深キ森ニ生キル者

三章


 ギルドへ男を引き渡してすぐ、ケリィは森の探索に移った。先ほど受けた傷が鈍い痛みを訴えるが、立ち止まることはしなかった。
 あれだけ大きな騒動があったにも関わらず、森は元の穏やかさを取り戻している。のんびりと草を食むヒトツノジカや、木々の合間を縫って飛んでいくアオバツバメが見受けられる。
 あちらこちらに生えた苔を踏みしめ、慎重に進んだ。『銃』の重みが伝わり、汗が噴き出る。だからなのか、森の冷えた空気が心地よかった。
「……」
 先ほどの大樹を一回りする。ここがどうやら最深部らしい。進むとすればこの中しかない。ケリィは少しの間逡巡し、足を向けた。先ほど少女がいた洞である。石が砕けた今、そこは確かな道となって存在している。
 大樹の中に、もう一つの森がある。眼前に広がるそれに、ケリィは眼を奪われた。所々に、大樹に根を張った木々の根が蔦草のように垂れ下がっている。根からまた芽が生え、それが葉を茂らせているのだろうか。
「!」
 ケリィの前に、一人の少女が佇んでいた。真白い衣装が目に痛い。瞳は一瞬金に輝き、色を濃緑へと変えた。長く引きずる髪と裾に、碧い霧がうっすらと色をつけている。
 照準を合わせる。
「森ノ民か」
 返事は無い。
「森ノ民の生き残りかと聞いている」
 ケリィは声に殺気をにじませて問いかけた。返事は無い。
「国王よりの命令だ。貴様らを始末する」
 少女の瞳は、ただ無感情に銃口を見つめている。心の動きすら読み取れず、逆にケリィが動揺を隠せない。
 この娘は、死が恐ろしくないのか。
「……ッ」
 引き金を引く指が、意に反して戸惑いを見せる。
「どうして抵抗しない」
 押し殺して尋ねた言葉も、自身が驚くほどに震えていた。
「どうして、抵抗しない!」
 返事は無い。濃緑だった娘の瞳は、やがて濃紫に染まっていく。洞の外は徐々に、明るい碧玉の色に蒼を溶かし込んでいく。
 額から汗が一筋、顎を伝っていった。
「撃つぞ」
 低く、最後の忠告をした。
 突然娘が走り出した。まるで森の奥に誘い込むように、白い裾が翻る。ケリィは一瞬呆気に取られ、瞬時に逃げられたと知る。
「待て!」
 手の内の『銃』を握り締め、ケリィは娘の後に続く。娘の裾は、奥へ奥へと誘うかのようにひらめいた。
 生き物のごとくはびこる木の根に、何度も爪先を引っ掛けつつも、ケリィは足を止めなかった。どこをどう走っているのかも分からない。ただ視界の奥で揺れる白いものを、一心不乱に追いかけた。
 刹那、視界が開けた。つんのめるように前へと倒れ、痛みが無いことに気づく。一面は苔で覆われ、倒れ伏した木の幹ですらも柔らかく包み込んでいた。後ろを振り向くと、自分が通ってきた大樹が見える。中が通り抜けられるようになっていたのだろうか。
 空には月がかかっている。ケリィの目前に、水の広場がある。苔むした巨大な場はしんと静まり返り、冷えた空気が満ちている。水面は木々の姿を鏡のように映し、月の光をたたえて揺れている。
 と、泉の中央に佇む木が、ケリィの目に飛び込んできた。真っ白な表皮の美しい、見たことも無い木であった。水の中に根を下ろしており、やはり苔が生えている。幹には何かが突き刺さっているが、ここからでは確認することができない。腕にも似た華奢な枝を天に伸ばし、救いを求めているようにも思える。
 水の際に寄り、ケリィはかがんで水を観察した。泉の底までも透きとおして見える。深さは分からない。手袋を外し、触れる。驚くほど冷たい。
「チッ」
 舌打ちして腕をあげる。森ノ民の娘も、いつの間にか姿を消していた。
「……ここが一番奥のようだな……」
 呟きは苔に吸収されて消える。風が通り抜け、水面に小さく波を作る。
 その水面に、ちらりと白い影が映った。森ノ民の娘だ。泉の木の枝に立ち、こちらを見ている。ケリィは水の中に飛び込んだ。皮膚を切るような冷たさが走ったが、そんなことに構ってなどいられない。思ったよりも浅い泉だ。深くとも腰までしかない。波を蹴立てて進み、娘の場所にまでたどり着く。
「ここで終りだ、言い残すことは」
 体を引き上げるため、目の前に伸びた突起をつかむ。つかんでから、気づいた。
 白い木に突き刺さる無数のそれは、錆び付いた剣であった。剣だけではない。槍も斧も矢も、果ては『銃』で撃たれた跡まで残っている。無機質なそれらは幹を貫通し、錆びた身をさらしている。木は武器を幹に抱いたまま、大地に根を下ろしていた。
(違う)
 ケリィは愕然として木を見上げる。
(――これは、木なんかじゃない……!)
