* * *

 人気のない道を急ぎ足で戻る。依然として青年の息は細く浅い。体温も下がってしまっている。背中に預けられた低い体温に、そして背後からの気配に、自然焦りがつのっていく。
 館を出てからついてくる気配は、さらに大きく膨れあがっていた。今も一定の距離を置いて司を追い続けている。今この状態で襲われたなら、彼を満足に守ることすらできない。下手をすれば、新たに発生した妖気のせいで、命を落とすかもしれない。誰かを守りながら戦えるほどの余裕も時間も、司には残されていなかった。
(まずいな、急がないと)
 耳鳴りがしそうなほどの静けさの中、ささやかに聞こえる鈴だけが心地よい。司は彼を背負いなおし、疲労し始めた足を再び動かした。
 この辺りはもともと坂が多い。自宅である日向神社も、ごく緩やかな坂の頂点にあった。いつもは平気な斜面も、人を担いでいるとなると話は違う。弾む呼吸もそのままに、暗い道の先に繁る林を見据える。月の光に縁取られた木々の葉が、わずかな風にそよいでいるのが分かる。その隙間から覗くのは、確かに見慣れた大鳥居だ。自宅は神社の少し向こう側にある。そこまで逃げるよりかは、神社へ逃げ込んだほうが確実だろう。
 鳥居は内と外の境目であり、定められた領域の入り口である。ゆえに、外からの穢れを遮断する役目も果たしている。少なくとも下級の妖魔は入れないし、上級のものであっても、長い時間留まることはできない。
(鳥居さえくぐってしまえば、とりあえずは安全になる……)
 速度を上げて坂をのぼる。あと100メートルを切った――その瞬間、少し後ろで奇声があがった。それに呼応して次々と妖が現れる。方々から伸ばされる腕をかいくぐり、司は必死で駆け抜ける。気配が追う。空気が裂かれる。羽織のすそが破られた。鋭い一撃が頬をかすめる。背中の青年が苦しげにうめいた。鳥居まではあと十歩。ほとんど息を詰めたまま、司はまっすぐに鳥居を抜ける。
 直後、熱した鉄板に水を加えたような音が響いた。思いがけず近くから聞こえ、司も驚いて振り返る。肉の焦げた臭いが鼻を突いた。鳥居越しに、下級妖魔の群れがまとめて塵と化すのが見えた。
 下級妖魔は総じて知能が低い。おそらくは司を、あるいはこの青年を狙うあまり、鳥居の存在を忘れていたのだろう。
「助かった……」
 ともすれば崩れ落ちそうな膝を叱咤しながら、司は歩みを止めず石段をのぼり、境内へ入った。また外に出て襲われてはたまらない。ならば素直に、境内から母屋に行ったほうが安全だろう。
 石畳の向こうに拝殿の影がそびえ、すぐ左手に手水舎(ちょうずや)の屋根が見える。白い砂利が光を跳ね返す中、右手奥の社務所へと赴く。社務所の裏側にめぐらされた塀には、母屋へ通じる出入り口があるのだ。
 ざくざくと靴の裏で砂利が音を立て、そこに鈴の軽やかな音が重なっていく。一応社務所の戸締りを確認してから裏手へ回り込み、懐から鍵束を取り出した。携帯は忘れていても、ここの鍵は忘れていなかったようだ。
 軋む扉を肩で押し開け、素早く入り込んで鍵を閉める。心なしか、青年の呼吸が乱れていた。傷が痛むのかもしれない。半ば祈るような心地で石の階段を駆け下り、玄関から中へと飛び込んだ。
 電気をつける暇すらもどかしく、青年を自室へと運び込む。彼を片手で支えながら、もう片手で布団を敷いた。そっと背中から青年を降ろし、横向きに寝かせる。いつの間にか彼の額には、びっしりと汗が浮いていた。薄い唇をわずかに開き、苦しげに眉を寄せている。まぶたは固く閉ざされていた。
「無理をさせてすみません、すぐ戻ります」
 小声で謝罪し、そっと貼りついた髪をかきあげてやる。青年の表情が、心なしか和らいだように見えた。それに少し安心し、司はそっとふすまを閉める。
「包帯と、この場合はガーゼかな……とにかく応急処置をしなくちゃ……」
 そのまま小走りで茶の間に向かい、棚という棚を引っ掻き回す。やがて奥にしまいこんでいた薬箱を探し当て、祈るような心地で蓋を開けた。
