深キ森ニ生キル者

四章


 ふと目を開ける。どうやら眠ってしまっていたらしい。ケリィはゆっくりと体を起こした。毛織物と思われる布が、軽い音を立てて落ちる。服は乾いている。あれからどれほどの時間が経過したのか、想像するに難くは無い。
 頭痛がする。一瞬走った痛みに額を押さえた。娘の姿は無い。ここが眠レル森ということは分かるが、どこかまでは把握できなかった。辺りを見回し、布をたたんで置いてから外に出た。月が出ていた空は、薄っすらと白みかけていた。
 昨晩の泉付近かと思ったが、違う。ケリィが先ほどまでいた場所は、大樹の洞のひとつらしかった。随分と高い場所だが、所々に足場があるので、降りるに苦労はしないだろう。
「目が覚めたか」
 頭上から声が降ってきた。首を巡らせて見上げれば、少女の瞳がちらりと輝いた。次いで衣擦れの音と共に、少女が隣に降りてくる。
「傷はどうだ」
「傷?」
 問い返してから、昨日に受けた傷のことを思い出した。あわてて腕を眺める。記憶に残っている箇所に、それらしきものは無い。
「癒えたようだな」
 少女がほんの少しだけ、笑った気がした。
 ケリィはふと、その華奢な腕に絡まる蔦草に目を移した。幾重にも巻きついた蔦草は、緩やかな曲線を描きながら幹に絡みついている。
「何をしているんだ?」
「治癒をしている」
「治癒?」
「この樹は、この森の長老だ。この樹がなければ、他の命は枯れてしまう」
「なぜ?」
 一時の沈黙を経て、少女の答えが返された。
「我らの父が宿る、大切な樹だからだ。我らの父の宿る樹は森林の命――ミズノキの古木。あの泉はここより流れ出た水。泉だけではない。この島より湧き出でる水は全て、この樹よりあふれ出たものだ」
 好奇心に駆られるまま、ケリィは葉の生い茂る幹に頬を寄せた。風のざわめきに紛れ、かすかに水のせせらぎがする。葉のにおいが柔らかく鼻をくすぐった。
「島の大地に染み付いた毒を、この樹や子どもたちは吸い上げて浄化している」
「毒……?」
 頬を離し、少女に向き直る。鏡のごとくケリィを映す瞳は、丁度頭上に広がる曖昧な空の色だった。
「お前たち人間が出した、毒だ」
 唐突な言葉に衝撃を受け、眩暈さえ覚えた。ケリィは一度頭を振るが、それが何を意味するかは自分でも分からない。
「この国は確かに便利になった。しかしその工程で生み出される毒は、緩和されぬまま流されている。それだけではない。お前たちが過去に葬った機器の亡骸からも、長い年月と雨風にさらされたために新たな毒を生み始めている……毒はいまや大地を蝕み、大地深くに流れる水すらも汚している」
 そんな話は聞いたことがない。父は何も言っていなかった。人体に影響が出なければ問題は無いのだと、積極的に開発者を支援していた。
 不要なものを廃棄し、性能を追及した新たな型へと改良する。利便性を求めれば当然のことだろう。試行錯誤を重ねる中、有害なものができることもある。仕方のないことだ。だがそれなりの処置を施して廃棄すれば、人間に影響は出ないはずだと父は言っていた。人間に影響は――
 ケリィは愕然として息を飲む。人間には影響が出ていない。それだけで果たして問題がないと言い切れるのだろうか。「人間は大丈夫」などという意見は、あくまでも人間からの主観に他ならないではないか。
「この樹は、この森は、この島で暮らす命のために存在している」
 湖面のように静謐な面に、相変わらず表情は窺えない。
「この森が消えれば、この島に生きる命は皆死に絶えてしまう。我らが父の降り立つ以前の、荒廃した、生き物の暮らせぬ死の大地になってしまう。我らが父はそれを望まない。だから我ら森ノ民は、我らが父の教えに従って森を守っている。魂を木々につなぎ、不調があれば力を分け与えて癒している」
「……知らなかった……」
 父は、森など邪魔なだけだと言っていたから。もしも城を追い出されなければ、眠レル森の役割も、森ノ民の役割も何ひとつ知らないままだったろう。
 父の考えが間違っていると言い切ることは、まだできない。しかし、目の前にたたずむ少女を否定してしまうことも、なぜかできなかった。
「ここは我らが父、ファイの守りたもう大地。森は命を育む場所、根付いた命を見捨てたりはしない」
「私も入っているの?」
 漏れた言葉に驚いたのか、少女は目を見張った。ケリィ自身も予想だにしておらず、とっさに口元を覆う。恥ずかしさのあまり、耳が途端に熱く火照る。
 少女が小さく笑った。外見にはあまり似合わない、大人びた笑みであった。
「この世界に、必要ない命など無い。だから、そんな顔はしなくていい」
 落とされた声はひどく優しく、ケリィの頬をなでる。次いで小さな手のひらが、ケリィの手を取った。
「もうすぐ夜が明ける。仲間が心配するだろう、戻ったほうがいい」
 うなずいて、ケリィは少女の名前を聞いていないことに気づいた。
「名前、よければ教えてくれないか。殺そうとした相手でもよければ」
 そう自分を卑下しなくてもいいと、少女は笑う。
「私の名はユプシィ。森ノ民が長、森林の神ファイが巫女セレンの娘。お前のことは生まれたときから知っている――聖なる国の血を継ぎし迷い子ケリィ、優しき子よ、お前に森の神の加護があらんことを」
 太陽の光が、森林を深く彩り始めた。

