三
夕食は、司の好みで和食だった。焼いた塩鯖の大根おろし添え、ほうれん草のおひたし、ねぎと豆腐の味噌汁に炊きたてのご飯。「あまり料理をしたことがないから、味は保障しない」と奏は言っていたが、司にとっては十分すぎるくらいだった。 人からもらったものを適当に冷蔵庫に放り込んでおいたのだが、まだ買出しに行く体力はない彼には、結果としてそれがよかったらしい。無駄にならなくてよかった、と、司は綺麗に洗われていく器を見てしみじみと思った。 食後のお茶を飲んでいると、片づけを終えた奏が軽い口調で尋ねてきた。 「そういや、弁当どうだった?」 「あ……はい。すごいおいしかったです。今日のご飯もですけど、奏さん、料理上手なんですね」 実際、やったことがないと言う割に、味は驚くほどによかった。別の学科の友人が、自分の姉が作ったやつと交換しろ、と涙ながらに訴えるほどだったのだ。 そう伝えれば、彼はくすぐったそうに微笑んで頭をかいた。 「そりゃよかった。本見ながら作ってみたんだけど、うまくいったんだなあ」 「びっくりしましたよ。できればまた……」 言いかけて、やめる。いくらよくなったとはいえ、奏はまだ全快していない。無理をさせてしまうのは気が引けた。しかし、弁当があれば昼食代が浮く。それになによりもおいしかったので、できればまた食べたい。 どうすればいいのか分からず頭を抱える司だったが、奏にはそれが分かってしまったらしい。からからと明るく笑って、彼は司の肩をたたいた。 「いいっていいって。それでここにいさせてくれるんだ、安いもんさね」 「でも」 「ほらほら。そんなこと気にするより弁当箱よこしな。洗ってやるからさ。ゆっくりしてろって」 促されるままに、司は茶の間の隅に置いておいたかばんから、弁当箱を取り出して渡した。奏がしなやかな身のこなしで立ち上がり、流し台へと向かう。鼻歌交じりだ。よほど嬉しかったらしい。 しかしそれは、司がもう一口茶を飲んだと同時に止んでしまった。次いで足音が戻ってくる。 「あれ、どうかしましたか」 振り返って見上げれば、奏は思い切り呆れた顔をしていた。手袋を外した手には、蓋の外れた弁当箱。 「あ、手袋外していいんですか?」 「このままじゃ洗えねぇだろ、って話をそらすな。お前な、今朝もちゃんと食べろって言わなかったっけか」 司はすいと目をそらし、弁当箱の中に鎮座する『それ』を見ないようにした。 「だって……卵、嫌いだし」 奏は『それ』――だし巻き卵を指先で持ち上げ、器用に片眉だけつりあげる。 「アレルギーだっつーんならしょうがねーけど、お前のは食わず嫌いだろうが」 「いや、違いますって」 実を言えば、今朝もこの口論はやらかしたのだ。朝食に目玉焼きが出てきて、司はそれを食べることだけを断固拒絶した。理由を説明したものの、奏はそれを『食わず嫌い』と一蹴。結局時間切れにより、司はどうにか目玉焼きを回避することができたのだが。 つまり。つい先ほどのやり取りとまったく同じことを、本日の朝もやらかしたのである。 不毛な争いと分かってはいるが、こればかりは譲れない。とりあえず、司は朝と同じことを繰り返した。 「だって考えてもみてくださいよ! これが、黄色いぽわぽわの可愛いひよこになるんですよ? それを考えたら食べられないじゃないですか! 有精卵とか信じられないですよまったく」 しかし、息継ぎの合間に冷静な答えが返る。 「これ無精卵なんだけど」 しん、と場が静まり返った。 やっぱりこの言い訳は無茶だったか。そうは思いつつも、司はなお言葉を連ねる。退いたら負ける気がする。 「ともかく。卵全般嫌いだって言ったじゃないですか。次はやめてください。いいですか奏さん、僕は本気なんですよ。食べるたびにひよこのつぶらな瞳が思い出されるんです。ついでに言うとあの独特のにおいと味が駄目ですんでやめてください」 呆れたようなまなざしが、司に向けて注がれる。心の底から、本気で呆れられているのが痛いほど伝わってくる。 「後半が本音だろ、それ」 「違いますよ! どっちも本当なんですってば。食べられないのは昔から、これ以上がんばっても無駄です」 互いの目が、互いの姿を見つめあう。無言の攻防は、いつまでも続くかのように見えた。 ――先に折れたのは奏だった。前髪をくしゃりとかきあげ、長いため息をついて両手を挙げる。それは間違うことなく、降参の合図だった。 