開けっ放しだった自分の部屋は、夜気が入り込んですっかり冷えていた。
 手当をしようとする奏を制し、司は畳に座して相対する。蛍光灯の光がちらちらと、不安定に揺れている。奏はどこか落ち着かない様子で司の左腕、負傷した箇所を見ていた。
「大丈夫ですよ、奏さん。血はもう止まってます」
「でも」
「これしきの妖気で、相応の修行を重ねたこの身を、魂を汚すことはできない。人に擬態するぐらい狡猾で強力な妖魔でもなければ、ね」
 事実、傷口から細く立ち上る煙は、神社の敷地内にある空気に触れて浄化されていることを示している。多少の痛みもやがては引くだろう。
「よう、ま……?」
 奏は唐突に並ぶ単語に困惑したのか、眉間にしわを寄せて司へ視線を送っている。司は少し息をため、吐き出すと同時に言葉を紡いだ。
「ええ。妖魔――アヤカシ、とも呼ばれる異形のモノたち。はるか古の時代より、世界に風穴を開け、理を乱し、破壊するモノたち。それが、」
「さっき、の、バケモンか……?」
 首肯する。ちかり、蛍光灯が一瞬だけ点滅した。奏の戸惑いの色は深くなり、司を見つめ返す赤茶の瞳が不安げに揺れている。
「奏さん。以前、あなたはこう言いましたよね。『漫画じゃあるまいし』って。しかしながら、あれらは現実に存在する。巧妙に人の目を欺き、あるいは隠れて、人を食い、世界を壊す機会をうかがっているのです」
 淡々と、とつとつと、司は語る。幼いころより垣間見、触れ、戦ってきた非日常。それを一般人である奏に語ることに、抵抗がないわけではない。けれど、偶然とはいえ彼は知ってしまった。彼自身の身を守るためにも、最低限のことは伝えておかねばならないのだ。
「ん……と。要するに……あのバケモンどもは、ああやって世界に穴ぁ開けては、人を食ったり、世界をぶっ壊そうとしたりするってことか」
「そういうことです。そして僕らのような力を持つものたちは、あれらのように理に反するものを消去し、浄化することで秩序を守り、この世の理を守っています」
 奏は困った様子で首を傾げた。ころり、と鈴が音を立て、すっかり乾いた髪が彼の細い肩を滑り落ちる。
「……悪ぃ。正直、にわかには信じられねぇ。今だって、何か悪い夢でも見てたんじゃないか、って思ってるし……お前さんの言うことも、理解の範疇を超えてる」
 無理もない。司だって、本当ならそうであってほしかった。けれど奴らは、世界は、真実を知ったものを見過ごすほど甘くはない。
 司は柔らかく苦笑し、「お気持ちはわかります」と共感する。
「でも、すべて本当のことです。僕の身体にできた傷は本物ですし……奏さんの目の前で起きたことは、全部、本当なんですよ」
 息をつく。饒舌な奏が珍しく黙り込み、重たい沈黙が茶の間を包んだ。
「……、何かの冗談だと思いてぇけど」
 薄い唇からため息とともに声がこぼれたのは、それから数分後のことだった。
「でもなあ。お前さんが嘘ついてるようにも見えねえし……それに、かばってもらって、怪我、させたし……」
 整った面差しがふと伏せられた。膝の上で握られた手が震えている。誰かが傷つくことを厭うさまは、彼自身が傷ついたかのような痛々しさすらあった。
「だから、大丈夫ですよ。これぐらいどうってことないんです。さっきみたいな事情もあって、慣れてますしね」
「慣れてるからって……そういう問題じゃねえってのに。こんな危険で面倒なことしてよ……」
 心配、してもらえている。奏の胸中を思うと申し訳なさもある一方で、司はいくばくかの嬉しさを味わっていた。
 誰かにこの身を思ってもらえる。いつ死ぬともわからぬ運命を背負った自分を案じて、そばにいてくれる。父を、母を失った司にとって、それだけで十分すぎるほどに嬉しかった。
 司は奏に笑いかけ、穏やかに言葉をつないだ。
「別に面倒じゃありませんよ。それが僕の運命ですから」
「運命……」
 ぽつりと繰り返されたその言葉に、司はうなずく。
 神に仕えるものは、理を乱すものを排除し、理が正しく機能するようにしなければならない。理が破壊されれば、この世に災いが起こる。神のいつくしむ民草を守るために、理から外れた存在を排除する。それが、神社の跡取りとして――神に近きもの、神の声を聴き、神に身をささげたものとして定められた司の使命なのだ。
「……神様ってのは、本当に自分勝手だな」
 そう語る司に対し、奏がふいに声をこぼす。今までのそれとは別種の音に、司は思わず語らっていた言葉を切って彼を見つめた。
 紡がれたそれは、司の予想よりもはるかに重く、鋭さすらあった。流されると思っていたのに、そんな風な反応をするなんて思ってもみなかったのに。
「あはは。こう見えて、仮にも神社の跡取りですよ、僕。そんなこと言わないでくださいよ」
 重量感を増した空気を和らげようと、司は笑って茶化してみせた。
 その瞬間、司の両肩を奏の手がつかまえる。病み上がりとは思えぬほどに強い力で司を押さえつけた奏の面は、怒りとも悲しみともつかない、繊細な感情に色づいていた。
「神に仕えるとか以前に、お前はひとりの人間じゃねぇか。意志も感情も全部無視されて、そのくせさっきみたいに危険にさらされることを強制されて! お前、ホントに何とも思ってねえのかよ……っ!」
 思わず息をのみ、司はその瞳に魅入る。
 まっすぐに司を射抜く視線、濡れたような光をともす瞳は、感情の高ぶりゆえか、それとも光の具合でか――美しく燃え上がる紅玉の色に変わっていた。縦に裂ける亀裂は瞳孔だろうか。常人ではありえぬ形状のそれすらも自然に思えるほど、その目は妖しい魅力を持っていた。
 頭の奥がうずく。これを、この瞳を、知っている気がする。司は一つ頭を振り、目を閉じて息を深く吸い込んだ。目を開く。そこには赤茶色の虹彩を濡らし、今にも泣きそうな顔をしている奏がいる。
 怖くないわけではない。嫌になったことだってたくさんある。それでも、生まれる前から定められていた使命から逃げることなどできはしない。いつからかそれを理解し、覚悟を決めてからは、逃げようとも思わなくなっていた。
 安心させるために、両肩をつかむ手に手を重ねる。びくりと身をすくませるのを皮膚越しに感じながら、笑いかけた。
