足元に蒼い影の躍る、深夜。月の光に照らされて、散る桜の花弁がほのかに光を放っている。木々の合間を風が通り抜け、葉の擦れるさやかな音がするが、それもいつしか風と共に途切れてしまった。
 一見穏やかな夜に潜んだ違和と気配を悟る人間は、決して多くはない。今この場では、空気を切り裂くように進むひとりの青年以外にいないだろう。
 白の小袖に臙脂の羽織、濃い蒼の差袴。整えられた黒髪、端整な顔立ちには険しさがにじんでいる。右手には紙の札が握り締められていた。
 日向神社の若き宮司、名を日向司(ひゅうが つかさ)という。妖を滅し、理(ことわり)を守る役目の一端を担っている。妖を滅するのは神に仕えるものの定め、神の意思に基づいて穢れを浄化し、抹消する。
 それを教えてくれた両親はいない。司が小学生のときに、銀色の羽を持つ蝶の妖に殺された。だからこうして、妖を浄化する傍らで探しているのだ。銀の光を背に負う、顔も分からない妖を――。
 ひたり、と司の足が止まる。
「またか……」
 低いつぶやきは、甲高い奇声にかき消された。
 地に落ちる電柱の影から、無数の異形が這い出てくる。背に縮れた羽をつけたもの、裂けた口から牙を覗かせるもの、腕から鎌をはやしたもの。足に絡みつくよどんだ空気が、桜の花を散らしていく。
「そんなに浄化されたいなんて、妖にしては物好きだな」
 司は焦ることもなく、手にしていた札を数枚抜き取った。日向神社、の文字に指を滑らせ、うごめく妖を真正面から睨みすえ、低く祝詞を紡ぐ。
「諸諸(もろもろ)の禍事(まがこと) 罪 穢れ 祓へ給ひ 清め給へと 恐(かしこ)み恐み白(もう)す」
 祝詞は常より使われるものよりも短いが、これは本庁や協会の間で取り決められたものだ。簡略化されたものでは威力に欠けるため、札とあわせて使用する。
 幼いころより、父と母から叩き込まれていた基礎が、今こうして役に立っている。死んだ両親に感謝しながら、司はゆっくり腕を持ち上げた。
「容赦はしない。灰すら残さず消えうせろ」
 札が白い炎を噴き上げる。不浄なものを許さない清らかなそれは、月光を反射して鋭い光となった。構える。妖の群れが距離を詰める。歯軋り、羽音、鼓膜を引っかくような不快なそれらが、群れを成して襲い掛かる。
 足を踏みしめる。気配が押し寄せる。静かに深く息を吸う。爪が空気を裂く。紙一重で裂ける。溜めていた息を鋭く吐き、思い切り腕を振るった。
 煽られた炎は軌跡を生み、軌跡は闇を焦がしていく。消えることのない炎が音もなく妖へと燃え移り、次々と周囲のものを巻き込んで塵に変えていく。
「邪魔されるのは嫌いなんだ」
 独り言は断末魔と共に白に溶けて消え、やがて再び静寂が訪れる。最後の一体が燃え尽きるのを確認してから、司はようやく構えを解いた。額に浮いた汗をぬぐい、深々と息をつく。
「ふう……結構労力使うんだから、来るならせめて間を空けてほしいもんだね」
 答える相手はもういない。司は小さく肩をすくめ、異変がないか確かめてから、再び歩みを刻み始めた。
 目指すは夢に見た蝶々館。かつて幸せな時間を刻んだ、そして忘れられない感情を植えつけられたあの洋館へ、導かれるように足を向けた。



 蝶々館に妖が湧くようになったのは、ごく数日前のことだという。昔からなじみの同業者から一報を受けたものの、学校の課題もあってなかなか手がつけられなかった。
 ……というのは言い訳に過ぎない。本当は嫌でたまらなかったのだ。そこにあるのは、“彼”のいないうつろな館と、両親の血で染まった部屋だけだと知っていたから。かたきは取りたい。でも、あそこに行くのはどうしても嫌だったのだ。
