三
蝶々館で奏を見つけた翌日から、妖の活動は嘘のように静かだった。気配こそあるものの、周辺に潜んでこちらをうかがっているだけのようだ。もっとも、少なくとも一週間は彼に付きっ切りだったから、構っている暇なんてなかったのだけれど。 (……一週間、か) 奏が目を覚まし、成り行きで一緒に生活するようになってから、もう七日が経過していた。一日目は体調が安定せず、傷も痛んだようなので無理はさせなかったのだが、ここ数日でずいぶんと顔色もよくなっていた。 とりあえず受けた印象としては、気がよく人懐こい少し変わったお兄さん、といったところだろうか。始終ふわふわとしていて落ち着かない気もするが、それは司の性格が真面目すぎるから受ける印象なのかもしれない。 そんなことを考えていると、ひらり、と何かが目の前をよぎる。 「わっ」 軽い風を頬に受け、司は思わずそちらを見やった。 「びっくりした。蝶か……」 蝶は落ちてゆく日の光を浴び、白い羽を煌めかせて羽ばたいていた。見たことのない種類だ。モンシロチョウにしては色が薄い。黒いはずの模様は、どこか銀色がかかっているようにも思える。 ひらめく色に目を細め、手を伸ばした。蝶は司の指をすり抜け、風に散る桜の花弁を縫うように舞う。不意に頭の奥がうずいた気がして、司はそっと額をおさえた。 夕日が何かに重なる。ひらめく蝶の羽。燃え上がるのは。 「おい、司」 と――唐突に低く響く声が耳に入る。急に現実に引き戻されてうろたえながら、司は声の主を探した。 「こっちだ、こっち」 鳥居のほう、石段から降りてくる。片手はポケットに、片手はだるそうに振られていた。短く切り詰められた髪に三白眼、春だというのに黒いジャケットを着込んでいる。肉付きの薄い身体、仏頂面だが整った顔立ち、すらりと伸びた体躯だけを見れば、高校生とは思えないほどだ。どころか、成人した男性とさえ見間違えるだろう。 司は淡く笑みを浮かべ、手を振り返した。 「弓月(ゆづき)ちゃんだったのか」 「ちゃん付けすんな」 案の定、眉間にしわが寄せられる。女扱いを嫌うというよりは、そもそも自分を女だと思っていないのだ。彼女はそういう風に育ち、そういう風に生きている。 氷室(ひむろ)弓月。妖を狩る一族の末裔である。司とは両親を通して以前から交流があり、確か今月高校に入学したばかりだったはずだ。これから仕事に向かうのだろう、制服ではない。 分かりやすく、かつ、彼女の一族の掟や身体に現れる特徴をひとまず置いておけば、男装の麗人である。そして、妖を倒す立場の者で知らぬ者はいない。彼女らの先導および手助けがなければ、ことに司などは満足に動くこともままならない。そんなわけで、司は彼女に頭があがらない。 「はは、ごめんよ」 苦笑して両手を挙げれば、弓月は鷹揚に「おう」と答える。特に機嫌を損ねた様子はない。そのまま大股に司へと歩み寄り、真正面で立ち止まった。 「怪我したってぇ奴はどこにいんだ?」 「あ、うん。今家にいるよ」 「寝てるのか?」 「いや。もうずいぶんと元気になったみたい……だけど」 彼女の黒い双眸が、司の瞳を真正面から射抜く。探るような、そしてえぐるような強いまなざし。司は一瞬気圧される。 「……そ、それが、どうしたの?」 「マジで回復しやがったのか?」 お世辞にもいいとは言えない彼女の目つきが、不意に鋭利さを増した。 「全快とまではいかないけど、動き回るくらいになら……」 一拍の間を置き、弓月はさらに言葉をつなぐ。 「そいつ、一般人だろ?」 「見た限りではそうだね」 「あの館、結構な妖気だったが、よくもまあ生きて戻れたもんだな。俺でも入るのためらったくらいだったっつーのに、怪我しても一週間で動けるようになるたぁ……入り込んでた妖気は、もう抜け切ったのか?」 決して口数の多いほうでない弓月が言葉を重ねるときは、会話から情報を引き出し、己の経験と照らし合わせている証拠だ。彼女なりに何か思うところがあるのかもしれない。 せめて少しでも役に立てれば。司は素直に応じた。 「うん……全部とまではいかないけど。あの中にいれば、そのうち抜けると思う」 「拾ったときの様子は?」 「怪我をして気絶してた。背中に深い切り傷があったから、誰かにやられたんだと思う」 「何かやらかしたんじゃねぇのか?」 弓月の言わんとしていることが理解できず、司は眉を寄せて彼女を見る。 「それはないと思う。