月下魔性 


 妖魔の殺意を覆うほどの強い感情が押し寄せてきたのは、かんざしが地面に落ちた直後だった。
「貴様あああああぁぁぁぁ!!!」
 ほとばしる怒りの咆哮に、一瞬だけ銀の妖魔が怯んだ。身を隠している鉄骨や壁ですら、衝撃に激しく震えている。これだけの殺意を受けたのは、そしてこれほどまでに怒る彼を見たのは初めてだった。以前にも感じたあの感情が――自分が殺されるかもしれないという、あの危機感と恐怖心が全身を駆け巡る。
「おおおおぉぉぉ!!!」
 大地を揺るがす獣の叫び、それと同時に爪が、指が妖魔の右目へと食い込んでいた。
 躊躇いもなく瞳へともぐりこみ、眼球を引きずり出す。あまりに荒々しい行為のせいで、ぶつりと嫌な音がした。おびただしい量の血液を流し、妖魔は二、三歩よろめく。右目のあった場所は虚ろな空洞となり、視神経だろう筋肉の束がはみ出していた。
 手のひらにある球体を、黒幻はそのまま握りつぶす。どろりと流れる半透明の液体は、血液と共に冷えた大地を汚した。
「殺す、殺す、殺してやる、殺してやる……!!」
 歯軋りをしながら言う黒幻の顔に、普段の冷たい仮面の影はない。憎しみを灯した瞳は、ここからでも分かるほどに激しい光を帯びている。凍えそうなほどに強い殺気が足をつかみ、もはや微動だにもできなかった。
 一方の妖魔は、それだけの感情をぶつけられているにもかかわらず、笑みを崩さなかった。それどころか、自らに穿たれた穴に指を突っ込み、視神経の残りを引きずり出して千切り落とす。そして汚れた指を舐め、短く断続的な笑い声を立てた。
「たの、し、い、楽しい、楽しいぞ宵黒幻!! もっと怒れ! もっと怒り、我を忘れればいい! 己の使命を忘れるほどに怒れ!」
 黒幻が漆黒の刃を水平に構える。妖魔が手首を翻して身を斜にする。
「さぁ宵黒幻、私を殺せ! 殺せ!! 思う存分切り刻み、えぐり出し、引きずり出すがいい!! 私もお前を殺し、切り刻み、えぐり出し、引きずり出してやろう!!」
 月光の下で両腕を広げ、銀の妖魔は歓喜に叫んだ。
「望むとおりにしてやるよ――再起不能になるまで徹底的に殺しつくしてやる!!」
 月光の下で刃を振るい、黒き幻が怒りに吠えた。

