青年の熱は数日下がらなかったものの、一週間を過ぎた頃には微熱程度にまで落ち着いた。傷口にわだかまっていた熱も引き、妖気の焼ける煙もほとんど出なくなっている。
「よかった、だいぶよくなりましたね」
 包帯を替えたあと、司は青年に微笑みかける。
「そうかい?」
 布団の上に座った彼も、かすかに首をかしげて笑った。ここ数日で分かったことだが、彼は笑うときに軽く首を傾ける癖がある。その仕草がまた様になっていて、少しうらやましくさえあるほどだ。
 艶を帯びた髪は、今は解かれてシーツの上に広がっていた。それを慣れた手つきで編むと、鈴の音と共に紐を結び、青年が深く頭を下げる。
「本当に、あんたのおかげで助かったよ。ありがとさん」
「そんな……いいんですよ」
 ここまで彼が回復したのは、彼の生きようとする力が成しえたことだと司は思っている。自分はそれが消えないように手を貸しただけだから、礼を言われるのはどうにも照れくさかった。
「ご自分の体に、どうかお礼を言ってあげてください。僕はお手伝いをしただけですからね」
 片づけをしながら苦笑する。対する返答はない。変なことを言ったかな、と考えたとき、袖が引っ張られた。手袋の嵌められた手が、司の服のすそを握り締めている。困ったように視線をさまよわせていた。
「どうかしました?」
「いや、えっと……名前。ちゃんと聞いてなかったからさ」
 しばしの間のあと、どこか申し訳なさそうにつぶやかれる。二度ほど目を瞬いてから、司はああ、と声を上げた。意識が混濁していたこともあるが、それ以前に名乗ったのは苗字だけで、名前は教えていなかったのだ。
 一度手を止め、向かい合う。
「司です。日向司。ここで宮司と神主を兼任してます」
「司……か。ありがとさん、司くん」
 肩からこぼれる髪を跳ね除けながら、青年は人好きする笑みを浮かべた。
「いい名前だな。ご両親がつけたのか? 世話になりっぱなしだったから、挨拶くらいしねぇと」
 瞬間、司の胸が鈍く痛んだ。表情がこわばるのが自分でも分かる。のどの奥が引き攣れて痛みを訴えた。そして、それを取り繕えるほどの余裕もなかった。
 黙ったまま視線を外し、彼の胸元へ投げかける。着崩れた寝巻きは、父が愛用していたものだ。朝起きて母に見つかるたび、だらしないと怒られていたのを思い出す。
 目を閉じる。いやおうにも浮かんできた感情をどうにかして追い払い、どうにか言葉をしぼり出す。
「……死にました。兄弟もいませんから、僕ひとりです」
 せめて声だけはとも思ったが、やはり平坦な音になってしまった。病み上がりの彼に余計な気遣いをさせたくなかったが、こればかりはどうしようもない。
「そうか……悪いこと聞いちまったな。すまない」
 青年も心中を察したのか、眉を寄せて頭を下げた。袖をつかんでいた指が外れる。
「いえ。大丈夫です。こちらこそ、すみません」
 それからは、互いに無言だった。司も黙ったまま片づけを再開する。青年の視線が司の仕草を追っているのが、気配で分かった。
 薬箱の蓋を閉めたとき、ぽつりと言葉が落とされた。
「かなで」
「え」
「……さかきかなで、だ」
 顔を上げて、彼を見た。彼もまた司を見ている。瞳の色は深く、彼の感情をうかがうことはできなかった。
「名前、ですか?」
「そう」
 小さくうなずかれる。
「木に神で、榊。奏でる、って字の、奏」
 ――榊奏。ようやく知ることができた青年の名は、不思議なほど自然に胸中へ収まった。
「いい名前ですね」
 司は素直にそう伝えた。世辞ではない。本当に、彼に似合うよい名前だと思ったのだ。
「そうかい?」
「ええ」