普通の人間が、自分に危害を加えようとする相手に手を出すなんて」 もちろん、ありえないと断言できるわけではない。ここ最近、興味本位でちょっかいをかける人間は増えてきている。それだけ妖は知覚されるようになり、妖を知る人間が少なくなっている。 妖に捕まれば、その場で食われてしまうケースがほとんどだ。逃げられたとしても、身体の一部分が奪われていることが多い。深かったとはいえ、切り傷のみで済むなんてことはめったにない。皮肉な話だが、今まで目で見、伝え聞いたことを踏まえれば、そう結論付けるしかできない。 果たして彼の運がよかったのか、それとも人妖の気まぐれか。怪我をさせた本人がいない以上、奏が無事であった理由を知ることはできない。奏自身に聞いてみてもいいだろうが、果たして覚えているのだろうか。 「普通の人間なら、な」 司が思案していると、不意に含みのある言葉が漏らされる。 深い意味を掬い取ることができず、司は眉間のしわを深めて問い返した。 「どういうこと?」 弓月は腕を組んで司を一瞥する。自分よりも年下だというのに、まるで成熟した男性のような貫禄がある。そういう大人びた仕草が似合うのは、ただひとりで戦ってきたからなのかもしれない。 「そいつを連れ出した途端に追われたって話だが?」 「質問に質問で返すのはちょっとずるいんじゃないかな」 「俺ぁ忙しいんだよ。ちゃっちゃと答えろ」 ぶっきらぼうに突っ返され、司は苦笑を禁じえない。不遜で我が強いのもいつものことだ。それに事実、彼女はとても忙しい。いたずらに会話を引き伸ばしても、お互い得はしないだろう。 「追われたっていうのは本当だけど……彼じゃなくて僕を狙ってた、っていう可能性もあるんじゃないかな」 「お前狙うよか一般人狙った方がマシだぜ」 迷いなく言い切られる。が、反論はできない。最悪自分が返り討ちにされる相手よりも、何の力も持たない相手のほうを追いかけるに決まっている。司は苦笑をしたまま肩をすくめた。 「それもそうか」 「まあ……状況はだいたい把握できた」 弓月は軽く首を回し、視線を母屋の方角へと投げかける。そして再びこちらへ目を向け、鋭い瞳をすいと細めた。 「いずれにせよ、正体が分からん相手だ。最悪のことを考えておけよ」 そこでようやく、彼女が言わんとしていることに気がついた。弓月はつまり、 「奏さんが妖だっていう……可能性がある、ってこと?」 その瞬間、弓月は盛大なため息をついた。じろりとこちらをねめつける瞳には、明らかな呆れが浮いている。 「お前なあ。俺の言ってたこと理解してなかったのか、ってか分かってて連れこんでたんじゃねーのか? 仮にも能力者だろうが」 詰問するような、そして何よりも責めるような口調に、司は思わず及び腰になる。彼女の眼力も威圧的なオーラも、わざとではないとは十分承知だが、やはり少し怯む。怖いものは怖い。年下の女の子に見えないから余計に怖い。 数歩後ずさって、司はかろうじて返事をした。 「う、で、でも妖だったら、うちの敷地に入れないよ……よっぽど強い妖じゃないかぎり、うん」 「何でおびえてんだよお前」 「仕方ないじゃないか。弓月ちゃん、今の顔怖いし……」 「うるせぇ。生まれつきだ、文句言うんじゃねぇ」 案の定怒られた。が、一瞬不機嫌そうに寄せられた眉も、すぐに元に戻る。周辺を飛び回る蝶に視線を投げながら、弓月は独り言のようにつぶやいた。 「……強い妖でなきゃ敷地に入れねえ、か……面倒なことにならなきゃいいけどな」 返答はしない。彼女がそれを望んでいないことも、彼女がそれ以上何も言わないことを理解しているからだ。ならば、無理に会話をつなげる必要はない。 やがて長い足が再び歩を刻む。すれ違う直前、肩越しに彼女の視線を感じた。 「この辺り、気配がずいぶん濃くなってるぜ。気をつけな」 「分かってる」 周りを飛んでいた蝶が、再び司の鼻先をかすめ、薄暗くなり始めた空へ舞い上がる。花弁の合間を、踊るように。乱れる髪を手で押さえ、司はその姿を目で追った。 肩を軽く手がたたく。力強い感触を残し、手のひらはすぐに離れていった。 「……拾っちまったんだから、最後まで責任取れよ」 言いたいことは理解している。普通での意味も、もう一つの意味も。 「大丈夫さ。分かってる」 視線を動かし、静かに答える。 「それでいい」 弓月の声はそれきり途絶えた。返事をする代わりに振り向いた。