 奇跡的に、包帯もガーゼも大量に残っていた。母がきちんと用意していてくれたのだろうか。薬箱は長年使われていなかったにもかかわらず、とても綺麗だった。
 ふと思い出す。怪我をして帰ってくる自分を、優しく出迎えて手当てしてくれた母。頭を撫でてくれた手の感触が蘇ってきて、不意に涙腺が緩んだ。
 だが今は、思い出に浸っている場合ではない。司はひとつ頭を振ってから、薬箱を抱え込んだ。
 それと同時に、自室から何かが倒れる音がした。次いで男のものらしい、かすかな悲鳴が耳に届く。家には司と青年しかいないはずだ。ならば、彼に何かあったのか。
 司は素早く立ち上がり、廊下を駆け戻る。
「大丈夫ですか!?」
 ふすまを引き開けた司の目に、真っ赤に染まった背中が飛び込んできた。立ち上がろうとしたのだろうか、額をたたみに押し付けてうめいている。手袋に包まれた指先が、たたみの表面を弱弱しく引っかいていた。窓の障子紙を通す月光が、破られた肌に蒼い影を落としている。血が細く流れて、彼の衣服を赤く染め抜いている。
 先ほどと同じ、そしてあの日と同じ肉の焦げるにおいが鼻先をかすめる。目前にある、小刻みに震える白い背からは――黒い煙が幾筋も立ち上っていた。
(くそ、しまった!)
 半ば薬箱を放り出すように置いて、司は悲鳴をあげる青年のそばへ膝をついた。
「しっかりしてください、聞こえますか?」
「……ッう、うぁ、あ、ぐぅ……ッ」
 青年の震えは止まらない。しぼり出される声はかすれ、開いた傷口からは絶えず煙が立ちのぼる。日向家を満たす神気に、傷口が拒絶反応を起こしている――傷口の奥深くまで穢れが入り込んでいるのだ。
 懸念が現実になってしまったことに、司は焦りを募らせる。
 妖気はありとあらゆる場所から入り込んでくる。傷から侵入するパターンがもっとも多い。人間や動植物が長時間妖気にさらされ続けた場合、妖気は体内に入り込んで穢れとなる。穢れは対象の体力と気力を奪い続け、やがて死に至らしめる。穢れを消すには、神気によって浄化をするしかない。
(あの方法をとるしかないか)
「もう少しの辛抱です、待っていてください。すぐ戻ります」
 司は青年の手を握って語りかける。弱く握り締められた手をそっと外し、再び廊下へと飛び出した。サンダルを突っかけ、中庭へと駆け出す。目指すのは、身を清めるための場所だ。
 妖、特に妖魔は痛みを伴う拒絶反応が強く現れる。ひどい場合は炭化し、一瞬で絶命することさえあるらしい。上級の妖魔でさえ火傷に似た拒絶反応が起こる。だから彼らは神気を嫌う。穢れそのものである彼らは、神気に触れた途端に炭となり、塵と化して消えてしまうからだ。
 しかし、人間は違う。穢れさえ取り除いてしまえば、元の通りに戻る。一番一般的な方法で言えば、穢れを水で洗い流す――いわゆる『禊』をすればいい。とはいえ、今の彼を泉に放り込むわけにはいかない。傷口に水を注いでやれば、多少はマシになるだろう。
 中庭にある天然の泉は、司の生まれる以前からここにある。今も枯れることなく、こんこんと清い水が湧き続けていた。水は小さな小川となって、塀の外にある用水路へと流れ出している。ここで簡単でもいいから禊ができるようにと、父が張り切って小屋を作った。割と立派なそれは、今でも禊の場として役に立っている。
 軋む扉を開けば、すのこのような床の中央に水がたたえられている。今もなお沸き続ける水は、相変わらず身を切るように冷たかった。やはり、家に戻ってきて正解だった。
 傍らに用意された手桶に水を汲み、こぼさぬよう気をつけながら駆け戻る。自室に近づくにつれ、青年の叫び声が鼓膜を震わせた。
 慌ててふすまを引き開ける。頭を両手で抱え、まるで胎児のように身を丸める彼がいた。苦しげに息をつき、身を起こすことも叶わないまま横たわっている。呼吸も思うようにいかないのか、時おり弱く咳き込んでいた。
「遅くなりました、すぐ手当てしますから」
