闇は深い。足を踏みしめているはずだが、地面の感触は一切ない。夢だと自覚できるくらいに、何も無い場所だった。
 足を踏み出し、当てもなく歩く。時間はここでは意味を成さない。それを、司は知っている。
 やがて視界に光が灯った。艶やかな光を帯びたそれは、闇の中に浮かぶ灯火のように煌めいている。その形状は、忌まわしいかつての記憶に刻まれたものと同じだった。
 銀の羽を広げた影がひとつ、うずくまっている。頭を抱え、耳を塞いでいるその姿は、人妖と思えないくらいに弱弱しい――だからこそ逆に、腹の底から怒りと憎しみがこみ上げてくる。司は歯を食いしばり、次々とあふれそうになるそれらを噛み殺しながら、うめくように言葉を絞った。
「お前が……お前が、殺したんだ」
 だが、それ以上何も出てこない。すべてが真っ黒な感情に塗りつぶされて、ただ怒りに身体を震わせることしかできなかった。
 影の顔は分からない。知覚できるのは、羽に散る妖しい光のみ。音も何も存在しない世界の中で、司は仇とふたりきりだった。
『違う』
 ふと、かすかな声が聞こえた。どうせこの夢が終わってしまえば忘れてしまう、この妖のささやかな声。
『違う』
 否定の言葉に、過去の記憶がかきむしられる。
「嘘をつくな!」
 手のひらが熱い。自分の中にある力は、意思に反して目の前の妖を焼き尽くそうとしている。本当ならば今すぐにでも消し炭にしてやりたい。だが、ここでは意味がない。そう、意味がないのだ。
 強すぎる憎悪にめまいさえ覚える。度を過ぎた怒りのせいか、体中が軋んでいる。余計な力を抜こうと、司は大きく息を吸う。
『……違う』
 深く呼吸をした直後、再び言葉が落とされた。妖気の塊である羽が、小刻みに震えている。
「何が違うんだ!」
 つかみ掛かりたくても叶わないことくらい、司も理解している。問いかけることしかできないもどかしさと、憎い仇に何もできない苛立ちが、胸の内側で激しく渦を巻いている。
『……違う……こんな、……望んだ、んじゃ、ない』
 緩やかに、落ちていく。妖の身体が、闇へと沈む。夢から覚める。明確な答えすら出ていないのに。再び歯噛みをして、司は妖をにらみつける。司の瞳と、異形を示す紅い瞳。闇を通して絡んだ視線は、ひどくまっすぐ互いへと突き刺さる。
「僕は絶対に許さない……!! 絶対にだ!!」
 呪いと、憎しみと、怒りを込めて、司は叫ぶ。
『――……』
 名前を呼ばれた気がした。そのとき頬に当たったしずくは、果たして何だったのだろうか。



 橙と金が交じり合った光が、まぶたの隙間から差し込んでくる。
「……ん……」
 司はそのまぶしさに少しだけ眉をしかめ、次いでがばと起き上がった。その弾みで、床の上にブランケットが落ちる。作業をしていたときは傍らにたたんであったから、誰かがかけてくれたのだろうか。
「……あれ」
 今日は大学は休み。社務所にいるのは司だけのはずだ。中に入る人は限られているが、司が一日中いるときはすぐに帰ってしまうはず。
 参拝する人がふと途絶え、書類の整理をしていたのが午後三時ごろ。三時半には協会から人が来る予定だったから、それを待つついでに作業をしていたのだ。そこまでは覚えている。では、その後は?