 そんなときに、一定の周期を置いて繰り返されるあの夢を見た。偶然と呼ぶにはあまりにできすぎてはいるが、それもまた運命なのだろうと司は思う。癒えない傷をえぐるばかりだった夢が、ようやく自分の役に立ったのだ。かたきがそこにいる可能性は、ないとは言い切れない。たとえいなかったとしても、何かしら手がかりがあるはず。
 歩みを進めるうちに、ふとかすかな違和が頬を撫でた。位置を確かめれば、蝶々館の方角から妖気の残滓が流れてくる。司の足も、自然と速まった。
 そしてとうとう、幼い頃に通いなれた道に出た。学校に向かう途中、あるいは下校途中、必ず通った道。“彼”の姿を見るために、塀をよじ登ろうとしたこともあった。それを見かねた“彼”が、外に出てくれるようになったのは、果たしていつ頃だったろう。
 幼い日の自分の背が、まぼろしとなって現れる。ランドセルを背負ったまま、一目散に走っていく。電柱と塀を横目に、長く影を伸ばして駆けていく。その先でいつも“彼”が待っていてくれて――。
 司は二、三度首を振り、胸に蘇りかけた感情を追い払った。
(昔の話だ。今はもう、違う)
 まぼろしは消え、残ったのは月光に照らされたアスファルト。両脇にある家も、電柱にある広告も、道の長さも、何一つ変わっていない。変わったのは、自分だ。
(そう。僕はもう、子どもじゃない。何もできずに泣くだけの子どもじゃないんだ……)
 日向神社の当主として、浄化の力を持つ者として、果たすべき使命を成さねばならない。今は思い出に浸っている場合ではないのだ。館にいるだろう妖を浄化し、乱される理を正さねば。
 背筋を伸ばして呼吸を整える。冷たい夜気が肺を満たした。鈍る意識が再び現実へと戻ってくる。
 そのままゆっくりと門へ歩み寄り、司は闇に溶ける館の輪郭を見上げた。
「十四年……か」
 思わずこぼれた言葉が、薄汚れた塀に当たって砕ける。
 ひどい有様だった。鉄門から覗く庭は荒れに荒れ、中央にある池には汚泥しか残っていない。屋根は崩れかけていたし、壁には無数のひびが入っている。割れた窓ガラスや玄関の残骸からは、離れていても分かるほどに強い妖気が漏れ出していた。妖が出入りしているというのは、どうやら本当の話らしい。
 鉄格子をつかんで引いてみるが、門はがしゃりと硬質な音を立てて震えるだけだった。案の定、内側から鍵がかけられていて開かない。妖気にあてられた鉄は、指先が凍りそうなほどに冷えている。
 他の場所から入ることはできない。この塀に裏門がないことは既に知っている。しかも、いくらひびが入っているとはいえ、つくりは比較的しっかりしていた。乗り込むためには、門を越えるしかないだろう。
「体力は温存したかったけど……やむを得ないか、なっ、と」
 言葉と同時に腕を伸ばし、鉄格子に走る横棒を握り締める。二度三度強度を確かめてから、思い切り力を込めて身体を持ち上げた。手のひらに痺れが走るが、構っていられない。素早くよじ登り、そのまま庭へと着地した。
 体勢を整えたその瞬間、身を切るような寒さと威圧感が吹き付けた。気温が急激に下がったのが分かる。妖気が館を中心に渦巻いている。肌で感じ取れるほどだ。
「妖気で結界が……相手は上位の人妖(にんよう)だな……」
 妖は、妖怪と妖魔の二種類に区分できる。人妖は妖魔の上位に位置する妖であり、他の妖魔を率いて穢れを散らし、痛みを知らず、理を乱して世を侵す。そのために人間に擬態して生活し、夜に本性を表して人を食う。力のあるものは、日の光でも溶けることはなく、よほどの腕がなければ消し去ることすらできない。きわめて危険な存在なのだ。