 荒く上下する肩に触れれば、青年の身体がびくりと跳ねた。腕がわずかにずらされ、薄く開いた目が司を見上げる。未だ焦点は合っていないが、意識が戻ったらしい。
「気がついたんですね、よかった」
 司も思わずホッとして、笑みを浮かべた。意識があるならば、助かる余地はある。桶を置き、手ぬぐいを懐から出して浸す。それから彼を抱き起こして膝で支えた。
「背中に怪我をしているので、手当てしますね」
「……あ、んた……誰……」
 吐息にまぎれて聞き取りにくくはあったが、それは確かに問いかけだった。楽なように体勢を変えてやりながら、司は質問に応じる。
「日向と申します。ここは日向神社、あなたはこの付近で倒れていたんですよ」
「……じんじゃ、……」
 青年が小さくつぶやく。それから安心したように、細く長く息を吐いた。
「……そうか……」
「ええ、そうです」
 ぼろぼろになったワイシャツを脱がせ、肩に額を預けさせる。のどに空気が擦れる音が、より近くなって耳に届いた。傷口を確かめる。同じ場所をえぐられているせいか、傷自体はかなり深そうだ。肉と血の焼けるにおいが胸をかきむしるが、今は構っていられない。
「大丈夫、手当てをしたら、すぐに救急車を呼びますね。病院のほうから連絡してもらえば、ご家族もきっと迎えに来てくれます」
 優しく語りかけた瞬間、青年の呼吸が乱れた。
「……い、やだ」
 次いでしぼり出されたのは、明確な拒絶。
「え、でも」
 意図が見えず、司は困惑して問い返す。苦しげに紡がれていた青年の声に、激しいおびえが混じった。
「嫌だ……嫌だ、あいつが、来ちまう、……嫌だ、駄目だ……!」
「どういうことですか? あいつって?」
 青年の手が、司の衣服をきつく握る。身体の震えが激しい、痙攣を起こしているようだ。恐怖と痛みで潤んだ瞳が、司を映して揺れている。
「居場所……俺の、……出たら、知られちまう、駄目なんだ……駄目なんだ、駄目……あいつが、来る……頼む、……つれていかないでくれ、ひとりは嫌だ、嫌だ、お願い、ここにいさせてくれ、頼む」
 意識が混乱しているのだろうか。半ばうわごとのように、駄目だ、嫌だと繰り返している。落ち着かせるため、傷に触らぬように気をつけながら抱きしめた。もつれた髪を指で梳いてやると、ほんの少しではあるが震えがおさまる。
 何かあったのかもしれない。彼の言う“あいつ”が何者なのかは気になるが、順当に考えれば家族のはずだ。しかし、彼は“あいつ”に見つかることを嫌がっている。
(……まさか)
 と、そこで司は思考を中断した。最悪の方向に考えが行ってしまうし、たとえどれだけ彼の過去や身辺を想像したところで、結局のところそれは推測でしかない。この様子では聞き出すことも難しいだろう。何よりも、弱っている人間の心の傷をえぐることだけは避けたかった。
 硬くこわばった指を握りしめる。視線を合わせて、うなずいた。
「分かりました。僕が責任を持って、あなたをお預かりします。だから安心してください」
 それだけでも安堵したのか、青年の身体から震えが消えた。すがりついていた指から力が抜け、
「……うん……」
 とかすかに返事がなされる。見た限り自分よりも年上だが、やはり痛みや熱は人を子どもに返す作用があるらしい。それだけ肉体的にも精神的にも追い詰められていたのかと思うと、胸が痛んだ。
「背中、見せてもらいますね。痛みますか?」
 改めて、むき出しになった背に手のひらを這わせる。青年は小さく息を呑み、痛い、とささやいた。皮膚を通じて伝わる体温は、先ほどまでとは比べ物にならないほど熱を持っている。ことに傷口の付近は真っ赤になっている。これは痛むかもしれないと思いながら、片手を伸ばして手ぬぐいをつかんだ。
「ちょっと待っていてください。痛むかもしれませんが、我慢してください」
 ゆるめに絞り、傷口に水を流し込むようにして血をぬぐった。
「――ッ!!」
