妖狩




 翌々日の夕暮れ時。宿題を片付け茶の間へやってきた弓月が最初に感じたのは、例のきつい香水だった。
「おっはろーん、弓月―! いい男がいるからついつい上がっちゃったぁ」
 もう顔すら合わせたくない分家の嫡男、九十九鬼尊杜がそこにいた。うっかり開けた襖を閉めるも、それは尊杜の投げた座布団によって制止される。
「……今度は何だ」
「いやーねーもーカリカリしないでよぉ。だから、かっこいい男がいたから来ちゃったって言ったじゃない」
 かっこいい男と言われても、該当者は大黒柱しかいないわけだが。それとも比呂也のことだろうか。目が腐っているとしか思えない。
「おじさんも……一応、比呂也もいねぇぞ」
「やっだー、今日は違うわよー」
 ホラあれよ、と示される。見たことのある金髪が、呑気にお茶をすすっていた。額のバンダナに銀のピアス、革のジャケットにジーンズの、一見ヤクザのような男だ。李虎牙、喧嘩屋で妖狩の中国人。
 思わずその頭を殴りつけた。意外にもいい音がして、男の頭がちゃぶ台に激突する。手に持っていた湯のみの中身は、幸いに全く零れなかった。
「おぉ、痛ぇ。いい攻撃だな」
 何事もなかったように面を上げ、満足そうに笑っている。音の割りに存外平気そうだった。
「何我が物顔で茶の間にいんだよ……」
「おばさんとおじさんが、ゆっくりしてってねって言ってたのよ。二人ともお出かけしたみたいよー」
 尊杜がにやにやと人の悪い笑みをたたえて指を振る。タイミングが悪すぎる。頭を抱える弓月の背中を、虎牙がばしばしとたたいた。
「まぁまぁいいじゃねぇか! で、何の用だ?」
「それはこっちの台詞だ馬鹿野郎」
 座りながら文句を言うも、本人は一切気にしていない。人の話を聞かない性質らしい。
「おお、忘れてたぜ。俺じゃなくて、K幻が話あ」
 声が不自然に途切れ、再び男の顔がちゃぶ台に沈んだ。重たい音が茶の間に響き、次いで袖が彼の頭を覆い隠す。
「黙っていれば余計なことを」
 背筋を駆ける寒気に身構える。純血の妖狩、中国本家。冷ややかな眼差しを男に向けて、
宵K幻が佇んでいた。
「……何だよ」
「フン。忠告に来ただけだ」
 ざらついた冷気が、皮膚を余すところ無く撫でていく。これだけ暑いにも関わらず、この男がいる場所だけがひどく寒い。殺意を垂れ流しにしているからであることは、火を見るよりも明らかだ。
 空気がぴんと張り詰める。
「忠告?」
 奥歯を噛み締め寒気をやり過ごしながら、弓月は先を促した。
「どれだけ抗ったところで、お前は妖狩の運命から逃れることはできん。この俺がそうなったように、いずれはお前も狂気に蝕まれていくだろう。遵守しても背いても、結末は変わらない」
「つまり――逃げようとするのは無駄だから諦めろ、ってか?」
 妖狩の本家は右目をすがめ、かすかに嗤う。
「察しがよくて何よりだ。鬼を一匹斬っただけで使命を拒む小娘が、怖気づいて途中で放り出す可能性があるからな」
 なるほど、そういうことか。この男、どうやら弓月が逃げ出すのではないかと思っているらしい。ご丁寧に脅しをかけにきたようだった。
 弓月もまた笑みを返す。
「ハッ。言われなくたって逃げねぇよ」
 それからぐいと心臓に親指を押し当てた。
「俺には一緒に馬鹿やってくれるダチがいるんでな。逃げられねぇってぇんなら、鎖巻いたままで暴れてやらぁ。てめぇみてぇにはならねぇ。絶対に、ならねぇ」
 自分の周りには頼りにできる人間がいる。罪に押しつぶされそうになっても、支えてくれる人がいる。どうせ逃げられないのなら、逃げずに腰をすえて戦ってやる。
 たとえ狂気が果てにあったとしても、後悔することなどないように、支えてくれる人と共に、今を徹底的に生きればいい。協力者は作るななんて、契約にはない。契約にないことは違反にならない。文句など言わせない。契約に無いのだから、どう解釈してもおかしくはないはずだ。
 K幻はそれを黙って聞いていたが、やがて音も立てずにきびすを返す。
「その言葉、忘れるなよ」
「上等だぜ」
 冷たい音を投げつけてから、K幻が襖を引き開ける。傍近くにいた虎牙に対して何かをささやいてから、彼は完全に姿を消した。立ち込めていた殺気は完全に霧散し、夏の気配が一斉に押し寄せてくる。
 尊杜が「ふうん」と呟いた。それから指を組んで顎を乗せ、弓月のほうを面白そうに眺めやる。
「そういう答えを出したのね。いいんじゃない、あんたらしくて。羨ましいくらいだわ」
「あ?」
 意味を汲み取り損ね、尋ね返す。尊杜はいつぞやと同じように、柔らかく苦笑して首を傾げた。
「この年まで生きるとね、そう簡単に軌道修正することができないのよ」
 妖狩の分家、その嫡男として今までを生きてきた尊杜には、本当に羨ましく映っているのだろう。弓月を見上げる眼差しは、どこか眩しそうだった。