「……早く浄化しないと」
 司は神に仕え、魔を祓う役を担っている。これくらいの妖気はどうということもない。しかし一般人はそうもいかない。このままでは近いうちに、周辺の住民に悪影響が出てしまう。
 よどむ妖気を袖で払い、一歩一歩館へ近づく。ずいぶん前から廃屋になっていたのが、近づいてよりはっきりと視覚できた。“彼”がいつも外を眺めていた窓の前で、ふと足が止まる。この部屋のガラスは無事だったが、締め切られたままのカーテンは色あせて汚れているのが見えた。
 駄目だとは知りつつも、飛来する寂しさが胸を満たす。あの日からなのかは分からないが、“彼”はもう、ここにはいない。いるのは穢れを撒き散らす妖だけ。もうあの部屋から笑いかけてくれることも、窓を開けて呼びかけてくれることもないのだ。
 息が苦しくなるのは、果たして“彼”への思いのせいか、それとも別の理由なのか。司は無理やり視線を外し、扉へ向かった。
 玄関の扉は跡形もなく砕け散り、ぽかりとした闇が広がっている。内部から絶えずよどんだ風が吹いて、司の羽織のすそを揺らした。かすかに腐臭やほこりのにおいがする。司は鼻を覆いながら、静かに足を踏み入れた。
 館の中も荒れ放題で、当然ながら人の気配は無い。天井のところどころが崩れているせいか、月光があちこちに影を落としていた。そこに浮かび上がるのは、瓦礫と動物のものと思しき骨の欠片だけである。人間のものも、もしかしたらあるかもしれない。風と共に、臭気も妖気も流れてくる。廊下の向こう側、おそらく二階からだろう。
 司はもう一度気配がないことを確かめ、階段へと向かった。動くたびにほこりが舞い上がり、かび臭さと腐臭が交じり合ってまといつく。それらをまとめて振り払いながら、司は息を殺して階段をのぼった。じゅうたんが敷かれているおかげで、足音はほとんどしない。だが、相手が相応の実力者ならば、もしかしたら気づかれているかもしれない。
(誘い込まれているのか……?)
 冷や汗が一筋、頬を伝う。両親のかたきである銀の影を相手にして――どこまで立ち回れるか、どこまで己の技が通用するか把握できずにいる。命を無駄にしないためには、無駄な行動をできる限り抑えなければならないというのに。
 そこまで考えて、司は薄く苦笑した。
(ちっとも緊張してないな)
 同業者たちからも一目置かれていた両親を、あっという間に殺してしまった相手だというのに。
(ともあれ、緊張して動けなくなるよりはマシだ)
 ぎし、と足元の床が軋む。二階はさらに妖気が濃く、衣服を通じて肌に突き刺さるほどだった。一歩踏み出すたびに、散らばっている骨が砕ける音がする。こちらが拠点と考えて間違いはないだろう。
 妖気の流れてくる方角へ、一歩ずつ進んでいく。さすがの司も、息をするのが苦しくなってきた。よほどの力を持っている相手らしい。強い圧迫感にのどが締め付けられ、腐臭や鉄錆のにおいがさらに吐き気をあおってくる。
 歯を食いしばり、おびただしい血痕の付着した扉を睨む。ここだけ温度が高く感じるのは、廊下の突き当たりにある窓が割れて、外の空気が入り込んでいるからだ。詰まっていた息をどうにかして吐き出し、冷え切って氷のようになったドアノブを握る。
 その瞬間、ふわりと舞う紅い蝶が見えた気がした。無数の蝶は、ちょうど入ってすぐのところにいた両親を包み込んで、それから、まるで湿ったものが爆ぜる、ような、音が、――
「……っ!」
 司は反射的に耳をふさぎ、きつく目を閉じて後ずさった。先ほどのものとは違う嫌な汗が、全身から噴き出してくる。
 駄目だ。思い出すな。ここにはもう誰もいない。いないんだ。
