どれくらいの時間が過ぎただろうか。緩慢な動きで髪をかきあげ、奏が軽く司の肩を押した。
「ふう、ありがとさん。もういいよ」
 額の汗を手の甲で拭い、彼は「悪かったね」と苦笑する。血の気が引いたせいだろう、顔は少し青ざめている。
「大丈夫ですか? まだ顔色が……」
「大丈夫だって。こう見えて頑丈なんだ」
 言って、彼は微笑を浮かべてみせる。だが、それもひどく弱々しい。無理をしていると瞬時に理解できてしまい、司は眉根を寄せて奏を眺める。
「そういう、ものでしょうか」
「そーいう、もんなんだよ」
 あいまいに微笑む彼の表情に、暗い色が混じる。どういう意味か尋ねるため、改めて彼の顔を覗き込んだ。
 赤みを帯びた瞳、痛みの余韻を残して潤んでいる。細い顎のライン、汗が一筋落ちていく。手のひらに染みこむ彼の熱。涙を含んだ長いまつげ。貼りついた髪。
 どくり、と心臓が高鳴った。全身が瞬時に熱を持ち、胸の奥が締めつけられたような痛みを訴える。頭がくらくらする。電灯に照らされた白い首筋がいやにまぶしい。
 首に、触れたい。
 唐突に――本当に唐突に、強い衝動が司の中に湧き起こった。抗いがたいそれは、どこか主である神の言葉とよく似ている気がしたが、そんな考えも衝動の波に押し流されてしまう。
 触れたい。
 片手を伸ばす。指先が、汗で湿った皮膚に触れる。浮いた筋を手のひらでなぞる。吸い付くような感触が心地よい。奏が息を詰めているのが伝わってくる。
(案外、細い)
 彼の首を握るかのごとく、手のひらを肌に密着させる。鼓動が重なる。ぬくもりが心地よい。司のほうが、少しだけ鼓動が早かった。
(……ああ、僕、もしかして興奮してるのかな)
 それじゃあまるで変態みたいじゃないか、と、司は夢見心地のまま考えた。
「つー……? どうした?」
 戸惑うような奏の声が、衝動に捕らわれた司の意識に滑り込んでくる。その瞬間、司の中にあった抗いがたい波が、まるで嘘のようにひいていった。
 同時に、自分が何をしたのかを鮮明に思い出す。そう。自分は奏に――年上の男性に、しかも倒れたばかりで具合が悪い相手の首に触って、あまつさえ。
 一気に顔へ熱が集まった。自分はいったい何をしているんだ。
「あ、ご、ご、ご、ごめん、なさっ……!!」
 とっさに奏との距離をとり、しどろもどろに謝罪する。先ほどとは別の意味で、意識が激しく揺れていた。恥ずかしい。何がどうとかそういう問題ではなく、とにもかくにも恥ずかしい。
「そのっ、あの、わ、わざとじゃなくて……!! その、ごめんなさい! 別にその、そういう目で見てるわけじゃないですから!! 本当に!! 嘘じゃないんです!!」
「へ……あ、や、えーと……うん」
 奏も驚いたのだろう。ぽかんとした顔で司を見ているばかりだ。何が起こったのか理解できていないのかもしれない。その落差が余計に羞恥をあおり、司は片手で顔を隠した。
(もう、さっきからどうしたっていうんだ僕は……! 落ち着け!)
 だが、落ち着こうとすればするほど、先ほどの憂いを帯びた彼の顔が思い出されてしまう。同時に胸の奥にくすぶるのは、表現しがたい感情だった。
 このまま彼を見ていたら、どうにかなってしまうのではないだろうか。司は慌てて目を逸らし、思い通りにならない胸の鼓動を鎮めるために深呼吸を繰り返した。
「お前さん、顔真っ赤だぜ? 大丈夫かい?」
 だが、そんな努力も指摘されれば意味がない。自覚したせいで、先ほど以上に恥ずかしい。熱が耳や頬に集中し、自分でも分かるくらいに火照っている。
「な、何でもないですっ、気にしないでください!」
 声が上ずった瞬間、まずいと思った。
「ふうーん。もしかしてお前さん、俺に見とれちゃったの? いやあ、もてる男はつらいねえ」
 からかうような声音。動揺していることが伝わってしまったのだろう。
「ちっ、違いますってば……! これはそのっ!」
 言い訳をするために、奏のほうを向いたのもまずかった。
 にやにやと人の悪い笑みをたたえ、奏が小さく首を傾げている。音もなくこぼれた髪の束が、はだけた胸元に流れていく。鎖骨の形、そこから少し上へ向かえば、白くて細い喉がある。そう考えた瞬間、司は再び目を逸らさずにはいられなかった。
「やっぱりねえ」
 ある意味、奏が勘違いしたままでよかったとさえ思う。思うが、このままではちょっと困る。
「ですから、違いますって……!」
 混乱したままの頭で、司は必死に否定をする。そんな司を面白そうに眺めながら、奏は髪を慣れた手つきで耳にかけた。次いで手袋に包まれた指先が、ゆっくり司の頬へと伸ばされる。
 思わず目をきつくつむれば、額がぺしりとたたかれた。
「おいおい、そんな反応しなさんなって。取って食ったりはしねぇよ。……にしても、ずいぶんかわいい反応するんだねえ」
「かっ……!?」
 よりによって年上の、それも男に、かわいいと言われるなんて心外だ。恥ずかしさと怒りがない交ぜになり、司は奏に食ってかかる。
「か、奏さんっ! いい加減にしてください、さっきまで死にそうになってたくせに、人をからかう体力はあるんですか!?」
「はははは、悪い悪い」
 当の本人は、相変わらず人を食ったような笑みを浮かべている。本当に性質が悪い。
