歪斜 


 雨音が遠い。空から降り注ぐ水滴は、この上海の街に渦巻く黒いものさえ、余すところ無く流していきそうだ。だがそれでも、己の浴びに浴びた血の臭いまでは消してくれない。
 汚い賓館(ホテル)の粗末な淋浴室(シャワー室)。軋む扉の悲鳴が響き、空の浴槽に沈む。旗袍(チーパオ)を半ば引きちぎるように脱ぎ捨ててから、淋浴の塞(コック)をひねった。
 冷えた水が数刻間だけ皮膚に流れ、徐々に湯と変化する。温かな湯に打たれながら視線を上げると、曇る鏡と目が合った。おもむろに手を伸ばし、触れる。拭ってみる。甲高く擦れる声がした後に、濡れた己の顔が現れる。
 蒼白い顔。切れ上がった目、薄い唇。もつれた髪。肉付きの薄い胴体。細すぎて吐きそうになる腕、足。そこを縦横無尽に、傍若無人に走り回る傷跡。
 男のものにしてはあまりに貧弱な体に、新たな傷が加わっていた。右肩から左わき腹へと続く引きつれた跡は、どうやら仕事の最中にやられたようだ。
 爪でえぐってみる。痛みは感じなかった。塞がりかけていたのか、それとも開いたままだったのか。傷口からは、紅の筋があふれ出す。
 映った箇所が歪んでいる。指を当てた。わずかに窪んだそこに、水滴が一度留まり、滑っていく。
 手を離す。触れていた場所が紅く染まる。紅は虚像の頬を伝う。幾筋も幾筋も伝う。
 白く曇る鏡、落ちる紅、それを虚ろに眺める己の顔が、わずかに笑みを作った。

 また雨だった。雨は好きではない。体温が水滴に吸収されて、共に流れ落ちてしまうから。失った体温は、そう簡単には戻らない。
 部屋の戸を開く。床(ベッド)に転がっていた男が、緩慢な仕草で身を起こした。染めているのだろう金の髪が、重力に沿って散らばっていく。
「あ……おう。思ったよりも早かったな」
 脇を通る。血の臭いが取れない。湿りを帯びて半端に溶け出した液体は、不快感を濃くする。冷たい雨の音と粘ついた感覚を、早く洗い流してしまいたい。
 淋浴室へ向かう己に、わざとらしい嘆息が投げられる。
「イラついてねえか? お前。いつもより殺気立ってる気が」
「うるさい、黙れ」
 使い物にならない衣服を、引きちぎるように脱ぎ捨てる。耳障りな悲鳴が聞こえたが、無視した。軋む戸を開け、塞をひねり、湯を浴びる。曇る鏡の表面を手で拭った。
 現れる己の顔は、昨夜と寸部違わずそこにある。髪の毛は頬に張り付いている。恨めしそうに見上げる瞳は、じっとりと暗く沈んでいた。
 傷口があった。右肩から、左のわき腹へ走っている。いつ受けたものだったか。いつ頃のものだったか。鮮烈な赤い色が網膜に焼きつく。
 不意に笑いがこみ上げた。絡まる髪をかきあげ、鏡に向けて呟きかける。
「似合いの色だな……」
 水に溶けて流れる色に、声が混ざり落ちた。

