「司ー、ちょっといい?」
 夕日が差す、家の縁側。逆光の向こう側から母の声がする。優しくて穏やかで、どうしてだかとても懐かしい。
「母さん、どうしたの」
 答える自分の声は、いつもとまるで変わらない。一瞬だけ浮き上がった違和感は、すぐに鮮やかな夕日に溶けて消えてしまった。
「お客さん連れてきたから、一緒にお茶しましょ」
 表情は見えないけれど、母の声は楽し気に弾んでいる。そう、家にはいつもお客さんが来るのだ。だいたいが父の知り合いで、ときどき母のお友達が来る。きっと今日も、そのどっちかだろう。
「お茶? いいなあ、お父さんも混ぜてほしいなあ」
 司のいる反対側の廊下から、袴をはきかけの父が現れる。橙色の光が父の顔に影を落とし、その形を隠してしまっているけれど、そのシルエットも声も確かに懐かしい父であった。
「あらいやだ、あなたったら! パンツ一丁だなんて恥ずかしい! ちゃんと着替えてちょうだいな。そろそろ時間でしょ」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと着替えるしちゃんと行くから、ちょっとだけでも、ねっ」
 父は片足だけ突っ込んだままの袴をはき直しながら粘っている。お客さんと一緒にいたいというよりは、母と一緒にいられないのが寂しいのだろう。
「たまにはいいんじゃない? 父さんが一緒でも」
 司が助け船を出せば、母は笑いながら「まったくもう」とだけ言った。それが了承のサインであることは、司も父もよく知っている。
 父が手を伸ばす。司は手を差し伸べて手のひらを合わせる。大きな手のひらだ。司の大好きな父の、大きくて懐かしい手のひらだった。
 ちりとまた違和が胸を刺す。泡のように、心の奥底から湧き起こりはじけていく。どうしてなのかわからない。こんなにいつもどおりなのに、こんなにも、こんなにも普通で、こんなにも幸せで。当たり前の、風景なのに。
 考え込む司の視界、明るいオレンジ色に染まった庭に、影が一筋差し込む。逆光で見えないけれど、司にははっきりと“彼”が認識できた。
「お兄ちゃん! 来てくれたんですね」
 立ち上がる司の目に、長い髪を風に遊ばせる“彼”が見える。結わえられた綺麗な髪、そこにつけられた鈴がころりと鳴った。“彼”が客人であることが、司には理解できていた。
「さあ、あがってください」
 手を差し伸べた司を、“彼”はただ無機質に見つめている。庭にいる母も、廊下の反対側にいる父も、みんな、みんな、じぃとして。
「……どうか、したんですか」
 息が詰まる。風が鳴る。誰も答えない。何も言わない。夕方の橙はどんどん濃くなって、鮮やかな緋色へと変わっていく。
 目が痛くなるほどの影と光のコントラスト。その中を、ひらりと何かが横切った。思わず目で追いかけて、司はひゅうと息をのみこんだ。

 ――それは、この世のものとは思えぬほどに美しい、銀の蝶。

 全身が粟立つ。嫌な予感が脳天からつま先まで走り抜ける。体が動かない。動けない。この先どうなるかを、――どうなってしまうかを、司は、知っている。
 大きなものが爆ぜ割れるような、鈍く湿った音。それから大量の液体をぶちまける音。庭からふたつ、廊下からひとつ、鼓膜を震わせこびりつく。
 きしむ首を無理やり動かし、庭を、見た。朱色に染まる庭、母が干していた洗濯物が音もなく翻る。銀の蝶が無数に舞い飛ぶ夕刻の庭を、廊下からあふれた朱色の何かが垂れ落ち汚していく。
 “彼”がいた場所に、別の誰かがたたずんでいる。その背に広がるのは、記憶にも鮮やかな蝶のそれ。庭を飛び交うどの蝶よりも禍々しく、どの蝶よりも美しい、月の光を紡いだように冴え冴えと冷たい銀の羽根。
 吐き気とともにこみあげてくる怒りに、司は肩を震わせた。何が起きたかなんて、もう見なくたって知っている。こいつが、コレが、両親を、“彼”を。
「お前、が、」
 絶叫は恨みを吸い上げ、声ににじむ。今すぐ駆け寄って殺してやりたいのに、足が言うことを聞かず縫い留められたままだ。苛立ちと憎しみとで歯ぎしりしながら、司は言葉を絞り出す。
「許さない、……許さない、絶対に、」
『違う』
 空気をかすかに震わせる、硝子のようにもろく薄い声がする。
『……違う、こんなこと、望んでなかった』 
 羽根が銀光を散らしていく。紡がれる言葉は、憎い妖魔のソレとは思えぬほどにささやかで細い。とめどなく煮えて湧き出すどす黒いもので胸中を染め上げながら、司は羽根を負う影を睨んだ。
「この後に及んで、お前はまだそんなことを言うのか……っ!」
 腕が動かない。体が動かない。すべてを奪っていったこいつが憎い。すべてを壊していったこいつが憎い。憎くて、憎くて、胸を焦がすほどの強い感情が、全身を駆け巡っていく。
《穢れを持つ者を、許すなかれ》
 涼やかな女の言葉が降る。血染めの光に紛れるように、さやかに、波のように降り注ぐ。
《穢れを持つ者を、生かすなかれ》
「許さない、絶対に、許さない……お前を、絶対に、許さない!!」
 喉を焼く呪いの言葉を、優しさすらにじませた音が肯定する。
 生かすわけにはいかない。本当ならば今すぐに、浄化の焔で焼いてやりたい。骨も髪も塵すら残さず焼き捨てたとて、到底足りはしないだろうけれど。
《穢れを持つ者を、生かすなかれ》
 降る声が、司に力をくれる。体内よりあふれ出る力の奔流は、全身を廻り、手のひらへと集まって蒼い焔と化する。
 揺れる真紅の瞳が見える。流れる髪が見える。震える銀の羽根が見える。そのすべてを、憎しみとともに目の奥へと焼き付ける。誰かに似ているような気さえしたが、それもすぐに激情の波にさらわれていく。
『許さないで、いい』
 蝶は言う。硝子の声音で、ささやくように。
『……だから早く俺を、殺しに来てくれ』
 血溜まりに沈んだ鈴を持ち上げて、蝶はどこか懇願するように、つぶやいた。
 振り上げた手が熱い。浄化の焔はとどまるところを知らず、司の腕すら包んでいく。
《穢れを持つ者を、生かすなかれ》
 体が動いた。司は背を押す声と真っ黒な衝動のままに、その手を、焔を、無防備にさらけ出された妖の喉へとたたきつけた。


(2006 完結/2017.11.07 加筆修正)

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