 武器の刃が刺さる場所は、乳房の丸みを持っていた。空に伸ばされた枝は、まさしく腕であった。祈るように振り仰いだ表情は、目蓋を伏せて唇をゆるく開いていた。髪は枝と相成り、葉を茂らせていた。
 木の皮に覆われてはいるが、まぎれもなく女性だ。
 衝撃を抑えきれず、一歩後退るケリィに、幼い声が投げられる。
「私の母だ」
 娘がこちらを見下ろしていた。夜の闇にも鮮やかに、瞳は銀を宿している。
「この国の守神にして我らの父、森林と静寂の神ファイの巫女だった。以前の王までは、我らと人間の関係は友好的なものだった」
 娘は語る。夜の透明な闇に、少女の声はよく響いた。
「だが――十と九年の昔の話、突如として鉄と争いの臭いをまとう者たちが現れた。武器を持たぬ同胞は次々と倒れ、大地は血と殺意で汚れた」
 十と、九年もの時をさかのぼる。父が誇らしげに語る、『異形の民との戦争』があった年であり、ケリィが望まれぬ命を授かった年でもあった。
「人間の足が、守神の降り立つ泉を蹂躙する前に、私の母は命と引き換えに結界を張った」
 娘はとつとつと語る。無感動に、無感情に語る。
「私は最後の生き残り。我らの父の言葉を民に伝える、最後の存在。お前に問おう、人間の娘よ」
 周囲の木々がざわめく。
「血族のお前もまた、あの男と同じように、血と争いをもたらす者か」
 どうして父の言うことと違うのだろう。ケリィは混乱した。混乱はさらに、新たなる疑問を連れてくる。一体この場所で何があったのか。あの女性はどうして、武器に貫かれているのか。巫女とは本当のことなのか。武器を持っていなかったならば、どうして父は武力を持たぬ者たちを滅せと言ったのか。胸の内で渦巻く問いが、余計にケリィの喉を凍らせる。
 普通国には必ず巫女が存在する。神の言葉は絶対ゆえ、王以上の権限を持ち、王は一年に一度政の方針を聞かねばならないのだという。巫女は神の子、王は国をあげて巫女を保護する――巫女を知らないと告げたとき、アイビスは巫女について触れたあと、不思議そうに言ったのだ。
 どうしてこの国には、巫女がいないんだろうね、と。
 父は言った。巫女などという不条理な存在に動かされるほど、私は落ちぶれてはいないと。閉鎖的な、野蛮な下衆どもの考えに振り回されるほど、私は無能ではないと。私が古き悪しき慣習を破り、新たなる国を作る、と。
 娘の母親は巫女だという。だが命を落としたという。十と九年前の戦で、命を落としたという。娘は自分を、戦を連れてきたものの娘という。森ノ民は武器を持たなかったという。虐殺されたのだと、いう。
 これは、どういうことなのだ。
(――私が間違っていたというのか)
 今まで信じてきたことが、全て嘘だったというのか。違う。そうではない。そうではないはずだ。ケリィは唇を噛み締める。
「……戯言をぬかすな」
 しぼり出した言葉に、娘は動じることすらしない。
「魔物風情が、惑わしの言葉を口にするか!」
「憐れな子どもだ」
 少女の口調に憐憫が混じる。瞳をかすかに細めて、続きを口に乗せた。
「お前は何も知らないのだ。我らのことも、お前自身のことも、あの男のことも、何も知らないのだ」
「貴様のような存在が、国王を語るか! 汚らわしい!」
 腹の底から力を振り絞り、否定を叫ぶ。
「あのお方を侮辱するものは、たとえ何であろうと私が許さない!」
「憐れな子どもよ、何ゆえにお前は王をかばう。愛されたいがゆえか、それともすがる場所を失わぬためか」
 ずきりと、心臓が痛んだ。強張る唇を無理やり動かし、ケリィはなおも言葉を紡ぐ。
「私はただ、あの方のために生きているだけだ! 他に理由など無い!」
「憐れな子どもだ」
 少女はあくまで無感情に、繰り返す。
「あの男にとって、全ては己の都合よく、己の命令どおり動く便利な道具に過ぎん。お前はただ利用されているだけというのに」
