メモリアル・チャイム
陽光のにおいがする。風が温かい。窓が開いているのだろう。外から鳥のさえずりに混じって、子どもの笑う声がする。 「兄貴、珍しいね。今起きたの」 部屋の戸がきしんでから、弟の足音がした。 「今何時になる?」 「九時半。お日様が出てて、あったかいよ。一回起こしに来たんだけど、気持ち良さそうだったから。窓だけ開けて戻ったんだ」 そういえば、高校は春休みに入ったのか。今更になって思い出す。今日は仕事もないから、気が緩んでいたのかもしれない。 「朝飯できてるけど、食べる?」 窓が閉じられ、外の音が小さくなる。 「いただこうかな」 「よっしゃぁ。今日ちょっと頑張ったから、全部食ってね」 心なしか弾んでいる言葉に、笑みがこぼれた。 淹れたてのコーヒーに口をつける。香りを楽しみながら、ゆっくりと飲み下して息をついた。 平日の朝ならば、慌てて飛び出していく弟を送り出す立場である。考えてみれば、こうして一緒に朝食後の時間を過ごすのは久しぶりだった。 「部活は無いのか?」 「明後日まで無いよ。兄貴、今日は仕事無いんだよね」 尋ねてから、照れ臭そうに続ける。 「何か、嬉しいなぁ。今日は一日一緒にいられるのかぁ……俺が中学のときは、兄貴も部活で早かったし、話する暇も無かったもんな。寂しいのとムカついたのとで、よく喧嘩したっけ」 高校生の頃は、部活の朝練があったせいで、よくすれ違いになっていた。自分なりに、多感な時期にある弟を気遣っていたつもりではあった。だが、それは逆に弟の気に障ったらしく、言い争いになることも少なくなかった。 途中で大きな病気を患ったのは、今から丁度二年前。弟と同じ、高校二年生のときだ。手足の異常こそ無かったが、通学が困難になり、学校を辞めざるを得なくなった。 退学してからは、逆に弟が忙しくなり、会話もほとんど交わさなかった。外にも出られず、弟は話しかけてこない。当時は戸惑い、心細く思うことも少なくなかった。 そうして喧嘩ばかりしてきた弟も、つい先日で二年生になった。かつて自分がいた高校に合格し、部活と勉強に追われる毎日を送っている。中学に入って始めた弓道は、高校になっても続けているのだという。 友人のことを話す声音は、二年前と比べて大分低くなった。確か自分も、中学卒業と同時に声変わりをした。毎日朝早くから夜遅くまで練習に励み、友人と一緒に勉学に励む。忙しく、とても楽しい日々だった。 自然に高校時代を思い出す。弟の話を聞くと、今が楽しいのだと分かる。昔の自分を見ているようで嬉しくもあり、同時に少しだけうらやましくも思えた。 チャイムが聞こえた。高らかな音色は、不思議とよく響く。 「あれ、学校のチャイムだ。陸上部とかがいるから、動いてるのかな」 懐かしくなった。もう一度近くで聞きたい。 「光矢(こうや)」 呼びかけると、視線がこちらを向いた。 「せっかくだし、散歩に行こうか。ちょっと学校まで」 まかせとけ、と返事が返るのに、そう時間はかからなかった。 愛犬に引っ張られながら歩いていく。外の方が暖かい。人々の会話、車の行き来する音、街路樹のざわめきが、春風に乗って流れていく。 「人が多いね。兄貴、気をつけて」 弟の言葉が近い。身長が伸びたのだと、気づいた。 「今日は天気がいいからなぁ。みんな、出かけたくなるのかもしれないね」 溢れる活気を感じながら答えると、弟が笑う。 商店街の通りはにぎやかだ。女の子同士がはしゃぎ、恋人同士が笑いあっている。その間を、わざと友人たちで走りぬけたものだった。 「ここはよく、部活帰りに友達と走ったよ」 「あれ、でもここ、夕方は結構混むんじゃなかったっけ」 「それを狙って、わざとやったんだよ。『俺たち春風ライダース』とか言ってね。今思えば悪ふざけが過ぎたけれど、あの頃は本当に楽しかったな」 耳元で鳴る風の音を、今でも確かに覚えている。人波の間を縫うように駆けて、本当に風になれるのではないかと思っていた。 怖いものなど何も無かった。全てが輝いて、何をしてもうまく行くのだと思っていた。 「確かに」 妙に納得した口ぶりで、弟が言う。 「あの頃の兄貴は、すごく楽しそうだった。楽しくて、楽しくて仕方が無いって感じだった。自信満々で、何をやってもうまくいってて」 でも、と一度言葉を切ってから、苦笑を漏らした。 「俺にとっては、むしろ癪(しゃく)に障ったんだよなぁ。親は共働きでいないし、兄貴は兄貴で相手にしてくれないし。寂しいのと、兄貴に対する妬みとか、とにかくいろいろごちゃごちゃしててさ」 正直に言ってしまえば、家族のことは二の次三の次だった。