「……寝ちゃったのか……しまった」
 頭を抱える司の視界に、覚えのないメモが映る。紙面に綺麗に並んだ文字は、書いた人間の几帳面さを如実に現していた。
『お疲れのようでしたので、本日分の業務はすべて片付けておきました。お風邪を召されませんよう、くれぐれもお気をつけください。あまり無理はしませんように。戸締りだけお願いいたします。  小南(こみなみ)』
 散乱していた書類はなく、パソコンの電源も落ちている。金銭類も金庫にしまってある。本当に全部片付けてくれたらしい。
 いつも厳しい顔をした、スーツ姿の女性の姿が脳裏に浮かび、司は思わず首を縮めた。きっちりしている人だから、次会ったときに小言をもらうことは確実だろう。
 「……小南さん、すみません……」
 今ここにはいない先輩に謝ってから、メモを懐にしまう。日は既に傾きかけ、徐々に夜の気配が入り込んできている。六時以降は基本的に参拝客が来ないせいもあり、神社は静けさの中にあった。
「……閉めよう……」
 寝癖のついた頭を掻いてから、司は鍵束を手に立ち上がった。羽織にもしわが寄っている。腕を枕にして寝ていたから、たぶん、よだれもついていることだろう。クリーニングに出さないといけないな、などと考えながら扉を引き開けた。
 社務所の戸締りをし、母屋へ戻る。自室へ向かう途中、中庭に面した廊下を進んでいると、不意に見慣れぬ影が目に飛び込んできた。一瞬警戒した司であったが、それがあの青年だと気づき、緊張していた全身から力を抜く。
 青年は、沈み行く太陽を眺めていた。上背のある細い肢体は今、父が昔使っていた浴衣をまとっている。少し小さいのだろう、すらりとした手首や足首が外気にさらされていた。
 肩には司が置いていった上着が引っ掛けられている。緑色の光沢を持つ黒髪が床板にこぼれ、緩やかに波打って広がっている。紅白の紐がそれをゆるく束ね、三つある鈴が鈍い金色を跳ね返していた。
「起きてて平気なんですか」
 そっと近づき、驚かさないように声をかける。青年は司を振り仰ぎ、淡く笑みを浮かべて首をかしげた。改めて見てみると、ちょっとした仕草でさえ様になるほどに整った顔立ちをしている。切れ長の瞳に柳眉、弧を描いた唇がゆるりと開く。
「隈」
「へっ?」
 唐突に発された単語を受け取り損ね、司はきょとんとして目を瞬く。それがおかしかったのか、彼の笑みが少し濃くなった。黒い手袋に包まれた指先が、司の目元を指し示す。
「隈、できてるぜ?」
 言われて、思わず苦笑する。隈を作って爆睡していたのなら、あの小南さんが起こさなかったのもうなずける。司だってそんな人間がいたら、起こさずそっとしておくだろうから。
「いやあ……昨日全然寝てなくて」
 青年は小さくうなずいて、司の目を覗き込む。夕日を受けているせいか、瞳は透き通った紅を含んでいた。吸い込まれそうだ、とぼんやり思う。
「なあ、あんたが助けてくれたんだろ」
「……え?」
 意識がずれていたこともあり、司は再度青年の言葉の意味を取りこぼしてしまった。青年は困ったように微笑むと、こめかみを指で軽く叩く。
「どうにも記憶があいまいでね……いろいろと、悪い夢も見たからさ。どこまで現実でどこまで夢なのか、いまいち把握しきれてなくて」
 そういえば彼は熱があったのだ。一応会話は成り立っていたけれど、そのほとんどがうわ言のようなものだったし、覚えていないのも無理もない。司は深くうなずいて、笑いかけた。
「はい。とりあえず、応急処置をしたのは僕ですけど」
「みっともないとこ見せちまって、すまなかったな」
「え、いえ、そんな。顔をあげてください」
 慌てて手を振り、彼の頭をあげさせる。
「熱もあったし、危ない状態だったから仕方ないですよ。そんなにお気になさらず」
 それならいいけど、とつぶやくように答え、青年はまた微笑んだ。次いで司から視線をそらし、改めて中庭を眺める。夕暮れの光が最後の色を投げかけ、庭を美しく染め上げている。
「ここは綺麗だな……太陽の光が入り込んでくる。いいところだ」
 何だか倒れこんでしまいそうで、司はとっさに彼の背へ手を添えた。厚手の上着から伝わるぬくもりに、心の一部が安堵する。
 幼くして親を失った司にとって、誰かの体温を感じられることは、安らぎを得るのとほぼ同義である。一時期親戚の家にいたこともあったが、甘えることはほとんどなかったし、そうする余裕もなかった。
 その反動が今、出ているのかもしれない。どんな理由でもいいから、こうして誰かに触れられることが嬉しいし、一時ではあれ、誰かが隣にいるという事実が嬉しかった。
 答えようと口を開きかけたところで、違和感に気づく。床に置かれていた彼の手が、小刻みに震えていた。手だけではない、支えた背も震えている。
「あの、大丈夫ですか? 震えて……」
「……ああ……うん……大丈夫だよ。すぐ治まる……さっきもすぐ治まったから……」