「……僕が僕である以前から決められていたことです。だから別に、無視されているとか強制されているとか、そういう風に思ったことはないですよ。僕は僕の意志で、妖を排除しています。だから……そんな顔しないでください」
 司はあやすように奏の手の甲を指で撫で、奏は眉をよせてうつむく。やはり、その手は震えている。
「でも……でもよ」
「危険だということくらい承知しています。それでも僕は、この力に、使命に、感謝していますよ。あいつらから、この手で大事な人たちを守ることができるから」
 ――あの妖魔を見つけ出して、仇を討つことができるのだから。
 吐息に紛れて音もなく、司はそうひとりごちた。
「……親父さんたち、の?」
 だがその瞬間、奏が弾かれたように顔を上げた。乱れた髪を直すことすらせず、唇から零れ落ちる。それに驚いた司もまた、奏を凝視した。
「どうして、それを……」
 確かに、家族を失ったことは話していた。だが、ふたりが死んだ原因や理由までは、一切伝えていなかったはず。再度ふたりの視線が絡み合い、動揺のままに肯定が漏れる。奏はわずかに視線を落としてから、ささやくように声を落とした。
「……妖魔、だっけ、あの……化け物。そいつら倒すとき……怒ってるみたいで、でもすごく悲しそうだったからさ」
 怖いけど、でも、すごく苦しそうで、なんとなくそうなのかなって思ったんだ。言いにくそうに続けてから、奏は再び黙り込む。
 あの妖魔への憎しみが、そんなにも表面に出てしまっていたのか。細く長く息を吐いて、司は天井をあおいだ。
 わいて出る妖魔を何度浄化の焔で焼き尽くしても、憎しみも恨みも燃え尽きるどころかますます強く激しく燃え盛っていく。血染めの庭にひときわくっきりと浮かび上がる、銀の蝶の羽を思い描くだけで、胸がじりじりと負の感情に焦げ付いていくのがわかる。
 逆に言えば、それほどまで強い感情を封じ込めておいて、気づかれないほうがおかしいというわけだ。司は再度嘆息してから、返事の代わりに恨みの言葉を落とした。
「……あいつだけは許さない。絶対に……仇を、取る。あいつを燃やし尽くすまで、僕は立ち止まることはできないんです」
 奏はしばらくの間、何も言わなかった。まるで吐き出された司の言葉をかみ砕いて飲み込むように、彼は目を伏せてたままでいた。長いまつげが震え、白い肌に淡く影を落としているのをぼんやりと眺めながら、司は手のひらの下にある彼の手の輪郭を感じていた。
 どれぐらいの時間そうしていただろうか。やがて奏がゆっくりと力を抜き、司の肩から手を離す。するりと抜け出る温度をわずかに惜しく思いながら、司はみたび、奏と視線を絡ませた。
「……そんな調子じゃ、俺が何言っても駄目だろうな」
「あ、その……すみません……」
 どことなくすねた口調の彼に、急に居心地が悪くなる。頭をかきながら謝罪すると、彼は口ぶりに反して淡く笑っていた。
「謝んなくていいって。ったく、大したもんだぜ。運命とか使命とか、背負って堂々としてんだからさ。そういうもんは重たくてかなわねぇや、俺はごめんだね」
 額を軽く指でたたかれ、司は思わず目を閉じる。奏がくすりと吐息で笑ったのがわかって、そこでようやく張り詰めていた空気が緩むのがわかった。
「ええと、奏さん、その」
 唇に指が置かれ、司はそのまま言葉を途切れさせた。切なげな微笑に、つながるはずだった文章が消えていく。
「なあ、つー。止められないってのはわかってるけどな、あんまり背負い込みすぎるなよ? 苦しかったり、重たかったりしたら俺に言えよな」
 指が離れ、頭をゆっくりと撫でられる。いつくしむような優しい手の動きに、司は不思議な安堵感を覚えた。
「……俺にできることなんざ、たかが知れてるけどよ。話、聞くくらいならできるし……甘えたいなら、甘えたっていいんだからな」
 そんなことを言われたら、本当に甘えてしまいそうになる。司は必死で甘えたくなるのをこらえ、喉の奥ですがりつきたい衝動を押し殺した。
「……はい。ありがとう、ございます」
 何度も優しく髪を梳く、奏の指が心地よい。久方ぶりに至近距離で感じる人のぬくもりは、司の心に穿たれた傷に暖かく静かに染みていく。
 ふと、懐かしい香りが鼻先をかすめていく。ああ、この香りを知っている。瞼の裏に、遠く“彼”の後ろ姿が浮かんだ。
「何なら添い寝しようか?」
 と、突然飛び出した強烈なワードに、司は強制的に現実へと引き戻された。
「へ?」
「添い寝」
 間抜けな音が喉から漏れる。奏は口の端をつりあげて、再度強烈なワードを塗り重ねた。
 添い寝。すなわち一緒に寝ること。誰と? 目の前の彼と。答えようにも、自分でも理由がわからない動揺でうまく答えを編むことができない。そして不幸にもその一瞬の間で、様々な要素を拾い上げてしまう。
 たとえば風呂上りだったせいでやたらいい香りがしてくるとか、たとえば乾いた髪の滑り落ちる肩口が、あるいはそれをすくいあげて耳にかけるのがやたら色っぽいだとか。同性だというのに妙に心が騒ぐようなしぐさをしているのはわざとなのか天然なのか何なのか、なんて、そんなくだらないことがぐるぐると頭を駆け巡り始めた。
「あ、赤くなった。ふふふ、照れた? なんかえっちな妄想でもした? かーわいーの」
 先ほどまでの優し気な、切なげな表情はどこへやら。完全に司をからかって遊んでいる。
「ちっ、ちが、違います! もうっ、奏さん!」
「あははは、よしよし、元気になったなあ」
 捕まえようと腕を伸ばすが、奏は笑いながらするりと司の腕をすり抜けて離れていく。まるで遊び戯れる蝶のように、しなやかな指先で肩口のラインをなぞっていたかと思えば、奏はもう障子を開けていた。
 彼の肩越しに、深夜の静けさに浸った庭が見える。妖魔が現れたときに感じられた妙なざわめきはもうどこにもない。
「おやすみ、つー」
 優しく笑い、柔らかく声を投げかけて、奏は部屋を出て行った。鈴の音がゆっくりと遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
「……おやすみなさい、奏さん」
 ひとり取り残された司は、嘆息のあとにそっと言葉を返して立ち上がった。電気を消して、何気なく廊下へ出てみる。
 風が庭の木々を揺らしている。月の光がさらさらと音もなく降り注いでいる。そのさやかな音に溶けるように、女のささやく声が聞こえてくる。