「がんばんなさい。あたしは応援しちゃうわよ」
「ハオ、ハオ。悩みあったら相談しろよ!」
 虎牙が再び弓月の背中を力いっぱいに殴りつけ、豪快に笑い声を立てて襖に手をかけた。
 と同時に襖が大きく揺れた。次いでなにやら話し声、幾度か交わされた後に情けない悲鳴。
「ああああ!! すみませんすみません、マジですみませんんん!! でしゃばりすぎましたごめんなさいいい!! ですからそのっ! あのっ、投げないでぇぇぇ!!」
 襖が大きく膨らみ、弾けた。背中から虎牙に激突し、顔面から落ちる一つの影。冷たく妖しい笑みを浮かべたK幻が、
「さっさと妖に食われてしまえ。腰抜けが」
 毒づいてきびすを返す。
「……比呂也。お前、何したんだ」
「あっ、ゆ、弓月これは違うんだぜ、誤解っ! K幻さん顔近くてそのー、あのー、えっとーどきどきしちまって! 別に怖かったとか脅されたとかそーいうんじゃなくて、ちょっと襖ダイビングをしたいお年頃っつーか!」
 わざとらしく、かつ意味不明の言い訳に、弓月は全身から力が抜けていくのを抑えられなかった。どうせうっかり失言して、K幻の怒りに触れたのだろう。
「おう! 元気何より! いいことだ!」
 雪崩に巻き込まれていたはずの虎牙が這い出てくる。心なしかボロボロのような気もするが、本人は至って平気そうだった。
「これだけ元気なら、お前も鎖巻いて暴れられるな。一緒に暴れる奴ができたんだからよ!」
 弓月の額を張り飛ばしてから、虎牙は再び豪快に笑う。それから何かを思い出したように弓月へ目をやり、大きくうなずいた。
「俺も負けてらんねぇな。一緒に暴れ……れるようにする。お互い、精進ってところだな。な、坊主!」
 次いで比呂也が肩を叩かれる。ようやく起き上がった比呂也は再び、たたみと仲良くなっていた。仕方がない。弓月ですらよろめくのだ、常人じゃ押し返すことすら難しい。
 もっとも、これからは押し返せるようになってもらわないと困るのだが。せめて動けないという状態からは脱出してほしいものである。
 弓月の視線を受けて、比呂也が顔だけ持ち上げる。
「あ……弓月、伝言。『雛ごときが寄り集まって何ができる。せいぜい無様に足掻くがいい』ってよ。何か滅茶苦茶嬉しそうだったけど、何かあったのか?」
 それは果たして本当に嬉しかったからなのか、聞く気にはなれなかった。
 我ながら、この選択は正しいのか分からない。むしろ契約を根底から覆すことになりかねない。少なくとも、本家本元の純血のお気には召さなかったようではある。
「いいじゃない、面白くて」
 相変わらず尊杜は笑い転げている。心底おかしそうに、だが心底対岸の火事を決め込んでいた。
「あんたなら全然いけるんじゃない? だってこんなに強力な味方がいるんだもの、きっとどこまでだって行けちゃうわ」
「おう! 味方がいるなら大丈夫だ、安心して突っ走ればいい」
 比呂也が立ち上がり、埃を払っている。その脇をすり抜けようとして、弓月はふと足を止めた。癖になりつつあったそれをやめ、肩越しに比呂也を振り返る。
「おい、比呂也」
「仕事か?」
「おう。あの鬼みてぇに、妙な力つけた奴がまだいるらしい。休んでる暇なんかねぇぞ」
 まっすぐにこちらを見つめて、比呂也が笑う。
「今度は役に立つからな。弓道二段をなめんじゃねーぞ」
「言ってろ、ヘタレ」
 玄関を抜け、外に出る。空は夕暮れ、もうすぐ夜になる。妖の刻、黄昏がやってくる。気配はそこここでうごめいている。
「がんばってー、弓月ー、ひろちゃぁーん」
「突っ走れ! 振り返るな、後悔するな! がんばれよ!」
 言われなくてもこのまま走る。走って走って走り抜けてやる。弓月は返事の代わりに、小さく拳を掲げてみせた。
比呂也が隣にやってくる。今までずっと一緒にいてくれた、大切な友。これからも妖狩として罪を重ねるだろう弓月のそばで、生きていくと言ってくれた幼馴染。
 そばで支える人がいる限り、共に立ち向かってくれる人がいる限り、自分はきっと大丈夫だ。一人なら苦しかったことも、二人なら軽くなるだろう。重すぎる鎖を巻いたまま、暴れまわることもできるだろう。少々頼りなくはあるが、一人で抱え込まずにすむことが、こんなにも安心して、こんなにも心強く思えるとは。柄にもなく、そんなことを考えた。
「行くぞ、比呂也。遅れんなよ」
「がんばりまっす」
 そして二人、並んで走る。若い妖狩と幼馴染――人間初の妖狩見習いが、闇夜を裂いて駆け抜ける。

 秋の気配漂う夕暮れ、黄昏を迎えようとする空の下。
 妖と狩人たちが交錯する、その直前の出来事である。


妖狩〜You Shu〜


(初回アップ:2006.3.11 最終訂正:2009.9.29)





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