 澱んだ空気が身体にまとわりつく。拘束具のようなそれに、手足が思うように動かない。苛立ち、舌打ちして腕を振るう。
「うわっ! 危ねぇっ!」
 悲鳴がした。視線を送る。長い髪を無造作にくくった若い男が、己の手をつかんでいた。鈍い金が闇に眩しい。
「何するんだよ、いきなり! 俺、今日は何もしてねぇだろっ!」
 この男は誰だったか。「今日は」ということは、随分前から知っているらしい。額に巻かれた圍巾(スカーフ)の紅が目にしみる。
 紅。紅は雨に溶けない。己の皮膚を彩り、落ちない色はそれ。
「――おい? 黒幻(ヘイファン)?」
 応えぬ己に気づいてか、いぶかしむように眉を寄せる。まだ少年とも呼べる年の、成長し始めたばかりの男だった。
 この男は誰だったか。
 焼けるような痛みが手首に走る。筋肉が痙攣し、腕が引きつった。指の感触がする。
 この、己の腕をつかむ男は誰だったか。
「どうした? 人の顔見たまま固まっちまって」
 この男は誰だった。紅が目にしみて、鏡を伝う紅を思う。記憶まで流されたようだ。
 この男は誰だ。
 瞳に己が映っている。目を見開き、凝視している己がいる。今日は血を浴びていないはず、だのに肌にこびりついたこれは何だ。
 手を見た。つかまれた先、無様に震える手にも、同じものが付着している。
 これは何だ。手足が痺れて重い。歪む視界は、昨日の鏡面を連想する。
「おい、本当に大丈夫か?」
「はやく」
 喉で擦れる空気の音が、やけに耳についた。
「……この血を、落としたい」
 腕を払い、背を向ける。雨が、降り出した。
 淋浴室に入り、塞をひねる。水ばかりが流れていく。着たままの服が、濡れて貼り付いた。
 鏡は曇らなかった。紅にまみれた己の姿を、ただ映している。歪みは更に広がっていた。指でたどる。そのあとを追っていく筋もまた、手を汚すそれと同じ色をしていた。
『紅が目立つのは』鏡の己が囁く。『この世が紅でないからだ』
 歪んだ鏡の向こうで。
『ならば全てを紅くすればいい』
 肌についた色が落ちない。
「あの男は誰だった……」
『全てがその色に沈めば、いずれ関係も無くなる』
 耳鳴りがした。己を構成する全てが、冷たい液体に紛れて零れていく。
「……誰、だった」
 答える者は誰もいない。

 脳髄の奥が、鈍い痛みを訴える。真新しい血を流す箇所を、無理やり押さえつけた。右腕はしばらく、使い物にならないだろう。
「黒幻!」
 金のたてがみが近づいてくる。目を射抜く色に、思わず目を細めた。
「お前、さっきやられたのか」
 爪の先からは、生温かい体液と温度が伝わってくる。ぬめる指を動かせば、どうしてか愉悦が体内より湧いて出た。
「痛くねぇのか?」
 滑稽な質問だった。不意に笑いが漏れる。男が驚いたように身を引いた。空気がわずかに渦を巻いた。
「……お前、最近おかしくねぇか」
「何故そう思う?」
「いや……根拠はねぇんだけどよ」
 逆に切り返せば、男は髪に手を突っ込んでうなった。
 まるで獣だ。獣がうなり、のたうつ声に似ている。確か、名を虎牙(フーヤ)といったか。金の獣の名を持つのならば、気質もそれに似るのだろうか。
 その喉を裂けば、紅に染まる。辺り一面を染め抜く色が見られるだろう。たとえ男の名が思い出せずとも、もの言わぬ抜け殻に、どうして名など意味がある。
 いっそのこと、あの白く霞んだ鏡面の向こう、虚ろに映る己のように、獣の血を浴びて笑ってみせようか。
「ほら! それだよ、それ」
 唐突に男が叫ぶ。やたらと耳につく音は、傷口から入りこんで神経をかき乱した。
「その顔だよ、お前、絶対何か憑いてるって」
 己の指先が食い込んでいる。旗袍の袖は体液を吸って重く垂れ、傷口はもう凝固し始めていた。
 おかしくてたまらない。
「お、おい黒幻?」
 体内を突き抜ける感情は、己を飲み込んでいく。これは悦楽だ。全身を麻痺させる血液のにおい、己をさらに追い立てる。
「本当に大丈夫か?」
 何かが憑いているとするならば、それはおそらく鏡の向こう、笑いながら囁きかける己の姿だろう。
 口をついたのだろうか。再度、男が身を引くのが嗅ぎ取れた。

 雫に濡れて、塞がりかけた傷が開く。跳ね上がる水滴が鏡を汚す。開いた傷口からは、命の証がたれていく。
 曇りきった鏡の向こうで、虚像の己も笑っている。血に染まった手をかざし、現実世界の己を見て、同じ顔をして笑っている。笑いながら、さらに己を追い立てる。
『紅に染めればいい』
「……あの男の名が、思い出せない」
 歪み、ぼやけた向こうの世で、さらに己を追い立てる。
『あの男の名を知ったところで、紅に沈めば意味を成すまい』
 水滴が落ちる音がする。耳の奥から、不規則な鼓動がする。それすらも絶ち破るほど、虚より作られた声がする。
『いっそのこと、壊れるだけ壊れて、狂うだけ狂ってしまえばいい。たとえ一人になろうとも、喪失を嘆く必要すらない』
 歪んでいく。音を立てて歪んでいく。無理やり目を引き剥がして、濡れる己の足を見た。
 血の臭いが取れない。
「あの男は、誰だった」
 記憶すら流れて消えていく。己の顔を伝うものを、拭った。響く声もどこか虚ろで、遠かった。
「……思い出せない……」
 途方もなく滑稽だ。そして途方もなく、吐き気を覚えた。
「紅く……歪んでいく」
 熱を帯びていく傷を手のひらで押さえつけ、そうして一人笑ってみせた。