自分のやることに夢中で、自分の可能性に夢中で、弟の苛立ちや、体が訴える不調の意味を、理解しようとすらしなかった。 「すまなかったな」 「何で、いいよ」 肩をたたく手は、ほとんど成人男性と変わらない大きさだった。 「今は兄貴の気持ち、すごくよく分かる。全部が楽しくてさ、あぁなるほどって思うんだ」 いつしか喧騒は遠ざかり、運動部の掛け声が途切れ途切れに耳に入る。吹奏楽部の演奏と絡まり、埃っぽい土のにおいと共に運ばれてくる。 「勉強は難しいけど、部活も楽しいし。今月から、とりあえず二年生になるし。さあこれからだって、ちょっと張り切ってみたりなんかしてさ。すごくわくわくしてるし、すごく楽しみだし。兄貴もきっとこんな気持ちだったんだろうなって、思えるようになってきたんだ」 今から二年前、進級したときも、弟と同じことを考えていた。学校生活が楽しくて、二年生になって。これからたくさん楽しいことが待っているのだろうと、期待に胸を膨らませていたものだった。 こうして外を歩けるようになったのは、本当につい最近のことである。それまでは、遠くから聞こえてくるチャイムの音が、嫌でたまらなかった。学校を途中でやめなければならなくなった自分が、とてもみじめだった。チャイムは楽しかった過去のことを思い出させる。それが嫌で、窓を全て閉め切って、耳を塞いでいたこともある。 大分落ち着いた今でも、時折辛く思えた。しかし今はなぜか、嫌悪を感じることはない。それどころか、懐かしさのあまりに息が詰まるほどだ。これはどういうことだろう。 先を行く愛犬が足を止めた。 「はい、ついた。兄貴、学校だよ」 瞬間、風が強く吹きぬけた。思わず乱れた髪を押さえて、顔を上げる。 同時に鐘の音が木霊する。二年前と何の変わりもなく、朗々と鳴り響く。まるでここに来ることを、最初から知っていたように。 「あれ? おかしいな。この時間は鳴らないはずなんだけど」 手を伸ばして、指先に当たったものに触る。冷えているはずの鉄門は、なぜかとても心地よかった。 「……何だか、兄貴が帰ってきたことを喜んでるみたいだ。おかえり、って」 今のチャイムは間違いです、とアナウンスが聞こえる。 「おかえり、か」 懐かしい校舎、懐かしい音。途中で去らなければならなかった学び舎。今も覚えていてくれたのだろうか。 目を開く。この瞳はもう、何も見ることはできない。けれども確かに、変わらない白い壁が、大きな時計が見える気がした。 「おーい、水穂(みずほ)じゃねーか!」 遠くから複数の呼び声がする。 「水穂! 久しぶりだな、元気かー?」 「二年ぶりだな、水穂!」 同じ部活のチームメイトだ。ばらばらと駆け寄ってくる足音の後、乱暴に肩を引っ張られた。練習試合で勝ったときに、こうしてみんなで肩を組んだことが蘇る。 「お前、病気はもういいのか? 外出られるようになったんだな!」 「弟も一緒か? うわっ、犬でけぇ! 盲導犬ってやつか? 初めて見る!」 誰もが自分勝手な言葉を投げながら、あの頃と同じように騒いでいる。 「みんな……なんで」 問えば、チームメイトたちは口をそろえてこう言った。 「何か、チャイムが急に懐かしくなったから」 あまりにも綺麗にそろっていたためか、誰かが笑い出す。それは次々に伝染し、最後は皆一斉に歓声を上げた。 「水穂も? 何かすげぇ偶然じゃねぇ?」 「どうせだし、顧問のスギーに挨拶しに行こうぜ」 弟がこっそりと耳打ちしてくる。 「長杉先生だろ。俺呼び出しされてるから、一緒に行っていい?」 「おお? 月島弟、お前スギーに呼び出されたのか? 覚悟しろよ。スギーは体だけじゃねぇぞ、説教も長いからな」 また笑いが起こる。一緒に笑いながら、ふと思った。 懐かしい面子もまた、チャイムに導かれてここに来た。偶然では片付けられない、何かがあるのだろう。 目の前に佇む校舎を、思い描く。目蓋に残る記憶をなぞりながら、あの頃と同じ姿を思い描く。 「ただいま」 呟きは風にさらわれる。巻き上げられて聞こえたのか、答えるように鐘が鳴る。 「よーし。メンバーそろったついでだし、帰りに水穂の卒業式やろうぜ! おい月島弟、お前も来い」 「え、マジですか? 俺関係ないんじゃ」 「兄貴の卒業式だぜ、まあここは一つ、感動の涙係」 「なあ、新生『春風ライダース』結成祝いもやろうぜ。前みたく、あの通り走りたくなった」 「それはお前だけだろ」 他愛も無い言葉のキャッチボール、一つも変わらないチームメイトが嬉しい。年を重ねたとしても、チャイムの音の下に集まれば、あの頃に戻れる。それが素直に嬉しかった。 今のチャイムも間違いです、とうろたえるアナウンスは、三度目の音色にかき消された。 (2008.1.12) |