「……しょうがねえなあ……分かったよ。無理やり食わそうとすんの、やめるわ」 やった。小さくガッツポーズを取る司を恨めしそうに眺め、奏は再び台所へ向かう。去り際に玉子焼きを口に放り込み、行儀悪く指先を舐めていた。 焼け爛れた指を、赤が這う。ただそれだけの光景なのに、心臓が不意に跳ね上がった。どうしてだか分からないが、ひどく動揺している。それをごまかすために、司は慌てて茶をあおった。 当然だが、気管に入った。湯飲みを取り落として咳き込む。音を聞きつけたのだろう、奏がすぐさま布巾を持ってやってきた。 「お前さん、何むせてんだい」 「げほ、すみませ、」 「あーあーもう、慌てて飲むからだよ」 手早くこぼれた茶がふき取られ、背中が優しくさすられる。摩擦は肌によくないのではないかと思ったが、咳き込んでしまって言葉にすることもかなわなかった。 やがて咳が落ち着くと、奏が安心したように微笑んだ。 「もう大丈夫かい?」 「……は、い」 二度三度呼吸してから、顔が思ったより近くにあることに気づいた。 切れ長の瞳、通った鼻筋、薄い唇。まつげが意外に長く、電灯に照らされて影を落としている。肌の色は、病み上がりであることを除いても白いほうだ。きめが細かくて滑らかなのが、触れなくても分かってしまう。 また不規則に鼓動が跳ね、思わず目をそらして息を詰めた。 確かに彼の顔は綺麗だ。でも確かに男性のものだし、そもそも男性を見て動揺するなんて、今まで一度もなかったはずだ。 あまりにも予想外な自分の反応に、司はひどく戸惑った。 (何でいきなり……どうしちゃったんだ) 「どうした?」 混乱する司の様子に、奏が不思議そうな顔をする。 「え、あ、いや」 必死で取り繕おうとするものの、うまい言葉が見つからない。狼狽する司を眺めていた奏は、やがて意地悪そうな笑みを浮かべた。 「ははーん。なるほど。さては俺に見とれちゃったんだ?」 頬が急激に熱くなった。言い当てられたのが悔しい、と同時に、一瞬でも目を奪われた自分がどうしようもなく恥ずかしく思えた。 「ち、違います! ただその、ちょっと……とにかく違いますから!」 慌てて首を振っても効果はない。奏がひらひらと手を振って笑う。 「またまたぁ、ムキになりなさんなってぇ」 「ですから……!」 しかし、司が反論しようと声をあげた瞬間――空気の軋む音がした。 方角は家の門、おそらくは外だ。耳を澄ませば、確かに妖の声が聞こえてくる。 「ん? どうした?」 顔つきが変わったことに気づき、奏が笑いを引っ込める。司は彼の肩を押し、素早く立ち上がった。 「奏さんはここにいてください。ちょっと外に行ってきます。すぐ戻りますから」 かばんから包みを引っ張り出し、靴を履くのもそこそこに飛び出す。春だとはいえ、夜はまだ肌寒い。が、それとはまた別の冷気が肌を刺し、重く垂れ込めて流れてくる。 木戸を開ける。目を凝らさずとも、電柱のそばで何かがうごめいているのが見える。鋭い牙が月明かりを反射している。司の姿を認めた異形のものは、耳障りな叫びをあげて司を威嚇した。 「……まったく、次から次へと……!」 小さく毒づきながら、司は包みの紐を解いた。絹の光沢を持つそれが、衣擦れの音と共に地面へ落ちる。札を数枚抜いて構えれば、司の力に呼応して白い炎が噴きあがった。 妖がずるりと現世へはいでる。そのあとを追うように、次々と影があふれ出す。それを冷めた目で一瞥し、司は祝詞を低く紡ぐ。 「諸諸の禍事 罪 穢れ 祓へ給ひ 清め給へと 恐み恐み白す」 発せられた祝詞に燃え移り、炎は異形を焼き尽くす。断末魔さえも白に消え、夜の空気へ溶けて消える。熱の残滓を頬に受けながら、司は深く息を吐いた。 「ふう……くつろいでるときに来るのはやめてほしいな、ったく」 静まり返った道端に、ぼやきがひとつ落とされる。跡形もなく焼かれたそこに目を向け、司は気の流れを確認した。電柱の陰になっている場所から、かすかに妖気が漏れてくる。 ためらいもせずに歩み寄れば、空間の断裂が現れた。常人では見ることもできないその亀裂は、冷ややかな冷気を漏らして鎮座している。口をあけた穴の向こうは、何者も見通せぬ暗い闇。妖の通り穴である。 妖魔は現世に風穴を開ける。しかし、人間はここを通ることができない。風穴は確かにここにあるのに、触れることもできないのだ。 