気配に気づいたのか、彼女は振り返らずに片手を振る。その背中が夕闇にまぎれて消えるまで、司はずっと動かずにいた。 風が止み、やがて諸所の街灯がともり始める。長く息を吐き出してから、司は自宅のほうへと足を向ける。門を通り、玄関の戸口へ手をかければ、ガラス戸越しの暖かな光が目に映る。 妙な違和感を抱きつつ、かばんから鍵を取り出して差し入れる。いつも通りに回そうと思って、開いていることに気がついた。家の中に光があるんだから、鍵が開いてなければおかしいだろう。染みついた癖というものは困ったものだ。苦笑しながら、扉を開いた。 「ただいま」 それから小さく声をかける。たとえひとりでも、この習慣だけは変わらない。変わったことと言えば、声の大きさくらいか。靴箱の上に置かれた両親の写真にそっと呼びかけるだけになった。――誰もいない部屋に響く自分の声は、想像以上に大きいものだから。 そんなことをぼんやりと考えていると、 「おう、おかえり」 突然声がして飛び上がった。完全に油断していた。 「何だい、その顔。びびりなさんなって」 次いでぱちりと電気がつけられる。奏が腰に手を当てて笑っていた。カッターシャツはボタン一つのみで留められ、胸はかなり大きくはだけられている。父のものはやはり大きいのか、肩の線が少しずれていた。細身のジーンズがよく似合っている。 未だ巻かれている包帯が痛々しいが、顔色は昨日よりもだいぶいい。そのことに少し安堵する。と同時に、返事が返ってくることを想定していなかったことが急に恥ずかしくなってうろたえる。 「あ、……えと、ただいま、戻りました」 そそくさと靴を脱ぎ、頭を下げた。奏は司の狼狽に気づかなかったのか、笑ってもう一度「おかえり」と言った。 「今飯作ってるから、ちょっと待ってろよ。茶ぁ出してやるからさ」 細い後姿が茶の間へ消える。いいにおいが流れてくる。ひとつ深呼吸をしてみれば、司の胸に暖かなものが広がっていく。 誰かに迎えてもらうことなんて、ここ一年なかった。誰かが待っているという、たったそれだけでこんなにも安心する。それがどうにもくすぐったくて、司は少し口元を緩めた。 促されるまま腰を下ろす。どれがいいかなあ、なんて言う彼の声が心地よい。 「今日は比較的早いんだな」 「ええ。授業が午前中で終わりだったんです。あとはレポートの作成とかしてました」 茶の間からすぐ隣が台所だ。壁際に並べられた棚からいくつか茶葉を取り、奏は首をかしげて司に微笑みかける。 「ふうん? 俺、学校行ってねぇから分かんないけど、楽しそうだねえ」 ころろ、と鳴る鈴に視線を投げれば、ちょうどちゃぶ台へ茶筒が置かれた。緑茶にしたらしい。 「悪いね。コンロ空いてないんだ。ポットからでいいかい」 「あ、はい。お構いなく」 「自分ちなんだから、お構いなくはねーだろうよ」 呆れているのか、おかしがっているのか。彼が小さく笑う声がする。 「ほれ。熱いから気をつけな」 程なくして、緑茶の柔らかなかおりを含んだ湯気が鼻腔を満たした。上等な茶葉は、確かいつも世話になっている人からの贈り物だった気がする。 「あ、どうも」 湯のみを受け取る。指先に広がる温かみに、疲れが溶けていくようだ。 「いいっていいって。茶請け、これでいいかい? 適当にその辺から見繕ってきたから、駄目だったら言ってくれよな」 というわけで、いつの間にか茶菓子も用意されていた。せんべい各種。来客用のものではないので、別に問題はない。むしろ帰ってきたら食べようかと思っていたところだった。 「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」 「あとちょっとだから待っててくれよ。ほどほどにな。飯の前に腹ぁいっぱいになっちゃ困るぜ」 言い置いて彼は台所へ戻っていく。茶をすすり、せんべいをつまみながら、司はその背中を黙って眺めていた。緩やかに編まれた髪の途中、三つの鈴がついた紐が結ばれている。蝶々結びにされた紅白のそれは、いかにも縁起がよさそうだ。 (あれ? あの紐、確か……) 揺らめく色を見つめて首をひねったとき、奏の声が思考をさえぎった。 「飯できたから、そっち運んでくれや」 「は、はいっ」 慌てて立ち上がる。またあとで思い出せるかもしれないと、司は一旦髪紐のことを頭の隅へと追いやった。 (2006 完結/2011.4.29 加筆修正) |