 ギルドの資料室は人気が無い。普段からあまり人が立ち入らないためか、わずかにカビの臭いがした。ケリィは乱立する書類棚の合間を縫いながら、目当てのものの収納されている場所に向かった。十と九年前、一層カビと埃の臭いのする箇所にそれはある。
 自分が生まれた年の記録だ。正確には王宮の書庫に保存されている記録の写しで、ギルドのほかには大衆向けの書物館に収納されているものである。
 埃を払い、紙面を繰る。今も記録書記官の座を守っているタンタル爺の字だ。懐かしさに、ケリィは思わず口元を緩めた。十と九年前なら、まだ彼の髪もふっさりとしていた頃だろうか。あの優しげな老人の曲がった腰を思い浮かべながら、なおも紙面をめくっていく。
「――あった」
 呟いた声は、予想に反してよく響いた。
 「ファイ」ノ月三十二日目、皮肉にも豊緑ノ祭日に行われた悲劇だった。機ノ国王自らが眠レル森へ赴き行った、森ノ民の虐殺。紙面には『粛清ノ日』とだけ書かれている。ケリィの生まれた日に、たくさんの民の血が流された。戦う術を持たない森ノ民を、他ならぬ父が。ケリィは硬く目を閉じ、歯を食いしばる。
 森を守る民を、命を守る民を殺して、一体何になるというのだろう。父は一体、何が望みなのだろうか。領土を広げるためならば、こんなことは意味が無い。無駄な血を流さないように話し合うことが、国王のすることではないのか。
 首を振り、ケリィは目蓋を持ち上げる。
「きっと何かお考えがあるのだ……国の民のことをあれだけ真剣にお考えになっているのだ、無下に命を踏みにじるようなお方ではない」
 低く漏れた言葉に、苦笑する。
 今まで信じてきたことは、そう簡単に捨てきることはできない。すがる場所を失いたくないから、信じてきたものを捨てられない。
 もしかしたら、ユプシィの言葉は嘘かもしれない。口先だけで、ケリィを懐柔しようとしているのかもしれない。ケリィは彼女を殺しに来たのだ、保身のために嘘をつく可能性だってある。しかし少女は、ケリィの自嘲に本気で怒っていた。偽りの演技で、あそこまで感情を露にできるのだろうか。
 泉の中で感じた温もりが胸の内に蘇る。かけられた言葉が耳の奥で響く。
『お前を拒むものなど、この世界にはないのだから』
 あの温もりを――母のことを思い出したほどに優しかったものを、疑うことなんてできない。どちらを信じればいいのか、ケリィには分からない。できることならば、どちらも信じたい。ユプシィはそれを受け入れてくれるだろう。では、父は? 父は何と言うだろう。
 緩んだ指先から書類が落ちた。あわててかき集めるケリィの目に、ある一文が飛び込んでくる。
「『粛清ノ日』より半月後、原因不明の奇病が流行。死者多数。食物と井戸の水より毒素が検出される……」
 あれから十と九年が経った今も、機ノ国は外から生活水と食物を輸入している。財政は少しずつ圧迫されており、国民は困窮している。王は何をしているのかと、不満の声も少なくない。だから父は、生活区域を広げて資金を稼ごうとしているのだろう。もっと深い理由があるのかもしれない。ならば詮索するところではない。自分は父のために働いている。ひいては国のためになるのだから。
 ぼんやりと文字列をなぞって、ケリィは泉の中央で命を散らしたというユプシィの母を思った。