 応じる声もかすれている。呼吸もわずかに乱れている。司は彼の額に手を伸ばし、目を見開いた。上着越しでは気づかなかった熱が、ダイレクトに皮膚に伝わってくる。
「なっ……熱が下がってないじゃないですか! 駄目です、中に入りましょう」
 腕を首に回させ、立ち上がる。念のためにと上着を跳ね除け、背中に手を差し入れる。案の定、額とは比べ物にならないほどに熱い。じわりと湿った感触がする。傷口が開いているのかもしれない。
「包帯も替えましょう」
「……悪いね……」
 青ざめた顔で、青年がうめく。
「気にしないでください。さ、早く」
 司はそのままゆっくりと廊下を進んだ。いつの間にか日は沈み、夜の帳が忍び寄り始めていた。

 泉の水を汲み、傷を清めること数回。未だ妖気の焼ける音こそするものの、煙は確実に出なくなりつつある。完全に取り除くことは難しいかもしれないが、清浄な空気の中で療養すれば、いずれそれも消えるだろう。
 するすると、布の擦れる音がする。毒々しい紅を帯びた傷口と、綺麗な肩甲骨のラインが見えなくなる。日に焼けていない白い背中を軽くなで、司はようやく言葉を投げた。
「終わりました。まだ痛むでしょうけど、もう少しですから我慢してくださいね」
 指先に残るのは、汗で湿った肌の感触。それを丁寧に水で洗い流し、彼の肩に新しい寝巻きを掛けてやる。毛布を彼の腿まで引き上げたところで、ふと髪で見えなかった肩口が視界の隅に映った。妙にくっきりとした赤黒い色に、司は思わず息を呑む。
 手袋に包まれた腕の半ばから付け根にまで、火傷と思しき跡がある。昨日は慌てていて気づかなかったらしい。悪いと思いつつも目が離せない。事故だろうか。それにしては、あまりに彼の身体に傷がない。たとえば火事に巻き込まれたのなら、体中に火傷の跡があってもおかしくはないはずなのに。
 唐突に、昨夜の彼のうわ言が蘇る。しきりに連絡をしないでくれと言っていたのは、まさか――……。
 最悪の答えにたどり着きそうになったとき、彼からかすれた答えが返った。
「……いいさ……痛ぇって感じる、んだから、マシだ」
 痛みを感じなくなるのが一番危ないのだと、昔どこかで聞いたことがある。確か、脳がショック死を防ぐために、度を越えた痛覚はシャットアウトしてしまうとか何とか。とはいえ、この情報もうろ覚えに過ぎない。司は短く、そうですか、と答えるだけにとどめた。
 彼が緩慢に腕を持ち上げ、袖に手を通す。熱はあるが、昨夜と異なって意識はしっかりしている。それでも、痛みをこらえるために敷布を握り締めていた手は、未だ震えが引かないようだった。
 ボタンを留めないまま、彼は背を丸めて自分の身体を抱きしめる。深く息をついて頭を振れば、長い髪が流れるさやかな音が耳に届く。黒い流れから覗く輪郭を、噴き出た汗が伝って落ちる。歯を食いしばっているのだろう、息を詰めるのが分かった。
「まだ、どこか痛みますか」
 司は思わず問いを投げた。
「……大した、ことじゃねえ。気に……すんな」
 布に覆われた指が、腕に食い込むのが見えた。大したことでないようには到底思えない。
「腕、ですか?」
 確信を持って、問いを重ねる。
「……いや」
 逡巡の後、弱く否定が返された。それとは裏腹に、彼は痛みをこらえるように身を縮めている。やはり腕が痛むのだ。
 司は髪の隙間から、彼の顔を見つめた。そして、尋ねる。
「もし痛むのでしたら、見せて――」
「駄目だ」
 今までのどの言葉よりも鋭い音が、司の声を打ち切った。逃れるようにうつむいた彼の表情は伺えない。だが、このまま引き下がるわけにもいかない。痛みの原因がなんにしろ、取り除けるならば取り除くべきだろう。妖気が原因ならばなおさらだ。
 伸ばしかけた手を下ろし、司はきちんと座りなおした。それから背筋を伸ばし、まっすぐ彼へ視線を向ける。
「なぜ、と聞いてもいいですか」
 短い沈黙が部屋を満たす。息が詰まりそうなほど緊迫した空気の中、ふと彼が面を上げた。それから髪を気だるげにかきあげ、横目で司の視線を捉える。
「……さっきから……気にしてたのは、それかい」
「すみません。ずっと腕を押さえてらしたから」
 ぴくり、と彼の手が動いた。次いで腕から指が外れ、布団の上へと投げ出された。答えはない。瞳は毛布に落ちた影へ注がれている。
 それを肯定の仕草と判断し、司は改めて彼に問う。
「痛むんですね」
 長い間の後、ああ、と小さく声が漏らされた。
「……痛み、ってのは、連鎖する……もんなんだな……」
 吐息に混じる切れ切れの言葉は、彼が痛みをこらえ切れていない証拠でもあった。今度は司に顔を向けて、彼はかすかに首を傾げる。
「……何で、見たいんだい?」
 本当に理由が分からないのだろう、どこか不審そうに眉根を寄せている。司は丁寧に頭を下げてから、彼の腕へ目をやった。
