誰かが手首をつかんでいる。手のひらの薄い皮膚を通して、体温が流れ込んでくる。目の前に広がる悪夢のような緋色の庭が、別の景色へと塗り替わっていく。
 司は反射的に跳ね起き、知らず止めていた息を吐き出した。全身に冷たい汗がにじんで気持ちが悪い。心臓も肺も、まるで全力で走ったあとのように苦しい。
「落ち着け、もう大丈夫だから」
 誰かの声が意識に届く。低くなめらかな男の声音は、不思議と司の心を落ち着かせた。ひとつ深く息をついて、司は周囲に視線を投げる。
 自分の部屋だ。クローゼットに箪笥と机。机の上と畳の表面に、障子紙を通してほの暗い月の光が波打っている。人がひとり通れるほどの隙間が開いて、そこに落ちる光は濃い。
 奏の肩越しに、悪夢の舞台となった中庭がある。彼が来てから綺麗になった、日本庭園風の中庭。塀の内側には桜や楓、南天や松が植えられている。神社のある東側の木戸にほど近く、父が作った簡素な禊用の小屋がちんまりと見えた。禊の泉から中庭を横断する小さなせせらぎと小さな池の両側は、苔や菖蒲や鷺草などの緑が縁取っている。
 誰もいない中庭は、いまだ夜の気配に沈みまどろんでいる。目の覚めるほどの緋色は――もう、どこにもありはしない。
「ゆめ……」
 つぶやく司の声はかすれ、枯れている。頬に触れる空気は冷たいのに、握られた手はひどく熱い。いまだ力の残滓がくすぶっているのをぼんやりと感じながら、司はようやく今置かれている状況を呑み込んだ。
 手をつかんでいるのは、浴衣姿の奏だ。手袋に包まれた指はかすかに震えている。綺麗な眉を寄せ、険しい顔でこちらを見つめているが、赤茶の瞳にははっきりと心配の色が浮かんでいた。
「おはようさん、目、覚めたかい」
 司の言葉を聞いてか、ようやく奏の表情が和らいだ。細い肩の力が抜け、安堵したように微笑む。するりと外れる指の感触を、司はどうしてだか惜しく思った。
「えっと……僕……」
「ずいぶん乱暴な夢ぇ見てたんだな? 器用にうなされながら殴りかかってくるんだからよ」
 おどけたように言いながら、奏は浴衣の襟を正した。
 布越しの指がかきあげる髪は、わずかに湿り気を帯びている。講義の都合上早めに休むことが多い司に比べ、奏は片付けや翌日の食事の仕込みをしてから風呂に入るからか、寝る時間が遅いのだ。
 きっとうなされているのを聞きつけて、こちらに来てくれたのだろう。司は申し訳なさにいたたまれなくなりながら、小さく頭を下げた。
「……すみ、ません……」
 からからに乾いた喉から、どうにか言葉を絞り出す。奏は軽く首を傾けて、優しく目を細めた。
「まったく。心配したんだからな? ……水、持ってきてやるよ」
 音もなく立ち上がり、部屋の外に出て行こうとする。今まで近くにあった気配が離れていくのが妙に心細くて、司は思わず彼の浴衣の裾を握った。
 奏が振り向く。水分をわずか含んだ髪が、肩からこぼれていく。彼が髪につけている鈴が、小さく音を立てて揺れた。
「あ、その……」
 少し、そばにいてくれませんか――その一言がどうにも気恥ずかしくて、司は目をそらして言い淀む。
 これじゃあまるで子どもではないか。もう成人して自立しているんだから、甘えたことをするんじゃない。理性の部分がわめくが、それでも司の手は奏を捕まえて離そうとしなかった。
 奏は何かを考えているのか、少しばかり動きを止める。それからさやかに吐息を揺らし、再度膝を折って司の隣へと腰を下ろした。
「悪い夢を見たときは、誰かがそばにいたほうがずっと安心するからな」
 ずいぶんと、頼りない顔をしていたらしい。目線だけを動かして奏を見れば、奏は穏やかに微笑みながら司を眺めている。
「……すみません」
「いいって。俺もそうやって、お前さんに助けてもらったからな」
 柔らかな低さの音が紡ぐ言葉が心地よい。伸びる手を払う気にはなれなくて、司はそのまま彼の行動を見つめていた。
 骨ばった大きな手が、司の頭をゆっくりと撫でる。ぽんぽんと安心させるようなその動きは、司の記憶の奥底を切なく刺激していく。
 父の撫で方はもっと乱暴で、それこそ髪をぐしゃぐしゃにされるようなものだった。母もよく頭を撫でてくれたが、父のそれを真似ていたのか、やはりけっこうな激しかった気がする。こんなふうに髪を指で梳き、優しく頭をぽんぽんとするその動きは、そう、
(お兄ちゃんと、似てるんだ)
 どこか悲しい空気をまとった、きれいな人。顔も声も覚えていないのに、それだけはよく覚えている。ひんやりと冷たい手で、優しくて、でも寂しそうに笑っていたことも。
 司の視界の隅で鈴が鳴る。髪を結う紅白の紐、そこについた三つの鈴。どこかで見覚えがあると思っていたそれが、奏の髪をいつもと同じように飾っている。司は何気なくそれを観察し、以前奏に確認しようとしていたことを思い出した。