 青年は少しはにかんだように笑ってから、ありがとさん、とささやいた。本当に嬉しそうな彼が微笑ましくて、司もまた笑みを返す。今まで苦しげな表情しか見てこなかったし、年上の男性が子どものような反応をするのが新鮮で、そうした顔ができるようになったのが純粋に喜ばしかった。
 体調もよさそうだし、もう少し彼と話をしたい。そう考え、改めて彼の隣に座りなおした。彼もまた体勢を変えて司と対峙してくれる。
「えっと、榊さん」
「奏でいいよ」
 きょとんとする司に、奏が笑って首を振る。
「初対面ってわけじゃないし、俺はそう呼んでほしいからさ」
「いや、でも、そういうわけには……」
 いくら一週間一緒だったといっても、さすがに年上の人を呼び捨てにすることは躊躇われる。だが、彼自身はそう呼んでほしいらしい。希望しているのだから、聞かないわけにもいかないだろうが、年上にそういう態度を取るのもどうかと思う。
 対応に困った司が眉を寄せると、彼は小さく肩をすくめた。
「生真面目だねえ。じゃ、しょうがない。名前にさんづけで我慢するよ」
「はあ……」
 どんな譲歩の仕方なんだろう。多少の疑問を残しつつ、司は続きを口にする。
「それじゃあ、奏さん。奏さんはこの辺りに住まわれてるんですか? 榊って苗字、この辺りでは珍しいですし」
 純粋な疑問のつもりだったが、どうやら彼はそう受け取らなかったらしい。あいまいな笑みをたたえて、はっきりと首が横に振られる。
「言えねぇな。そこからいろいろと調べられて連絡されちゃ、ちと困るんでね」
 笑みの深みから覗くのは、柔らかな表情には似合わないほどの強い拒絶。一番最初の日のことが、司の脳裏をよぎっていく。熱に浮かされながらもなお、ここにいさせてくれと懇願してきた彼の姿。今は手袋に包まれて見えない、両腕の火傷の跡。
 “あいつ”とは、おそらく家族のことを指しているのだろう。それに今までの言動を省みると、暴力を振るわれていたと考えたほうが自然ではある。
 無論推測に過ぎない。しかしいずれにせよ、おびえさえ見せる相手の元へ送り返すほど、司は人でなしではない。
「そんなこと、しませんよ」
 司もまた、はっきりと否定を口にした。
「本当かい?」
 奏の切れ長の瞳には、未だ疑いの色が浮かんでいる。
「もちろんです。嫌がっている人の意思を無視するようなこと、できませんから」
 相手の双眸をまっすぐに見据え、司は強い口調で言い切った。見つめあうことしばし、奏がふと視線をそらした。それから口元に手を当てて黙りこむ。司の言葉の真偽を確かめているのか、柳眉の間にはしわが刻まれている。
 もちろん、その場しのぎの嘘ではない。そもそも嘘は嫌いだし、本心からでなければこんなことは言わない。司も黙したまま、奏が口を開くのを待った。
 やがて、奏の手が下ろされた。ついと視線が元に戻る。
「……なあ、司くん」
 真剣な面持ちで、奏が切り出す。
「はい」
 司も居住まいを正し、応じた。
「俺、ここ住んでいい?」
「……、……はい?」
 思わず尋ね返した途端、奏がへらりと相好を崩す。
「いやー、家帰りたくねぇって言ってはみたものの、実は行くあてないんだよねぇ。財布も見当たらないしさあ。あ、そーいやさ、俺助けてくれたときに落ちてたりとかしなかったよな? 財布」
「は、はあ」
 口調はあくまで明るく軽い。しかしながら勢いは強い。その流れに気おされて、司は思わずうなずいてしまった。その瞬間、奏の端整な顔がにっこりと笑う。
「だよなぁ。財布がないからホテルとかにも泊まれねーし、かといってこのままじゃ野宿どころか野垂れ死にさね。そうだろ?」
「はあ、ですねえ」
 また流れで答えてしまってから、気づく。
(あれ、この流れで行ったら、いいですよってことにならないか)