「お気を悪くされたならすみません。もし痛むのでしたら、痛み止めか薬を塗ったほうがいいかと思って……」
 彼もまた腕を眺める。熱のせいで思考もままならないのだろう、視点が定まっていなかった。
(しまった、よく考えれば今じゃなくてもいいじゃないか……)
 体調の悪い人間に無理をさせるわけにはいかない。そう思った結果がこれでは、本末転倒もはなはだしい。
 司が後悔し始めたとき、ふと彼が笑みがこぼした。それから首が横に振られる。
「その、必要はない、……残念だね、……もう、ほとんど、治ったような……もん、だよ」
「それなら、いいんですけど……」
 先ほどの状態を見る限り、相当痛みが強いようだ。それでは完治したと言い切れないのではないか。
 言いよどむ司に対し、彼はついと双眸を細める。
「なるほど、な……興味……あるのかい。じゃあ、見せれば……納得するんだな?」
「そんな、その、そういうつもりじゃ」
 まるで心の内側を見透かされたようで、司は思わず動揺してしまう。一方の彼は手を挙げて司を押しとどめ、唇の端に笑みを乗せた。
「いいよ。別に、見られて嫌だって……わけじゃねえしな」
 彼は手袋を外す。右腕。左腕。痛みのせいか、一瞬だけ眉間にしわが寄る。白いシーツに、黒い手袋が投げられる。それから静かに腕を抜けば、衣擦れと共に寝巻きが落ちる。
「ほら……これで、いいだろ?」
 ゆっくりと、腕がさらされる。あらわにされた彼の肌には、焼け爛れた跡が貼りついていた。向けられた手のひらにも手の甲にも、引き締まった腕にも、なだらかなラインを描く肩口にまで、赤黒い傷が広がっていた。皮膚の移植手術を受けたのかどうか、疑わしくなるほどだ。
「っ……これ」
 あまりの衝撃に、司の声がかすれて震える。
「ひでぇ、もんだろ」
 対する彼は、自嘲するように微笑んだ。
「たまに……言うこと、聞かなく……なるんだよ……困った、もんさ」
 否定してやりたいのに、できなかった。司は静かに目をそらし、唇を噛みしめる。
 予想よりもはるかにひどかった。手術をしていたとしても、肌に刻まれた痛みは決して消えないだろう。
 しかし、同時に直感がささやいた。やはり不自然なほど、彼の身体に傷がない。それに、故意に腕を炎の中に突っ込まない限り、これだけの火傷を負うことはない――そういう方面に詳しいわけではないけれど、こればかりは疑問に思う。仮に皮膚の手術をしたのなら、果たして火傷の跡が残るのだろうか、と。
 嫌な寒気が背筋を這い登る。自分から火の中に腕を突っ込む人間など、いるはずがない。考えられる理由は二つ。ひとつは、事故に巻き込まれた。そしてもうひとつは……誰かに火傷を負わされた、というもの。“あいつ”に居場所を知られることを、彼はひどく恐れていた。
「それ、」
 こわばる唇を開き、司は声を絞り出す。
「まさか――」
「ストップ」
 しかし、すべてが形になる前に、彼の手が司の唇に触れた。肌の触れ合う面積は小さいのに、激しい熱が伝わってくる。
 彼はまた、首を振った。
「余計な、詮索は……好きじゃ、ねぇんだ」
 それ以上は言うな。少ない言葉の中に仕込まれた意味を、司は黙って受け止めるしかなかった。
 小刻みに震えていた指先が毛布に沈む。再びむき出しになってしまった肩に、司はそっと寝巻きを掛けなおしてやった。それからそっと布団に寝かせ、上掛けを胸までかけてやる。それだけでも痛むのか、彼は両腕を引き抜いて布団の上へ置いた。目を閉じて眉を寄せ、苦しそうに息をつく。
 三度目の沈黙に耐えかねて、司は彼に話しかける。
「……あの、手袋なんですけど」
「うん……? 何……」
 答えてくれないかと思ったが、彼は薄く目を開けて応じてくれた。それに少なからずほっとして、司は放り出されていた手袋を示す。
「肌が外気に触れるのは、よくないかもしれませんけど……その、綺麗に洗ったほうがいいかなと思って。大丈夫ですか?」
 彼は戸惑ったように視線をさまよわせていたが、やがて小さくうなずいた。
「……ああ、頼むよ」
「ありがとうございます、乾いたらお返ししますからね」
「いいよ、頭なんか下げなくて……」
 勢いよく礼をする司に、彼は困ったように微笑んだ。
「……じゃ、よろしくな」
「はい。おやすみなさい」
 音もなく立ち上がり、司はふすまを引き開ける。振り返れば、彼がじっとこちらを見ていた。敷布に置かれた手がゆるく持ち上がり、小さく振られる。
「ありがとさん」
 低く柔らかな声にあった苦痛が、ほんの少しだけ和らいでいるような気がする。司も表情を緩め、
「つらかったら、言ってくださいね」
 それだけ言い置いてから、静かにふすまを閉じたのだった。


(2006 完結/2011.4.17 加筆修正)

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