深キ森ニ生キル者

二章


 連絡を終え、ケリィはベッドに身を横たえる。窓の外は夕暮れ、シルエットとなっていく森を眺めながら、ふと母親のことを思い出した。
 遠い異国の地より嫁いできた母は、幼いケリィの目から見ても美しい人だった。いつも塔の窓から外を見て、祖国の歌を歌っていた。ケリィはその膝の上に乗って、一緒に歌っていたものだった。
 母はよく、寂しそうな笑顔で話をしてくれた。機械の国の王様と、精霊の国から来たお姫様の、悲しい物語を聞かせてくれた。
『昔々、機械の国の王様は、精霊の国で生まれたお姫様をお嫁にしました。でも娘はお嫁に来てから一度だけしか、王様に愛されませんでした。だから娘は今も、高い高い塔の中で、歌を歌って呼んでいるのよ。王様がいつかもう一度、迎えに来てくださるように』
 母は、光の女神クシイの管理する、聖ノ国の第二王女だったのだという。人間離れした美貌と力を持った人々。彼らの代表ともいえる王族のうちでも、ことさらに美しかったのが母だったのだという。
 昔はただの物語だと思っていたのに、振り返れば母のことだと気づいた。
(塔は……冷えていたな……)
 眠レル森を眺めて歌う母の肩は、白く寒々しかった。それが目に眩しくて、そしてとても哀しくて、幼いケリィはそっと、母にショールをかけてあげたのだった。
 母は不思議な力を持っていた。光の女神クシイの祝福を受け、下位精霊や下位の神々と話すことができる力である。だが、祝福されてもたらされたはずの力は、この国では求められていなかった。父にとっての、ロザリーという娘と同じように。
 一度、森から目を離す。夜の闇が深まっている。己の手の輪郭がぼんやりと浮き上がって見えた。
「私の命は、父上のためにある」
 呪文のように繰り返す。最期の時まで父を待っていた母の姿が、目蓋の裏に鮮やか過ぎるほど浮き上がってくる。痛々しく痩せ細り、喉が潰れるまで歌い続けて、消えるように死んでしまった母の姿が。
「……認めてもらえれば、母上も認めてもらえる。私たちが生きているのだと、認めてもらえるんだ……例え私が死んだとしても、私たちが生きていた証がもらえるんだ」
 手を握り締め、額に当てる。
「この任がうまくいけば……あの人は私のことを、私を通して母上のことを、きっと愛してくれる……!」
 呟きはそのまま、闇の中に消えていった。

 まだ朝もやの立ち込める境地を、ケリィは走る。
「待て、止まれっ!」
 その先を走る小柄な男の影、重罪犯罪者の一人だ。威嚇射撃を試みるも、相手は一向にとまる気配を見せない。
「止まれ、止まれぇっ!」
 腹から声を絞り、追いかける。男は立ち止まらない。真っ直ぐに森の入り口へと向かっている。
「止まれ、森には誰も入れないんだぞ!」
 止まらない。入り口が見えてきた。普段は頑丈な蔦やとげの生えた茨が覆い隠しているため、常人はおろか獣ですらも入ることはできない。このまま進めば、阻まれて立ち止まらざるしかない。そこを狙おうと、ケリィは今一度『銃』を構えた。
 だが、様子がおかしい。あれだけびっしりと生えていたそれらが見当たらないのだ。緑色をした霧がない。霧をまとっていた森にはなかった生命の息吹が、確かに感じられる。
(馬鹿な……)
 驚愕のあまり体が硬直し、動かなくなる。男はそのまま森林の陰に消えていった。
 追わなければ。呼吸を整え、足を踏み出す。
(丁度いい、もし父上のおっしゃった化け物がいるのなら、ついでに始末するまでだ)
 唇を引き結び、ケリィは眠りの名を冠した広大な森林に身を滑り込ませた。