「奏、さん」
 喉が渇く。水を持ってきてもらえばよかったと、少しばかり後悔しながら司は切り出す。
「その紐と鈴……どこで?」
「ああ、これかい?」
 自分の髪を結う紐に触れて、奏は笑う。その笑みは、どこか遠い昔を懐かしむような、戻ってこない時間をいつくしむような、そんな類のものであった。
「昔な、知り合いにもらったんだよ」
「そう、なんですか……」
「心当たりでもあるのかい?」
 司はひとつうなずいて、艶やかな彼の髪をまとめるそれに触れた。鈴は外からの光を淡く照り返して鈍く輝き、司の爪に揺らされてころころとささやく。
「ここのお守りで……特別なお客さんにしか売ってないものなんです」
 もともとは、紅白の紐を編んで円形にし、鈴を三つつけた形をしている。鈴は日向神社のご神体である神楽鈴を示し、ひいては太陽の加護を受けた女神、日輪女天(にちりんにょてん)を表すものだった。
 お守りというよりは破魔飾りに近く、会社などから注文が来たときだけ作る特別なものとされていた。幼少の頃、両親を手伝って紐を結ったり、祝詞をあげながら鈴を磨いてつけたりしていたことを、司ははっきりと覚えている。
 とはいえ――そんなに有名な神社ではないゆえに、買い求める人はそう多くはない。せいぜい地元のお年寄りが、正月に新しいものに交換する程度であった。
「そんな大事なもんだったのか……」
 奏は小さくつぶやくと、髪ごと鈴と紐を手のひらにすくいあげた。
「大事なものというか、まあ……持っている人は、多くはないと思います」
「そうか……」
 何かを考えているのだろうか、奏の目はただ静かに鈴と紐を映している。
「それ……誰かから、もらったんですか?」
 答えたくないなら答えなくてかまわない。ただ――彼が、この神社にゆかりあるものを持って、あの館にいたという事実が、ただの偶然だとはどうしても思えなかった。
 司の問いかけに対し、奏は両目をすがめて苦笑で応える。
「んー……まぶしすぎて触れないくらいに大事な人、かな」
 その表情はあまりにも優し気で、胸にちりと何かが走る。その感情を何と呼ぶのか司にはわからなかったし、それによってどうして落ち着かない気分になるのかも理解はできなかった。
「それって……恋人、ってことですか?」
「あはは、そんなたいそうなもんじゃねぇよ。俺が勝手に好きで、大事だと思ってただけだ」
 言いながら、彼は肩をすくめて首を振る。奏の動きにあわせて鈴が鳴り、薄暗がりにちらちらと金色の光を散らした。
「これも、未練があるから手放せないだけだしな」
「未練?」
「そ。これ持ってるとさ、まだつながってる気がするんだよ」
 女々しいよなあ、と彼はまた苦く笑う。胸がまた少しばかり軋んだ気がして、司は深く息をついてそれをやり過ごした。頭を撫でる彼の手が心地よくもあり、同時にどうにも居心地が悪い。
「……そう、ですか」
 中庭の木々の葉がざわめいた。開いた障子から、いまだ冷たさを残す春風が入り込んでくる。奏がふと手を止めたのは、ちょうど風が強く吹き付けたときだった。
「どうか、したんですか?」
 奏のまなざしが外へ向く。司もつられてそちらを見やるが、葉擦れの音以外は何も聞こえず、薄暗闇に沈む庭以外は何も見えない。
「がたがたうるせぇなと思ってよ。ま、どうせねずみか猫だろうさ。ちょっと様子見てくるよ」
 奏がしなやかに立ち上がる。手が離れ、気配が離れる。依然として、庭からはそれらしき音は聞こえない。
「奏さん……」
「そんな顔するなって、すぐ戻るから」
 まるで駄々をこねる子をあやすかのように言いながら、奏は鈴の音を残して部屋を出る。障子を閉めようと伸ばした指先に、突如小さな痛みが走った。間髪入れず、自然のそれとは異なる冷気が司の全身の皮膚を刺す。ねばつく悪意、殺意、飢え、そんなモノがまじりあった空気、気配、人とも動物とも異なる生き物のソレは、妖魔の持つ妖気に違いない。
 司はすぐさま布団をはねのけて札の束をつかむと、羽織を肩にひっかけて外へと飛び出した。木々の不安げなざわめきは不自然に大きくなり、ひどいノイズとなって辺りに散っていく。
 禊用の小屋、中庭を横切る小さな川と池、神社へ向かうための木戸。庭の隅々から、正面の門から玄関へ続く石畳を目で追うが、奏の姿はどこにもない。ただひしひしと、妖魔の放つよどんだ妖気ばかりが風に乗って吹き荒れていた。
 いったいどこに行ったのか――焦りながら、司は靴置きの草履をつっかける。悪夢が再び脳裏をちらつき始め、まとわりつく嫌な予感を振り払おうと頭を振った。
「奏さん!」
