始まり 


 街の北外れにある古びた洋館は、蝶々館(ちょうちょうかん)と呼ばれていた。
 どうしてそんな名で呼ばれていたのかなんて、幼かった僕は知る由もなかったし、特に興味もなかった。僕がその館について知っていることと言えば、そこには“彼”がひとりで住んでいて、いつも二階にある窓から外を眺めている、ということくらいだった。
 学校の帰り道、息を切らして館に急ぐ。三つ目の角を右に曲がって、四つ目の角は左に折れる。小さな通りを抜ければ、そこで“彼”が鉄門にもたれて、僕を待っていてくれるはずなのだ。
 道を走りながら、声を張る。
『お兄ちゃん!』
 すべてが橙と金に染められた中、ころころと涼やかな鈴の音が響いた。
 僕と“彼”だけの秘密の合図。以前“彼”へあげたものだ。赤と白の紐に、鈴が三つついている。母にせがんで譲ってもらった。神様のご加護が与えられた特別なものだと聞いた。
 だから、それを“彼”にあげることにためらいはなかった。ふと消えてしまいそうな“彼”とつながっている気がしたし、何よりも大好きな人だったから。
 綺麗な指に絡んだ紅白の紐、鈴が琥珀色の光を反射するのが見えた。細い肢体が門から離れる。僕は勢いを殺さないまま、“彼”へ飛びついた。
『お兄ちゃん! 大好き!』
 挨拶代わりのその言葉に、“彼”も薄く笑んで僕を抱きしめてくれた。
 柔らかな、梅にも似た香りが鼻をくすぐる。このにおいをかぐと、何だか頭の芯がぼうっとしてしまうのだが、僕はとても好きだった。
『つー。俺も、好きだよ』
 “彼”の声も顔も、もう思い出せない。けれど、無口な“彼”が僕の愛称を呼ぶとき、言葉少なに好意を返してくれるとき、憂いを帯びた顔にかすかな笑みが広がるとき――鼓動が激しくなり、少し息が苦しくなった。
 だから当時の僕は、それをごまかすために顔を胸へと押しつけ、腕を腰にまわして抱きしめた。髪を梳いていた手が、僕の背中を優しく叩く。布越しに“彼”の鼓動を聞く。規則正しい、かすかな音。それが無性にいとおしくて、僕は静かに目を閉じる。いい香りがする。暖かくて心地よい。頭の奥が重くて、とても眠かった。
 抱き上げられたのか、足がふわりと宙に浮く。その瞬間、妙なにおいを感じた。まるで錆をかいでいるような、しかしそれよりも重くて粘っこい何か。そこに肉の焦げるような音とにおいがまぎれている。どろりとよどんだ空気は、身体にまとわりついて吐き気すら催した。
 薄くまぶたを持ち上げる。霞がかった視界に映るのは、蝶の羽にも似た銀の線。筋をそのまま写し取ったかのようなそれは、煌めく粉を散らしながら小刻みに震えている。
 周囲はいつしか闇に包まれていた。自分がどういう状態なのかは分からない。誰かに抱えられているのは分かるけれど、相手の顔はまったく見えなかった。声もなく、黙ってたたずんでいる。先ほどの続きだから“彼”なのかとは思ったけれど、まとう空気が違うから、違うのだろう。僕はそう思って、また少し目を伏せた。
『   』
 声が聞こえた。まぶたに冷たいしずくが当たる。それから抱き起こされ、強く強く抱きしめられた。骨が軋んで少し苦しい。
『    』
 じゅう、と鈍い音が鼓膜を震わせる。きっと痛いだろうなあ、と、他人事のように思った。
 肩越しに見えるのは、床にも壁にも一面に広がった赤。もう動かない父と母。きらきらと、狂ったこの場所にふさわしくないほどに綺麗な銀。

 意識も空気も人すらも影へ沈む中、羽の色と粘ついた赤、そればかりがはっきりと目に焼きついて――心に、焦げ目のようにこびりついた。

* * *

 夢を見た。一番幸せだった頃の、そして一番不幸だった頃の、記憶をなぞった最低な夢を。
 汗をぬぐって身を起こす。障子に貼られた紙は濃い蒼さを含んでいる。夜はまだ明けていない。握り締めていた毛布から、慎重に指を剥がしていく。力の入れすぎで痙攣を起こしていた。痛みも強い。さすがにこればかりは、慣れることもできなかった。
 もう何度繰り返したことだろう。夢の結果はいつだって同じ。“蝶々館のお兄ちゃん”との記憶から、真っ暗な空間に放り出され、血の海に沈む両親の死体を見、誰かに抱きしめられて目を覚ます。覚えているのはそれだけ。相手の声も、顔も、目覚めたときにすべて忘れてしまうのだ。大好きだった“彼”のことも、銀の羽の持ち主のことも。
 震える息で深呼吸する。当たり前だが、血のにおいはしない。それなのに、未だ鼻に残っている気がする。“彼”のまとう甘い香り、肉の焦げる嫌なにおい、そして酸化した血のにおい――
 そこまで思い出してから後悔した。とっさに口を押さえ、吐き気をこらえる。冷や汗がまた全身から噴き出して気持ち悪い。低くうめきながら、傍らに置いた水差しから水を飲む。夜の空気に冷やされた水が、のどを滑り落ちていく。一気に飲んで、ようやく吐き気が収まった。
 それでもなお、胸にわだかまる痛みは消えない。分かっている。両親の死体を目にした時から、心の焦げ目がうずいている――これが憎しみだと知ったのは、小学校の五年生になったときだ。初めて自覚したころ、闇に浮かぶ羽を思い出しては、全身を駆け巡る悔しさと、原因不明の熱、じりじりと心を蝕む憎しみを持て余していた。今も慣れたとは言いがたいが、発散する術を覚えただけましになったほうだろう。
 中学生になってから、妖(あやかし)と戦うことを知った。それ以来ずっと、両親のかたきを探している。銀色の蝶の羽を持つ、人の形をした妖を。
 水差しを乱暴に机へ戻す。空っぽになったそれは、甲高い音を立てて転がった。それを横目で眺めながら、ふと思う。
 ――明日、蝶々館へ行こう。最近あそこで妖の出入りがあるらしい。もしかしたら、あの妖魔がいるかもしれない。記憶の片隅に巣食う、銀の影が。
 胸の奥底がざわりと波打つ。果たして妖への嫌悪のために起こったものなのか、それともかたきを討てる歓喜のためか。自分自身にも分からなかった。


(2006 完結/2011.4.17 加筆修正)

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