 気づいた瞬間、奏の手が司の手を握り締める。目を輝かせてずいと詰め寄られ、司は慌てて背を反らした。
「だから、ここ住まわせてくれよ。なっ! お願い!」
「い、いや、ちょっと待ってください!」
 司は必死で首を振り、どうにか反論を試みる。
「いきなりそんなこと言われても、その、いろいろと困ります」
 別に嫌なわけではないのだが、さすがに心の準備ができていない。いくら成り行きで介抱したとはいえ、相手は赤の他人なのだ。親類や友人と一緒に住むとは訳が違う。そう簡単に許可を出せるはずもない。
 だが、それでも奏は引き下がらない。握った手に力を込め、瞳を潤ませる。
「お願いだよ、行くとこないし、頼むよぉ……命助けてくれただろ?」
「それとこれとは話が別ですって」
「非常識は重々承知だ、でもホント帰りたくねえんだよ……! この辺のことは分かんねーし、頼れるのはあんただけなんだよぉ」
 司はうっ、と言葉を詰まらせる。素性も分からない相手と一緒に暮らすわけにはいかないが、詳しく聞くのは躊躇われる。この辺りの人間ではないようだし、問答無用で放り出すのも良心がとがめる。進退窮まるとはまさにこのことを言うのだろう。
 悩む司の意識に、奏の切実な声が重ねられる。
「なあ、お願いだよ。家事でも何でもやる、給金とかいらねーから、置いてくれるだけでいいんだ。飯作ったり掃除したりくらいしかできねーけど……あんたに恩を返したいんだよ」
 と、不意に並べられた言葉の一節が、司の心をくすぐった。
「……飯? 作れるってことですか?」
「ああ。それなりには、だけど……」
 奏がやや戸惑ったようにうなずく。そんな質問がされるとは思っていなかったのだろう。
 司はさらに問いを連ねた。
「毎日お弁当はつきます?」
「もちろん、要望がありゃ何でも作ってやれるよ。弁当だけじゃなくて、朝飯から晩飯までちゃんとやる」
 そういえば最近、手作りの弁当を食べていない。親戚の家にいたときは違ったが、大学に入り、ひとりで暮らすようになってからはずっとコンビニだった。考えてみれば、朝食も抜くことがほとんどだし、夕食も外食が多い。家にいる場合も、近所の人からもらった惣菜を食べたり、最悪抜いたりしていた。自分で作ろうなんて考えたことがなかった。
(……面倒だったから、ってのもあるけど)
 深く息を吸い、吐き出す。それだけで頭が冷え、混乱していた思考がクリアになっていく。
(……誰もいないから、ってこともあるんだろうなあ)
 手料理を振舞ってくれる相手がいない。手料理を振舞う相手がいない。それは結局のところ、
(寂しい、ってことなんだろうな)
 両親が死んでからすぐに、司は一度この家を離れた。親戚の家に世話になりながら高校に通い、そして戻ってきたとき、まず最初に感じたのは――がらんどうになった家にたったひとりしかいないという、身を切られそうなほどに冷たい寂しさだった。空っぽになった家は、それでも綺麗に整っていたのに、まるで廃屋のようで怖かったのを覚えている。
 ひょっとしたら、これまでも無意識のうちに避けていたのかもしれない。ひとりでここに取り残されることを、誰もいないのだと思い知らされることを。
 司は両肩から力を抜き、握られた手を慎重に外した。
「ああ、駄目ならいいんだぜ? 野宿もやってみりゃ面白そうだしな」
 朗らかに笑って、奏が言う。表情とは裏腹に、切れ長の目に浮かぶのはわずかなおびえ。拒絶されても大丈夫なように、自分から予防線を張っているのが目に見えて分かる。
 細い両肩をたたいてやれば、彼がかすかに緊張した。わざと顔をしかめ、重々しく言う。
「心の準備ができてないから困るって言ってるだけで、誰も駄目だなんて言ってませんよ?」
「……へ?」
 不思議そうに瞬きをする彼に向けて、司は満面の笑顔を返した。