 静寂の中を泳いでいるようだと、ふと思った。わずかな風が木々の葉を揺らす。それ以外は、ケリィの足音しか聞こえない。
(……何て静かなんだろう)
 青みがかった視界。透きとおった緑石を思わせる木漏れ日。喧騒の中にある機ノ国と同じ大陸だとは、到底信じられない。
(……何て……美しいんだろう)
 真っ直ぐに伸びた木々の間を、鳥の影が縫うように飛んでいく。すらりとした首筋を伸ばして、悠々と空を滑っていく。あの立派な尾羽は、見事な深緑と金色の羽毛は、図鑑の中でしか見たことがない。
「あれは……モリノツカイ! 絶滅したはずなのに……生きていたのか……」
 ケリィは思わず声をあげ、任務も忘れて立ち止まった。ひっそりと呼吸をする森、生き物たちの命がすぐ隣で感じられる。
「時が止まっているみたいだ……」
 ケリィが呟いたそのとき、一斉に鳥が飛び立つ羽音がした。何かに怯えるように鳴き声をあげながら、空へと舞い上がっていく。
「何かがいるのか!」
 走った。その間にも、多くの鳥や獣たちとすれ違う。次いで、かすかにではあるが銃声が耳をかすめた。この奥に、追っていた男がいることは間違いないだろう。柔らかな植物の回廊を抜け、唐突に視界が開けた。
 巨大な大樹だった。樹齢何年であろうか、根元はすっかり苔むしている。本体ももう枯れかかり、幹からは別の木々が根を張っていた。
 苔が覆い隠し、蔦が生い茂った洞が目に入った。銃声と、獣の鋭い悲鳴。ケリィは『銃』を握りなおし、一気に飛び込んだ。
「な――」
 息を飲む。そこにいたのは犯罪者ではなかった。
 樹液に閉じ込められた蟲のように、蒼い魔石に身を浸した少女がいた。ほの暗い洞の中で自ら光を放ち、ケリィの目の前に存在していた。
 透きとおった色の向こう側、少女の小柄な体の奥に道が続いている。先は石に阻まれて通ることができない。まるで何かを守ろうとしているように。
「こ、れは」
 震える手で触れてみる。皮手袋に包まれた指から、石の冷たさが伝わってくる。本物だ。ならば、この中に閉じ込められた少女は一体。
 しかし、じっくりと思考している余裕は無かった。石に当たり跳ね返る銃弾に、思考を中断させざるを得ない。振り向き様に発砲する。弾は当たらなかった。
 まずい。ケリィは舌打ちする。ここは隠れる場所が無い。下手をすれば、生きているかもしれないこの少女に弾が当たる恐れがある。焦りだけが募る。
 出来うる限り動かないで応戦する。銃弾は確実にケリィの腕を、肩を、頬をかすめていく。死ぬかもしれない。そんな考えがよぎった。諦めが脳裏の大部分を侵食し始めた瞬間、背後で音がした。
 例えるとするならば、厚い氷が割れるのにも似た音だった。撃ち返すことも忘れて、振り向く。
 少女を包む蒼い石が砕け、かすかなきらめきを残して地面へと落ちていく。髪はしなやかに長い深緑、開いた大きな瞳は鮮やかな金を宿していた。
 空気が動いている。森が動いている――中心に、この娘がいる。悟ったと同時に、少女が両手を広げた。
 突風にあおられ、体勢を崩す。ケリィだけでなく男も一緒だったようだ。成す術もなく足下を何かにすくわれ、そのまま洞の外へと放り出される。木の葉が舞い上がり、舞い落ちる。激しい風の渦に、ケリィは固く目を閉じて耐えた。
 やがて風は止み、木の葉も静かに大地へと積み重なっていく。森の入り口へ戻っていた。
 ショックで気絶している男を拘束し、ケリィの目に、生き物のように森の奥へと戻っていくつる草が映った。
「まさか」
 魔性の力で木々を操り、森を侵すものたちを葬る異形の民。父の邪魔をするものたちだというのか。あの少女が最後の生き残りだというのだろうか。
 入り口をにらむケリィの頭上を、モリノツカイが大きく旋回していった。

(訂正:2007.7.1)

一章← →三章

 

::: Back :::