「違う! 私は、私の意思でここに来た! あの人の命令だけじゃない! 自分で判断して来たんだ! ……あの人が間違っているはずが、ない!」
 深々と刺さる言葉を、ケリィは必死で否定する。主張する声音は震え、かすれていた。
「お前が何を知っている! あの人のことを何も知らないくせに、知った風な口を聞くな!」
 渾身の力で娘をにらみつけるが、返される視線は鏡のように冴え冴えとしていた。銀の瞳は徐々に、緑の影を落としていく。
「私はあの人のためならば、喜んで死のう! あの人のお役に立てるのならば、塵よりもつまらないこの命も、惜しくなどない!」
 刹那、娘の瞳が強い輝きを帯びた。あまりにも鋭利なそれに、ケリィの口は再び動くのをやめてしまう。
「塵よりもつまらぬ命だと、子どもよ。お前は一体誰に、そう言えといわれたのだ」
 口調には怒りさえ感じられた。ケリィは何も言えず、ただ呆然と少女を眺めるしかない。娘は幼い顔にも感情をにじませ、声を張る。
「お前は命を何だと思っているのだ。この世に生まれ出でた命に、価値も優劣も存在するはずがなかろう!」
「そんなこと、あるはずがない!」
 ケリィは頑なに否定した。父の言うことが、自分の全てなのだ。ここで自分が父を否定してしまえば、父はもう二度と自分を見てくれなくなる。ケリィにとって、それが何よりも怖かった。
「私はあの人の言うとおり、塵同然の命しか持っていない! 私は無能で、下賎な生き物と同じほどにしか価値が無いのだと! ああ全くそのとおりだ! 私は、兄とも姉とも違う……! 勉学もできないし、賢くもない! 父上の望むような子どもになれなかった! 私は、価値の無い人間なんだ!」
 世界は優劣で決定され、優秀な人間と下劣な生き物で構成される。下劣な生き物が生きていくには、王宮はあまりに選ばれた者が多すぎた。兄も姉も、父の期待通りに成長している。それなのに自分は、父を失望させることしかできない。無能で無価値だと罵られたとしても、仕方のないことなのだ。
 膝から突然力が抜け、木の幹にしがみつく。白く滑らかな木の肌は、人間のように暖かな体温を持っているようにも思えた。
 つと、手が伸ばされた。反射的に視線を上げると、娘がケリィの頬に触れる。夜の風が冷たい。体を撫でていく風の女神の手は、鏡面のような水面にもいたずらに波を立てた。
「そう言いながら、なぜお前は涙を流す」
 成人していない娘の手のひらが、ケリィの頬を拭う。月の光に照らされ、濡れた彼女の指がきらめく。
「己をそうまでして卑下しながら、なぜお前は苦しむのだ」
 頭を抱きこまれた。体が緊張し、ケリィは思わず息を詰める。少女の手が、ケリィの後頭部をなでる。あやすように優しく、いつくしむように柔らかく、なでる。
「お前はもう、苦しまなくてもいい。お前も他の命と同様に、この世界に無くてはならないものだ」
 ケリィは唐突に、母を思い出した。兄と姉が塔に遊びに来たことが父にばれ、責められたことがあった。母は泣きじゃくるケリィを抱いて、謳うように諭したのだった。
『ごらん、ロザリー。この世界は全て、神々と精霊と生き物とで作られているの。いらない命なんて一つもないの。だから胸を張って、前を見て生きていきなさい』
 少女の鼓動が聞こえてくる。規則正しく動く心音に、安堵する。同時に切なさと悲しみが沸き起こり、ケリィは少女の胴に腕を回した。
「今はただ、洗い流してしまえばいい」
 娘の声は、森の奥に佇む静寂さを伴い、深く心に響いた。
「お前を拒むものなど、この世界にはないのだから」

(訂正:2007.7.1)

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