨拶は」
「いい朝だな」
 平静を装ってそう言えば、少年は不機嫌そうに舌打ちした。あまり品がよい行為ではないな、と何となく思った。表情に出たかもしれないが、別に今更どうというわけでもない。
 それがさらに気に障ったらしい。いらいらと足を組み替えて、長い髪をかきあげている。瞳は依然としてこちらをにらんだまま逸らされない。
「昨日の謝罪は」
 なぜ、こちらが謝る必要がある。黙ったままで受け流した。再び舌打ちが酒場に響く。
 間髪いれず、手が出された。相変わらず椅子に腰掛けたまま、挑むような目つきでさらされた手のひらに、ディルはそのまま目線を落とす。何を要求されているのか、皆目検討がつかなかった。
「何ぼーっとしてるのさ。金だよ。昨日の金、闘技場でもらって、勝手に半分赤の他人に寄越しちゃった残りの金」
 懸賞金のことを言っているのだとは分かった。だが、あれは自分がもらったものであって、この少年だけのものではない。
 拒絶の意を込めて首を振る。少年の瞳が、瞬時に怒りの色を灯した。
「お前! 昨日からふざけるなよ、誰が主人か分かってるのか!!」
「ご主人様! おやめください!」
 乗り出した小さな身体を押し留め、機械人形の娘がこちらに深く頭を垂れる。
「申し訳ありません、ディルさん……! どうぞお気を悪くなさらないでくださいまし、ご主人様は昨日からご機嫌が悪くて……」
「誰のせいだと思ってるんだよ!!」
「いい」
 少年の言葉を無理やりさえぎり、娘の肩を叩いて頭を上げさせる。夕暮れ色の瞳は、人間であったならば潤んでいただろう。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「ですが……」
「お前が謝っても仕方がない」
 あえて金色を視界に納めぬまま、ディルは言葉を選んで続ける。
「本人が己の過ちを認め、詫びることに意味がある」
「過ちだと!? お前っ、昨日から言わせておけば……!! 僕は悪くない、お前が悪いんだ!! 規約違反だぞ、僕が主だ!! 当たり前のことを言ってるだけじゃないか!!」
 甲高い声は頭に響く。昨日の酒の名残がそれを増長し、嫌な痛みを伴って木霊する。ディルはその感覚に眉を寄せ、目を射抜く金色を見た。激しい感情の高ぶりが、彼の白い頬を染めている。にらみつける瞳は幼い。そこに垣間見えるのは、自分は正しいのだという絶対的な自信。自分が優位に立っていると思い込みたい、幼子のわがまま。
「……それはあくまでも雇用上の話だ。俺の意思全てがお前の下にあるわけではない」
「なんだと……!? 下等生物の分際で、この僕をないがしろにするつもりなのか!?」
「そういう意味で言ったのではない」
「僕はお前の主人で、お前は僕の下僕なんだぞ!! 主人に対してそんな口利いて、いったい何の意味があるっていうんだよ!!」
 伝える言葉を捻じ曲げて受け止め、攻撃的な姿勢で返される。そういった輩には過去に出会ったこともあるが、およそここまでではなかった。この少年ほど狭い視野で見ている人間はそうそうにいない。別に馬鹿にしているわけではない。いっそ、怒りを通り越して哀れにさえ思えてくる。
「なんだよその目は!! この間からお前、僕を見下してるのか!? 下等生物の分際で、人間様にそんな目をしていいと思ってるのかよ、この役立たず、価値なし、屑!!」
 ――しかし、ここまで罵られて平常でいられるほど、自分も器が広いわけではない。
「……他人のことを必要以上に貶めるのはやめろ」
「うるさい!! うるさい、うるさい!! 僕は悪くない、悪いのはお前だ、お前なんだよ!!」
 片手で耳をふさぎ、片手で机を打ち鳴らす。やめさせようとアーティチョークが手を伸べるが、それも無駄に終わった。
「アーティ!! お前もだ!! お前、僕とこいつとどっちの味方なんだよ!! お前は僕の給仕だろ、何でこいつの肩ばかり持つんだよ!!」
「ご主人様、落ち着いてくださいませ」
「落ち着いてられるか!! このっ……」
 次に浴びせられる罵倒を待ちうける、その直前。
「あの……!」
 いつしか入り口の扉が開かれ、小柄な少女がたたずんでいた。
「おや、パペルじゃないか」
 酒場の主人が声をかける。少女はかすかな笑みを向け、戸口から小走りで走り寄ると、ディルたちへと頭を下げた。
「あの、昨日はありがとうございました。お礼も満足にできなくて……」
 返事の代わりに一つ、頭を振る。それよりも、あの少女はきちんと葬ってやれたのだろうか。バレリアンゆえに墓を作ってもらえないということはないはずだが、どうなったのだろう。
 幸いにも、少女は感情の変化に機敏であるらしかった。ほんの少しだけ笑みを浮かべ、
「アニスにも、きちんとしたお墓が作ってあげられるみたいです」
 と言い添えられた。
 それならばいい。自分にできることはする。それが、同じ一族の命を奪った己にできる唯一のことだから。再び小さくうなずくと、少女は遠慮がちにこちらの袖を引っ張った。
「あの……もしよろしければ、朝食でもいかがですか? お連れ様もご一緒に」
 連れ。ちらと視線を走らせ背後を見やる。依然としてクラーリーは不機嫌だし、機械人形の娘は困ったようにそれをなだめている。無論、効果はない。
 目が合った。険悪なまなざしを向けながら、クラーリーは憮然とした表情で問いを投げてくる。
「ただなんだろうな」
 少女はもちろん、とうなずいた。
「じゃあ、行く。ま、考えてみれば、こいつだけ優遇っていうのもおかしな話だもんね。僕が雇い主なんだから、僕も一緒に招かれて当然だよ」
 きょとりと瞬きをする少女に、アーティチョークが苦笑する。
「すみません、あまりお気になさらないでくださいまし」
 全くもって、この機械人形は気苦労が耐えない。尊大で傲慢なこの態度を改めなければ、いずれ痛い目にあうだろうに。もっとも……痛い目にあったところでこの性格では、殊勝になるとは到底思えぬわけなのだが。
 そんなことを考える自分に、我ながら少々驚きを隠せない。自分は気が長いほうだと思っていたが、予想以上に参っているようだ。まあ、仕方のない話だろう。連日罵声を浴びせられ、あまつさえ怪我をしたところを攻撃され、ましてや仲間を侮辱されていれば、誰だって腹立たしくもなる。
 やはり、自分が同じ目にあわなければ理解できないのだろうか。そんな目にあってもなお、この考えが貫き通せるのだろうか。好奇心はあるものの、その前に己が激昂するだろうことは容易に想像できた。
 決別を考えねばならないだろうか。せっかくありつけた仕事なのだ、せめて最後まで完遂させたい。しかしこのままでは、いつか本当にこの少年を――
 嫌な想像が湧き起こり、同時に忘れかけていた感触が蘇って、ディルは思わず呻いた。軋む手足が傷に響く。まだ満月にはなっていないのに、身体の奥で獣が暴れる感覚がした。少しでも気を緩めたら、たちどころに表出してしまいそうになる。
 拷問ですら耐え抜いたのに、たったこれだけの付き合いでここまで神経が磨り減るとは。俺が脆くなったのか、それとも雇い主のせいなのか。ディルはあえて追究するのをやめた。だが、せめて少年が少しでも、言われた相手の立場で考えられれば、そう願わずにはいられなかった。

(2010.5.26)

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