「ここにいてもいいですよ、ってことです」
「ほ、本当か!?」
 途端、ぱっと奏の表情が明るくなる。
「もちろんです。ただし、本当に給料は出ませんけど……」
「全然構わねぇさ! ああよかった! ありがとよ、本当に助かる!」
 心底嬉しそうな様子に、司まで嬉しくなってしまう。
「よろしくお願いしますね、奏さん」
「ああ、よろしくな。ってわけであだ名考えよう、あだ名」
 思わず脱力した。
「……なんでいきなりそうなるんですか」
「だって、これから長い間一緒に生活するだろ? 仲良くなるための第一歩だってぇ」
 奏のノリはあくまで軽い。とはいえ、事実しばらく生活を共にするのだから、彼の提案も決して悪いものではない。と思う。そうやって距離を縮める方法も、なくはないはずだ。
「司、つかさ……あっ。じゃあ、“つー”なんてどうだ?」
 何気なく発しただろうその音に、司は目を見開いた。一瞬脳裏にひらめくのは、夕日に染め上げられた道と“彼”の影。伸ばされた手、髪をかき混ぜる指。
『つー』
 声も顔も覚えていないのに、そう呼ばれていたことだけは覚えている。呼ばれることは、もう二度とないと思っていた。
 懐かしさと切なさが交じり合い、急激に胸が熱くなる。あふれ出しそうになるその感覚をこらえようと、司は目を閉じて息を吐いた。
「あれ、駄目かい?」
 奏の言葉に、多少困ったような色をにじむ。
「あ、いえ……その、そういう、わけじゃなくて……」
 慌てて目を開け、彼の心配を否定した。
「ただ、その、懐かしいな、と思って……」
「懐かしい? 親父さんとかが呼んでたとかか?」
「いえ。この近くに住んでたお兄さんが……僕のことをそう呼んでいました」
 今はもう、遠い昔の話である。思い出したくもない過去の中で、唯一大切にしているもの。そのときの記憶は今もなお鮮やかに、司の心に刻まれている。たとえその後に絶望しかないと分かっていても、手放すことなんてできなかった。
「僕は、その呼ばれ方が、すごく好きだったんです。もう呼ばれないと思ってたから、つい懐かしいなって思って」
「そうか。じゃあ」
 と、奏が司の頭に手を置いた。何の前触れもないそれは、司を大いにうろたえさせる。
「へっ、な、え」
 司の狼狽もどこ吹く風、奏が司の頭を撫でながら微笑んだ。同じ男性なのかと疑いたくなるくらい、それは綺麗な微笑だった。
「俺がこれから、いーっぱい呼んでやるよ」
 甘い声音が耳をくすぐる。こんな声で、こんな笑顔で、ともすれば告白とも取れそうな言葉をささやかれるなんて思わなかった。自分が女の子だったら嬉しいかもしれないが、
「……何か、嬉しくないんですけど」
 残念ながら司はれっきとした男である。若干驚きこそしたが、まったくといっていいほどときめかない。軽く眉をしかめれば、奏はおかしそうに笑って肩をすくめた。司の反応は想定の範囲内、むしろ予想通りだったのだろう。
「ははは、まあそう冷たいこと言いなさんなって。人の好意は素直に受け取るもんだぜ、青少年?」
 次いでちょいと眉間が押される。
「はあ……」
 司は大げさにため息をつき、降参の意を込めて両手をあげる。一方の奏は声をあげて笑い、右手を差し出した。
「まーいいさ。改めてよろしく頼むぜ、つー」
「はあ」
 気のない返事を返しつつ、司は彼の手を握る。
 ――もしかしたら、なかなかに面倒な人を拾ってしまったかもしれない。頭の片隅でそんなことを考える。これからどういう生活になるのか、想像することすらできなかった。


(2006 完結/2011.4.17 加筆修正)

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