 氷の針が飛来する。妖魔の影の動く箇所を刺し貫くも、既に本体は黒幻の背後へと回り込んでいた。笑いながら、男が腕を振り下ろす。不快感を煽る耳鳴りと同時に、風が鋭い刃と化して黒幻へと襲い掛かる。
 地面に降り立つと同時に、体をひねってもう一度飛び退る。風は彼の残像を裂いただけにすぎなかったが、瞬時に妖魔が間合いを詰める。両手の爪が黒幻の首に届くか否か、その刹那。
 黒幻の手から立ち上る陽炎が見えた。そのままほとばしる紅蓮の焔を、妖魔に向けて解き放つ。十分に自分へと引き付けてから、一撃必殺をたたきこむ――至近距離では威力も上がるだろう、それを黒幻は狙ったのか。
(やったか!)
 しかし、揺らめいていた焔が打ち砕かれ、粉となって夜空へ消えた。蒼白い指にちろちろと灯る火の残骸に、虎牙は唖然としてそれを凝視する。
 今まで出会った妖魔の誰よりも強いというのだろうか。黒幻の『焔華』が破られるなど、普通に考えればありえないことなのに。
(黒幻……!)
 何も出来ない自分が悔しい。虎牙は再度歯を食いしばり、壁を殴りつけた。
 戦いは終わらない。妖魔がなおも距離を詰める。黒幻がとっさに足を踏みしめて後方へ跳んだ。虎牙も扉の中から顔を出し、上の状況を見る。
 黒幻が、重力に邪魔されぬうちにそこを離れて上へ跳びあがる。足場の悪い場所を厭っている余裕は無いのだろう、だが着地した刹那、下部であるはずのここにまで届くほどの鈍い音がした。
「!?」
 まるで綺麗に刃物で斬られたかのように、塔の一部がずっぱりと裂けたのだ。瓦礫が頭の上に落ちてくる前に、慌てて元の位置に戻る。直後、激しい衝撃が頭上から降り注いできた。壁の内側に身を隠しながら、外の様子を窺う。
 立ち込める土ぼこりの中、二つの影が落ちてきた。一つの影が跳躍したと同時に、瓦礫が地へと衝突する。鉄骨が突き立ち、それすらも埋め尽くしていく。気配が音と埃にかき消され、双方が生きているのかすらも分からなかった。
「黒幻っ!!」
 虎牙は思わず扉跡から飛び出していた。
 自分があの銀色を倒すことは絶対に不可能だ。だが、自分でも黒幻を助け出すことはできる。ここで死なせてしまってはいけない。目の前で何もできないのは、守れないのは、誓ったのに守れないのは、もう嫌だ。
「黒幻、どこだっ!!」
 立ち込める埃に咳き込みながら、声を張り上げて黒幻を呼んだ。視界は依然として悪いままだ。
「黒幻!!」
 ふと、空気の流れが変わった。凍りつきそうなほどに冷たい、殺意。黒幻か。確かめようとした、直後。
「こねずみ ねずみ きゅっとくびらにゃ またふえる」
 茫洋とした、どこか夢を見ているような、とろりとした口調の歌が聞こえた。
「こねずみ ねずみ くびをおとさにゃ またふえる」
 銀色が、見えた。少しずつ明瞭になる視界の先、艶美な笑みをたたえている銀色がいた。身体が動かない。狂気に縁取られた銀の眼差しに絡め取られる。身動きが取れなくなる。
(やばい)
 声すら出ない。ゆったりと、しかし足取りは軽く、微笑みを浮かべ、死の象徴が白い指をいっぱいに伸ばして近づいてくる。
(逃げなくちゃいけねぇのに)
 指が顎にかかった。死人のように冷たい肌であった。腕も足も、目ですら自由に動かせない。
(殺される)
 美しい爪が、鋭い刃物のように煌めいたのを見た。
 しかし。
「貴様の相手は、俺だ」
 銀色の胸もとに、刀の切っ先が生えた。ぬめる紅が妖魔の白い胸もとを汚していく。血の筋を口の端から垂らしながら、それでも妖魔は深い笑みを刻んだ。
「私が、お前の相手だ」
 刀が引き抜かれても、青年の姿をした妖は倒れない。それどころか、痛みすら感じていないようだった。おびただしい量の血液を失っているにも関わらずに動けるのは、やはり異形の魔物だからなのか。
「この世から、塵も残さず抹消してやる」
「ただの肉片と内臓の塊にしてやろう」
 黒幻が構え、銀色のそれが腕を振り上げた。刀が、爪が、閃く。そのとき。
 月影の合間を縫い、ゆらりと一つの人影が現れた。影は腕を伸ばし、やや乱暴に銀の妖を拘束する。突然の出来事に、黒幻は動きを止めた。虎牙もまた警戒しながら黒幻の元へ動く。
「妖狩の一族か」
 低い男の声だ。年の頃は四十というところか。顔は逆光になっているため見えなかった。
「何者だ」