 真白い幹の所々は、まるで腐り果てたように澱んだ色をしていた。腕の先、茂った葉の一部分は全く生きておらず、枯れ果てていた。特に根の部分は酷く、半分はもう腐っていた。闇の中でよくは分からなかったが、思い返せば不自然なまでに伸びた蔦があった。周囲から伸ばされたそれは、死してなお森を守っていた彼女を支えるためのものだったのかもしれない。
 巫女セレンが眠レル森を守るために、ただ一人で毒を癒した時間。眠らせることで、多くの民を失った森の傷を少しでも軽減させたのだろう。その分だけ、彼女の変化した細い樹にかかる負担は大きかった。巫女の力をもってしても、無事ではすまなかったのだ。
 ああ、まただ。ケリィは一つ息をつく。結局堂々巡りになってしまう。父のために働きながら、一方で森ノ民のことを知ってしまった。どちらも選びたい。だが父はそれを許さないだろう。
 愛されたい。褒めてもらいたい。自分を通して母のことを見てもらえれば、それでよかったのに。どうすればいいのだろう。
 手にした紙面に再度目を落としたとき、入り口の扉が軋む音がした。
「ケリィ?」
 逆光を受けてきらめく蜜色の髪に、ケリィは思わず肩に入った力を抜く。
「アイビィ……どうしたの、こんなところに」
「ニオさんに聞いたら、資料室にいるって教えてもらったの。もう、探しちゃったじゃない」
 ひづめを一度苛立たしげに鳴らし、アイビスは腰に手を当てる。馬の耳がぴくりと震え、よく動く目はこちらを恨めしそうににらんでいる。
「ごめんね。急ぎの用なのか」
「ギルド一の俊足が来たんだから当然でしょう」
 拗ねているようだ。笑いをかみ殺しながら、ケリィは資料を棚に戻す。大股で歩み寄り、友の後について表に出る。日の光が一瞬瞳の奥を焼き、思わず顔をしかめた。
「あんな薄暗いところに閉じこもって。頭からキノコ生えるわよ」
「それは勘弁だ。で、どんな用?」
「ケリィにお客さん。急いでほしいって言われたから……あ、ほら、あれ」
 ギルドの入り口にはニップと、フードを目深に被った人物が二人待っていた。ニップはケリィの姿を認めると、珍しく情けない声をあげる。
「おいケリィ、何なんだこのお二人さんは。俺の尻尾にじゃれついて『かわいい』とか言いやがるんだぜ、何とかしろよ」
「ハンター十五年目のベテランなんだろ、何とかすればいいじゃないか」
「くそぅ、ひよっこがぁ」
 フードの片方が笑い声を立てる。それに混じって聞こえる涼やかな音は、彼女のつけている耳飾の立てるささやきに他ならなかった。
 知っていないはずがない。彼女の五回目の誕生日にケリィの母が贈った、婚礼の際につけていた銀の雫の耳飾りなのだから。
「ごめん、二人とも。少し部屋で話をするから」
 アイビスとニップは不思議そうに顔を見合わせていたが、やがてそれぞれにうなずいた。
「じゃあ私はお仕事してくるね」
「俺は飯食ってくる。終わったらまぁ、適当に呼び来いや」
 手を振って別れを告げ、ケリィはフードの二人組みを部屋に引っ張り込む。窓を閉め、斜光布を閉め、灯かりをつけてようやく振り返る。
「……メルト兄様、シェーラ姉様。付き人も連れずに来るなんて前代未聞ですよ」
 フードの下より現れたのは、悪戯が見つかっても悪びれない子どもの笑顔であった。

(訂正:2007.7.19)

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