妖魔は違う世界からやってくるという説は、こうして各所に開けられた風穴と、そこを通り抜ける妖の姿で裏付けられている。だが、人間は誰も妖の世界を見たことがない。あちらに行った人間も存在しない。ゆえに、向こう側へ行って妖を滅することはできないのだった。 それを歯がゆく思いながらも、司は一枚札を取り出す。 「――“塞”」 言霊を発し、司は無造作に札を穴へと放りこむ。放り込まれた札から、光る糸が繰られていく。音もなく継ぎ合わされた後、穴は何事もなかったかのように閉じられた。 司たちだけでなく、言霊は現世に生きる人々に与えられた力である。別段特別なことをしているわけではない。誰にでも使える力を応用すれば、こうして開けられた穴を一時的に塞ぐこともできるのだ。 「あとは弓月ちゃんに任せるか」 もっとも、穴を完全に閉じられるのは、妖を狩る一族以外にはできない。とはいえ、彼女は多忙のきわみにある。一時的でこそあれ風穴を塞ぐことは、決して無駄にはならないのだ。妖の流入を防ぐこともできるし、穴を塞ぐときの労力も、閉じているほうが圧倒的に少なくてすむ。 一応弓月には携帯でメールを入れておく。返信はなくても、彼女は必ずここへやってくるだろう。念のため周辺を歩き回り、妖がいないことを確認してから、司は門を押し開けた。 ガラス戸を引き、身を滑り込ませて戸を閉める。 「戻りました、奏さん」 待っているであろう奏に声をかけるが、返事は返ってこなかった。不思議に思いながらも足を速め、茶の間に向かい――司は表情をこわばらせた。 「奏さん!?」 身体を折り曲げ、奏は床に倒れこんでいた。痛みをこらえているのだろう、全身が小刻みに震えている。 「しっかりしてください!」 慌てて駆け寄り肩を支える。苦しげな呼吸が耳に届いた。胸を強く押さえている。薄いシャツを通して、手のひらに湿った感触が伝わってくる。ひどい汗だ。 「――く、……悪い、急に……めまいがして……」 乱れた呼気の下で奏がうめく。 「大丈夫ですか、どこか、怪我は」 「……ああ、……なんともないよ……少ししたら、治るから……大丈夫……」 幸い怪我はしていないようだ。妖が入り込んだわけではないらしい。そのことに安堵して、司は少しだけ肩の力を抜いた。 この家も、敷地内ゆえに神気によって守られてはいる。しかしながら、やはり境内と同じとは言えない。一応守り札などで補強はしているけれど、上級クラスの妖魔、たとえばあの蝶の妖魔やそれと同等の妖ならば、無傷とまではいかないが入ることならできてしまうのだ。 蝶々館の不審な気配のこともあったから、ここ数日は警戒していたのだが――うかつだった。彼ひとりを置いて飛び出してしまうなど。司は唇を噛み、うなだれる。 「すみません。奏さんが襲われていたかもしれないのに、僕は……」 奏がかすかに面を上げた。苦痛にゆがんだ顔に、ふと疑問の色が混じる。 「襲われた……? 何に?」 「あ、……いや、えーと……」 司は思わず視線を外す。 妖の存在を知覚できるものは、能力者を含めてもそう多くはない。ましてや普通の人間は、知覚することはおろか、存在自体を知らないものがほとんどである。 そもそも妖の存在を知らせたところで、果たして信じる人間がどれほどいるだろうか。妖を知り、対抗する術を知る人間が、果たしてどれほどいるだろうか。答えは火を見るより明らかだ。 ゆえに力を持ったものたちは、意図してこの事実を伏せている。理由は単純だ。人の世の混乱を防止し、行動を阻害されないようにするためである。自衛手段を持たない、混乱している人間を守りながら戦うことほど、難しいものはない。 奏がどうなのかは分からない。しかし、どちらにせよこれ以上巻き込むわけにはいかない。 「ちょっと……いろいろ、ありまして」 あいまいに言葉を濁してごまかす。 奏はしばらく司を眺めていたが、やがてふっと息を吐いた。切れ長の目が閉じられ、深呼吸をひとつする。 「……そうかい。まあ……いいさ。俺が、とやかく言える立場じゃ、ねぇしな。でも」 一拍の間を置き、小さく声が落とされる。 「ご両親が悲しむ真似だけはしなさんな」 かすれた音には、司をいたわり、案じる彼の心情がにじんでいた。 「……そう、ですね」 司もまた小さく答える。それ以上何と言えばいいのか分からず、呼吸を整えようとする奏の身体を、黙ったまま支えていた。 (2006 完結/2011.5.19 加筆修正) |