 黒幻もまた低く問う。が、男はそれに答えなかった。腕をつかんでいる相手に言葉をかける。
「何をしている。勝手な行動は慎めといわれていただろう」
 妖魔は腕をつかまれたまま黙っている。男はそんな彼の異変に気づいたようだ。目元を覗き、息をつく。
「だから止めただろうが。勝手に行動して勝手に目を失って、自業自得だ」
「……」
「いいか、これ以上お前の遊びを続行するわけにはいかない。それともお前は、このまま人間共の好奇の的になりたいか」
 敵意がないと感じたのだろう。黒幻は刀を消し、佇んでいる。おとなしくなった銀の妖魔を連れ、男はきびすを返す。
「いずれお前たちとは戦う時が来るだろう。そのときまで、この戦いは預けておいてくれ」
 虎牙は黒幻を見た。あれだけ怒る理由があったのだから、許さないだろうと思ったのだ。
 しかし予想に反して、黒幻は小さくうなずいた。整った横顔を彩っていた怒りは抜け落ちている。
「――次は無いと思え」
「恩に着る。退くぞ」
 嫌がり暴れ出した妖魔を当身で気絶させ、男は一度礼をして闇に消えた。あとに残されたのは月の光と暗い闇、妖狩の血を引く男が二人だけ。
 瓦礫と鉄骨が散乱する広場から、黒幻は無残にも折られた髪飾りを拾い上げる。艶やかな碧と、施された上品な彫刻が美しい。折られ、砕かれてもなお気高さを感じられた。
「翠玉……」
 先刻の激情が嘘のように、黒幻の面からは表情が抜け落ちている。その無表情さが逆に痛々しい。
 見ていられない。虎牙の手が、黒幻の掌に乗せられていたものを摘み上げる。それから乱暴に尻の口袋にねじ込んだ。石でできているのだから、多少乱暴にしても大丈夫だろう。
「おい」
 取り上げられたことが不満なのか、黒幻がとがめるような声をあげる。
「直してやるよ」
 一呼吸、間が空いた。
「……何?」
 黒幻はいぶかしげに眉を寄せ、虎牙を眺めている。戸惑っているというよりは、疑いのほうが強いらしい。
「だから、俺の知り合いに腕のいい細工師がいるんだよ。そいつに頼めば……見た目は少し変わっちまうかもしれねえが、一個には戻せると思うぜ」
 そんな黒幻に対し、虎牙はにやりと笑ってみせる。
「これで勘弁しろよ。さすがの俺でも、元の通りとはいかねぇからな。感謝しやがれ」
 軽口をたたき、黒幻に背を向ける。それが気に入らなかったのか、大股で虎牙の隣に並ぶと、低い声で悪態をついた。
「フン、逆だろう。貴様がふがいないせいで、俺が苦労をする。今回の貴様は何の役にも立たなかった」
「あー畜生言うな!! それはそれ、これはこれ! いいじゃねーか別に、忘れようぜそれは」
 言いながら、虎牙は思考の片隅で強く思う。
 力が欲しい。もっと力があれば、今回だって協力することができたはずだ。守られているだけではなく、守るためにも振るうことができる。こんな情けない自分は嫌だ。もっともっと強くなりたい。足手まといにはなりたくない。だがそのためには、どうすればいいのだろう。
「……どうした」
「いや、何でもねえ」
 途中で詰まりそうだった考えは、黒幻の声で中断された。考えることをやめ、一度小さく頭を振る。
(まあ……いいさ。時間は多分、まだたくさんあるから)
 あの妖魔がもう一度姿を現す前までに、今以上の力を手に入れなければならない。だが逆に考えれば、あの妖魔がもう一度姿を現す前に強くなればいい。
 そうだ、何も急ぐことはない。手順や方法は後で考えればいい。とにかく今は、誓いを破らないようにすることが先決だ。
「これ直ったら、ちゃんと返すからな」
「ああ」
 口袋に突っ込んだかんざしを示すと、黒幻はようやく安心したように微笑んだ。

(初稿:2005.11.10 訂正:2008.4.29)


本編の「八」だった話を焼きなおししたものです。
投稿するに当たって、伏線をほったらかし状態になるので外しましたが、
こうしてアップする機会ができましたので復活させました。
本編の番外編、という形を取っておりますが、厳密に言えば
「六」と「七」の間、「六.五」みたいな感じになります。

タイトルの「月下魔性」は、ここで登場する銀色の人妖のことを意味します。
彼が再び登場するのはもう少し先のことですが、どうぞお楽しみに。





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