『穢れを持つ者を許すなかれ』

 魂の奥底に刻まれた何かが声を拾い、司の耳に注ぎ込んでいく。聞かなければならない神よりの言の葉、思わず司は息をつめた。

『穢れは理をゆがめ、乱す』
『許すなかれ』
『許すなかれ』
『すべからく祓い清めよ』

 近く遠く、まるで唄を紡ぐがごときその言葉に、司はじっと耳を傾ける。

『日の光届くこの世に、穢れはいらぬ』
『浄化せよ、祓い清め、塵となさしめよ』
『そなたらは、そのために生まれたのだから』
『浄化せよ、祓い清め、塵となさしめよ』
『許すなかれ、許すなかれ、許すなかれ』

 近く遠く、まるでさざ波のごときその声は、やがて風にさらわれてふつりと途切れる。そしてそれきり聞こえなくなり、司は詰めていた息を吐きだした。
 この神社にまつられた女神の声を胸に反芻しながら、部屋に戻る。月は太陽の光を帯びて輝くもの、昼間に対して弱くはあるが、夜に彼女の言葉が聞こえてくるのは珍しいことではない。
 司は日輪女天に仕える巫覡の家系、彼女の言葉に従って生きる運命にある。なぜ今、この瞬間に聞こえたのかは疑問だが――そんなことはどうでもいい。
「……許すつもりなど、ありませんから」
 昏い焔が胸にともるのを感じながら、司は障子を閉めてひとりごちた。


(2006 完結/2018.07.01 加筆修正)

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