 声を張り、駆ける。考え付く場所はふたつ。ひとつは裏口、いわゆる勝手口である。基本的にゴミ出し以外では使わず、施錠と魔除けが施してある。もうひとつは、正面の門。魔除けこそつけてはあるが、人の出入りが比較的多いこともあり、摩耗が激しい。妖魔が入り込もうとするのは、案外正面からのほうが多かった。
 あたりを付けた直後、司はうなる風の向こう、正面の門の外から確かに人の声を聴いた。迷いなくそちらへ足を向け、扉を押し開けて硬直する。
 果たして予想通り、薄衣一枚をまとった奏の背がそこにあった。腰に手を当て、何事かを語りかけているようだ。彼が対峙するのは、ひび割れた空間と、そこから身を乗り出す不気味な生き物たち。いっそ不自然なほど真っ白な皮膚、とがった耳にまぶたのない巨大な目、舌の代わりに無数の触手を裂けた口からこぼしながら、ぎいぎいと生理的嫌悪感を催す鳴き声を上げていた。
「奏さん! 何してるんですか!?」
 妖魔どもが司を認め、奇声を発す。奏は肩越しに司へ視線を投げると、困ったように笑った。
「よう、つー。参ったよ。人ん家に勝手に入るなってさっきから言ってるんだけどさ、全然話が通じねぇんだ。どうにかしてくれよ」
「あ、当たり前でしょう……!」
 無事なことへの安堵と、場違いな呑気さへの呆れで、司は思わず脱力する。妖魔がいまだ現世に現れ切っておらず、彼を襲う前だったのが救いだ。
「そもそも人語の通じる相手じゃない! 危ないから下がってください!」
「だよなあ。どう見ても化けもんだもんなあ」
 奏はしげしげと、空間のひび割れから身を乗り出している化け物どもを眺めている。この警戒心のなさこそが、連中の格好の餌食になる理由なのだということを、司は今更のように思い出した。
「感心してる場合じゃないですから!」
 司が奏へと手を伸ばす。ひび入る虚空の裂け目から、妖魔が糸を引いて垂れ落ちる。湿った不快な音を立てて落ちながら、ソレらは奏へ向けて鋭く触手を突きこんできた。
「く……!!」
 とっさに奏の腕を引いてかばう。左腕へ突き刺さった触手をつかんで引きちぎり、そのまま投げ捨てる。引き抜くと同時に血が噴き、石畳を汚した。
「おい、今、血が……!」
 奏の表情がこわばる。寝間着として使っていた父の浴衣に、朱の色がにじんで広がっていく。少し破れてしまったのが惜しいが、あとで綺麗に洗って繕えばまた使えるだろう。
「大丈夫です。すぐ治ります」
 司はなだめるように言いおいて、札を数枚抜き取った。くすぶっていた力は瞬く間に札へと燃え移り、白銀の焔へと変わる。祝詞をかたどりなぞる司の目に、あの悪夢にたたずんでいた蝶の妖魔の姿が映る。
 ――いずれ、必ず。
 白き焔が、遠くかすむ銀の蝶への憎しみでさらに強く燃え上がる。そのまま腕を振るい、次々と現世を侵食する妖魔へ焔をたたきつけた。
 断末魔すら残さず塵と化すソレらを一瞥し、司は散る焔の残滓を袖で払う。妖気は燃え盛る焔によって拭われ、空間には不気味に口を開けたひびだけが残っていた。
「“塞”」
 言霊を織り、金色の燐光を宿した札をそこへと放り込む。言霊により力は糸と成り、空間を徐々に縫い合わせていく。
 弓月への連絡はあとにしよう。司はじくじくと痛み始めた傷へと手をやり、奏へと振り返った。
「奏さん、大丈夫ですか」
 奏は切れ長の目を見開いて、司の腕を見つめていた。傷を負った左腕に触れる手は、頼りなく震えている。
「怪我……俺の、せいで、……ごめんな、こんな」
 動揺しているのか、血を見たせいか。奏の顔色はひどく悪い。病み上がりなのに、ショッキングな出来事を目にしたせいもあるだろう。司は奏の手を握り、安心させるように笑いかける。
「大丈夫です。これぐらいは大した事ないですし……慣れてますし」
 妖魔を浄化し抹消させるという使命を持つ以上、流血沙汰は避けては通れない。いつもと同じ、司にとっては日常的な非日常。だが。
「慣れてるって、お前な。二十歳で流血沙汰に慣れてるほうが珍しいからな? いつもあんな危ないことしてんのかよ」
 司は思わず苦笑する。自分だって危ない目に遭ったというのに、真っ先に司の心配をしているのが少しおかしかった。
 見られてしまった以上、もう隠しておくことはできない。彼の身を守るためにも、彼には世界の真実を知ってもらう必要があるだろう。
「……中、入りましょう。いろいろと、話したいことがあるから」
 奏は眉間にしわをよせ、小さくうなずく。その背を押して、司は彼と一緒に正面の門をくぐった。


(2006 完結/2017.11.10 加筆修正)

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