「……くそ……!」
 手指が激しく震えている。膝が笑って、気を抜けば座り込んでしまいそうになる。手のひらを額に押し付けて、どうにか呼吸を整える。額は汗で湿っているのに、手のひらはありえないくらい冷たくなっていた。
 唇をきつく噛みしめ、再びドアノブをつかむ。思い出すな。今はもう違う。今ならば、戦える。あの頃のように見ているだけではない。変わったんだ。
 半ば体当たりをするように、司は扉を押し開けた。みしみしと音を立てて軋みながら扉が開く。蒼い月光をいっぱいに注ぎ込まれた部屋は、耳が痛むくらいに静かだった。
 一歩、二歩、三歩踏み入り、目を慣らす。そして周囲を見回して、
「な……っ!?」
 司は、絶句した。
 汚れた壁の一面に、蝶の羽が描かれていた。まるで羽の筋だけを抜き取ったようなそれは、既に酸化してどす黒く変色している。確認しなくても分かる。これは、血だ。そしてその、まがまがしい血の羽の付け根に――人が、背を預けて座り込んでいた。
 若い男性だ。艶を含む髪は長く、うつむいた顔を覆い隠している。もとは編まれていただろうが、今は無残にも解けて肩や腕に絡み付いていた。紐と思しきものが、かろうじて結われている。髪の間から覗いた頬は、青白い光を受けて紙のように白い。
 身動きはしていない。だが、よくよく目を凝らせば、確かに呼吸をしているらしかった。
 食われていない人間がいたのか。司は思わず瓦礫を踏み越えて駆け寄った。膝をつき、肩をつかんで言葉をかける。
「もしもし! 大丈夫ですか!」
 反応はない。シャツを通してわずかに体温が伝わってくるが、それでも司よりずいぶん低い。怪我がないか確認するため、背中に手を差し入れる。
 途端、手のひらにぬるりとした感触が触れた。次いで青年の身体が前へ傾ぐ。慌てて抱きとめた司は、ふと目にしたそれに息を呑んだ。
「っ……こ、れは……!」
 青年の背中は血まみれだった。両方の肩甲骨が真一文字に斬り裂かれ、同じ傷を何度も何度も鋭利な刃物でえぐられている。未だに細く血が流れ、青年のシャツを真っ赤に染め抜いていた。首筋にかかる呼吸は細い。
 このままではまずい。こんなに妖気が濃い場所にいつまでも放置はしていられない。傷口から妖気が入り込めば命に関わる。幸い、札はまだ残っている。ある程度であれば穢れを取り除くこともできるから、その間に救急車に来てもらおう。事は一刻を争うのだ。
 焦りながら懐へ手をやり、はたと気づく。
「な、ない?」
 いつも入れているはずの携帯がない。袖を調べ、袴に挟んでいないか確かめ、もう一度懐を探ってみる。やはり、ない。
(くそ……こんなときに限って、大事なものを忘れるなんて! 馬鹿か僕はっ!)
 自分に対する苛立ちに舌打ちするが、それで携帯が飛んでくるはずもない。司は再度、己のうかつさを呪った。
 青年が小さくうめき声をあげたことで、ふと我に返る。救急車が呼べない以上、どこかで手当てをしなければならないだろう。とにもかくにも、こんな場所に長い間放置しておくわけにはいかない。
(妖が追ってこない場所……)
 必死で探り当てた該当箇所は、自宅である日向神社しか存在しなかった。下手な場所に担ぎ込むよりはマシだろう。それに家ならば余計なものは入り込めない。十分な処置はできるはず。
 司は青年をそっと背負い、駆け出した。彼のものだろうか、鈴がころころと涼やかな音を立てた。


(2006 完結/2006.4.17 加筆修正)

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