「ちっとも悪いとか思ってないでしょう!」
「思ってる思ってる」
「ほら、また! あーくそっ、人からかって何が楽しいんですか!」
「そんなカリカリしなさんなって。心に余裕を持たねえと、かっこいい大人になれないぜ?」
 くしゃくしゃとなだめるように頭が撫でられる。余裕綽々もいいところだ。食い下がれば相手の思うつぼになるけれど、これ以上からかわれて遊ばれるなんて冗談じゃない。
 司は思い切り顔をしかめ、奏の手を払いのける。
「子ども扱いはやめてください。それとも、僕がまだ子どもだって言いたいんですか」
 そして吐き捨てるように、そう言った。
 空気が、止まる。間髪いれずに返されていた言葉は、いつまで経っても戻されない。
「……奏さん?」
 不審半分、不信半分。隠し切れないまま司が問えば、
「あ、……悪い。そう、だよな。ごめんな」
 なぜかひどく悲しげな目で、奏が小さく謝罪した。口元こそ微笑んでいるが、先ほどのそれと同じ顔だ。
 暗い影をまとう微笑。ごめん、と、彼がもう一度口にする。どうしてだろうか、まるで罰されることを望んでいるようにも見えて、それがひどく痛々しかった。
「いえ、あの、こちらこそすみません……そういうつもりじゃなくて、その……」
 先ほどの他愛もないやり取りで、いったい彼は何を思ったのか。淡い表情の中から、彼の心を知ることはできなかった。
 どうしてそんな顔をするんですか。どうしてそんな顔で謝るんですか。問いかけはいずれも音にならず、舌の上で砕け散った。
 やがて奏が肩をすくめた。それからぽん、と司の頭に手を置く。
「あはは。悪かったね、空気が重たくなっちまった」
 乾いた声で笑ってから、奏は小さく首を振った。艶を帯びた髪が、動きにあわせて彼の肩を滑り落ちる。
「悪気はなかったんだけど。ちょっとね、昔のことを思い出しちまって」
「昔?」
 問いかけた瞬間、奏の表情が不透明になる。柔らかく笑んでいるはずなのに、瞳はどこか冷めている。
「そう、昔。あんたにゃ関係のない話さね。気にするな」
 声音もどこか硬い。これ以上の追随を拒んでいるようにも思えて、司は黙ってうなずくより他なかった。
「それより、警察に言わなくていいのかい? 襲われたって話だろ?」
 音が戻る。はぐらかされたと理解はしたが、あえて口には出さなかった。代わりに小さく首を振り、肩をすくめる。
「いいんです。慣れてますから」
「慣れて?」
 尋ね返されてから、しまった、と思った。これでは疑ってくれと言っているようなものだ。もっとも、それが妖のことだとは気づかれていないだろうが。司は内心冷や汗をかきながら、苦笑を浮かべてみせた。
「えーと、ほら、僕って結構因縁つけられる顔してるみたいで……ははは」
 我ながら苦しい言い訳だとは思う。が、それ以外にうまい言葉が思いつかない。わざとらしく頭をかけば、奏がふと笑みを消した。無言で司を見つめる双眸が、やがてかすかに細められる。視線は司の面より離れ、腕を伝って手のひらへ向かう。
「……ふうん。ただの喧嘩に、お札持ってく意味はあるのかい?」
 指を差されて初めて、札を数枚持ったままだったことに気づいた。――本当に抜けている。これではごまかすこともできないではないか。
 疑うような奏のまなざしを浴びながら、司は必死で言葉を探る。
「えーとですね……その、」
「まさかとは思うけど」
 しかし、言い差した司の声を、奏のそれがさえぎってしまう。
「化け物と喧嘩してます……なんて言わないよな」
 心臓をつかまれた心地がした。一瞬呼吸が止まり、嫌な汗が噴き出してくる。
「ま、まさか。そんなことは」
 否定の言葉がわずかに揺らぐ。どうか気づかないでほしいと祈らずにはいられない。
 奏はいまだいぶかしげに首をひねっていたが、どうやら納得をしてくれたらしい。再び明るい笑みを見せ、司の肩を数回たたく。
「だよなあ。いくら神主さんだからって、そんな漫画みたいなことしないよなあ! いやー悪いね、うっかり想像力たくましくしちゃったよ」
「え、ええ。もう癖みたいなもので……とっさに持ち歩いちゃうんですよ、役に立たないのに」
「そうかそうか。ならしょうがねえよなあ。うんうん、癖ならしょうがない」
 腕を組み、奏は何度もうなずいている。どうやら言い訳を信じてくれたらしい。司はほっと息を吐き、そうですね、と笑顔で応じた。
「でもな、危なかったら本当に警察に言えよ? 何かあったら、親御さんが悲しむからな」
「……そうですね」
 脳裏に両親の顔がちらついて、司はわずかに目を伏せる。
 両親を悲しませるようなことはしない。そんなことは分かっている。
「俺も、命の恩人がそんな目にあったら悲しいから」
「はい」
 肩に置かれる手の感触を受け止めながら、司は密かに拳を作る。そう、今はまだ死ぬつもりはない。仇を取る、そのときまでは絶対に――死ぬわけにはいかないのだ。
「気を、つけます」
 視界の隅に、どこから入り込んだのか、銀の筋を持つ蝶が映る。それが蛍光灯にぶつかって燐粉を散らすのを、司は両目をすがめて見つめていた。

(2006 完結/2011.5.19 加筆修正)

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