 仕事の話が来ない。けだるい時間の中に浸かりながら、窓の外から下を見下ろす。人間が、ごみの中を這っていく蟻の群れに見える。数ばかり多い虫けらの流れは、時折混ざり合い、時折乱れながら、のろのろと這いずっていく。
「暇だな」
 男は比較的綺麗に整えられた床に寝転がりながら、つまらなそうにぼやいている。
 こういった時間の潰し方には慣れていない。それは互いに共通するものらしい。
「そういえばお前、こないだの傷どうなった」
 顔を向けたのだろう。男の声が、先ほどよりも明瞭になる。
 傷など、受けたかどうかも覚えていない。記憶を探ってみても、それらしいものはなかった。
「いつの話だ」
 男の表情が強張った。
「お前、まさか覚えてねえのか?」
 覚えてすらいないことを、どうして覚えているといえるのか。
「知らん」
「知らん、って……お前、つい三日前のことだろうが」
 三日前のことらしい。男の手が、己の右腕をつかんだ。鋭い痛みが走るのに、記憶にない。
 背筋を冷たいものが滑り落ちる。名を呼ぼうとして、思い出せないことに気づいた。
 この男は誰だったか。
 鏡、歪んでいく視界を紅に染める。鏡の歪み、あれに気づいたときから、全てが曖昧になっていった。
 あの鏡が、歪んでいたからだ。
「鏡が」
 淋浴室を、指す。
「……歪んで、いたから」
 かすれた声を絞れば、男の視線が動く。己の手先から、軋む音を立てる扉を映す。
「それが、何か関係あんのか」
 どうしてこう頭が回らない。かすかな苛立ちが胸を焼く。黙ったまま立ち上がると、男が慌てたようについてきた。
 乾いた淋浴室に足を入れる。図体のでかい男には、少々窮屈だろう。なにやら文句を言っているが、己には関係のないことだ。
 鏡は変わらずに歪んでいる。人の顔か、それとも別のものなのか、判別もつかないほどに歪んでいる。
 しかし、歪んでいるにも関わらず、どうして己の姿はこんなにも鮮明なのか。
「何だ、全然普通じゃねえか」
 男の能天気な言葉に、耳を疑う。これだけの歪みが分からないのか。映る己の姿に、気づかないのか。
 虚像は、血に汚れた手をこちらに向けていた。虚ろな瞳のまま、頭から髪の毛から頬から顔から胸から腹から腰から足から全てを血に染めていた。吐き気がこみ上げる。これが、今の己の姿だというのか。
 一歩、後へ退いた。耳鳴りが、した。耳を塞いでも、声は届く。
『歪んでいるのは鏡ではない。歪んでいるのはお前の心だ。歪んでいるのはお前の心だ。歪んでいるのはお前の心』
「うるさい――!」
 耳につく笑い。歪む鏡、全てが紅に塗りつぶされていく。己の虚像に拳を叩き込む。ひしゃげ、ゆがみ、無数のひびが入ったそれは、細かい破片を零しながら沈黙した。
 手の甲に食い込む欠片が、己の血で染まっていく。銀色が醜く零れ、散らばっていく。 
「俺は、狂ってなどいない……」
 呟きは割れた虚像に届いたのか。無数に分かれた己の姿が、一斉に嗤った気がした。



(初稿:2006.6.21 訂正:2006.9.20)

某部誌に載せたものをリサイクルして再掲載。
テーマは「鏡」。あるがままを映す無機物は、彼にどう見えたのか。
読んだことのない人にも分かるように書いたつもりです。
「これを読んでいると、自分もぐらぐらしてきて怖い」
という感想をいただきました。ありがたい限りです。

これも何だかんだで随分前のものではありますが、
正気と狂気の境目だとか、蝕まれていく危うさだとか、
そういったものがしっかり書けたのではないかと思っています。





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