 声にならない叫びとは、このことを言うのだろうか。全身を硬直させ、身をのけぞらせる青年の身体をどうにか固定する。傷口からは大量の煙、むせるほどの焦げ臭さ。再び肩に食い込んだ指は、力の入れすぎでがくがくと震えていた。鋭い痛みが走り、司は眉根を寄せてそれに耐える。
 血が止まるまで、これを繰り返さなければならない。しばらく彼にこの苦痛を味わわせることになるのが、ひどく心苦しかった。
「悪いものが出ている証拠です、どうか我慢してください」
 もがき、あえぐ青年を抱いて拘束しながら、司は何度も彼をなだめる。手ぬぐいの水が触れるたびに、音と煙が悲鳴のようにあがる。痛みゆえか、青年のきつく閉ざされた目から涙があふれた。
「……ッ……ふ……」
 司の肩に強く額を押し付けて、彼は痛みをこらえている。
「すみません、どうか……」
 謝罪の言葉を口にすれば、青年がかすかに首を振ったのが分かった。
「続けて……くれ」
「すみません」
 聞こえるのは、苦しげにもらされる吐息と、血に潜む穢れが焼ける音。そして青年の髪にある鈴の音。それらに耳を傾けながら、司はひたすらに傷口を清めた。



 いつの間にか空が白み始めている。さっき部屋を出たとき、時計は既に午前の五時を回っていた。手桶を提げて廊下を戻りながら、司は明るくなる空をちらりと眺めた。
 春になったとはいえ、朝方はまだ冷える。冷たい水に指先がかじかんではいるが、文句は言っていられない。穢れを洗い流し続けたおかげでか、あれほど激しかった拒絶反応が落ち着いてきた。ようやく血も止まったし、噴きあがる煙もほとんど出なくなっている。だが、やはり無理をさせたようで、青年は手当ての途中で意識を手放してしまった。
 これ以上負担をかけるわけにはいかないため、禊は中断となった。代わりに新しい手ぬぐいと水を用意し、看病をするべく部屋に戻る途中である。今日は大学が休みで本当によかったと、司は心の底からそう思った。
 思ってから、気づいた。
(あ……しまった、社務所……どうしよう)
 社務所は通常、協会から手伝いに来てくれる人に任せている。大学が休みの日は勉強も兼ねて、司ひとりで見ることになっていた。一応確認と指導のために人は来るが、すぐに帰ってしまうことになっている。
 どうするべきかをぼんやりと考えてみたものの、どうも疲れで頭が回らない。それよりも今は、あの青年のことが気がかりだ。どの道心配で手がつけられないに違いない。司はひとつ首を振って結論づけると、止まっていた歩みを再開させた。
 音を立てないようにふすまを開け、中を覗き込む。身体を丸めて眠る青年の後姿が見えた。ふすまを閉め、枕元へ座り込む。髪に指を差し入れてみれば、汗で湿っているのが分かった。頭皮の熱が、髪にも伝わってきている。熱はまだ、下がる気配を見せない。
 手ぬぐいを取って固く絞る。額を軽くぬぐってやると、彼が小さくうめき声をあげた。それからかすかな、謝罪の言葉。
「……ごめん、なぁ……」
 司は思わず手を止めて、苦しげな青年の面を見つめた。
「わざとじゃ……なかったんだ……」
 閉ざされた目から、するすると涙が流れて落ちる。幾重にも重なるしずくは、髪の合間に溶けるようにしみ込んでいく。
「違う、違うんだ……違う……ごめん……ごめんなさい……」
 手ぬぐいを桶のふちにかけ、手の甲で額に触れる。
(寝言か……)
 謝罪と否定とに縁取られた悲痛な声。あまりいい夢でないことくらい、司にも分かる。苦しげな呼吸の下で、彼は何を見ているのだろう。
「……どうか、あなたの痛みが和らぎますように」
 つぶやいた言葉は、果たして悪夢の中にいる彼に届いたのだろうか。司は額に触れていた手を離し、身体を清めてやるために再度手ぬぐいを絞る。
 蒼い闇に沈んでいた障子の紙に、白い日差しが映りこむ。夜は終わり、いつもと違う朝が訪れようとしていた。


(2006 完了/2011.4.17 加筆修正)

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