深キ森ニ生キル者

五章


「それにしても、父上がよくお許しになりましたね。こんなところにいらっしゃるなんて」
 ケリィの言葉に対し、機ノ国の王子はあっさりと首を振った。
「父上には言ってないんだ。こっそりね」
「楽しかったわ、タンタル爺の秘密の通路を抜けてきたのよ。まるで怪盗ハイドラーグになったみたいで、とてもわくわくしたの」
 機ノ国の王女は無邪気に笑い、跳躍の真似をする。
 有名な夜ノ国の怪盗通りにはならないが、それでも満足そうだ。彼女の大好きな怪盗ハイドラーグと同じく、冒険ができたことが嬉しいのだろう。
 途中まで冷静に分析していたケリィだったが、それ以上に重要なことを思い出して声を張った。
「ちょっと待ってください! それって」
 無許可外出なのでは。続ける前に、メルトが微笑んで唇に指を当てた。
「そんなことはいいんだよ。可愛い妹とお話をするだけなんだから、怒られるいわれはない」
「そんな、でも、それじゃあお二人が」
 通常、王家の人間と一般庶民が会話をすることは許されない。機ノ国の規制の中にも明確に記されている。会話をしてもよいのは、身分が対等の立場の者でなければならないのだ。
 今の自分は、王族ではない。処罰の対象は身分の低い自分だが、当然この二人もただではすまないだろう。
「ロザリー、心配しないで。お父様は私たちが何とかしてみるから」
 シェーラは言いながら、ケリィの手を取る。蒼緑の眼差しは、昔と何ひとつ変わっていなかった。温かい手のひらも、優しい言葉も、変わらない。
 過去に捨てたはずの名前を、温度を持った声で呼ぶのは、この人たち以外に数えるほどしかいない。
 不意に奥からせり上がる熱い感情を飲み下し、ケリィは問う。
「……お話とは、何ですか」
「一つ質問と、一つ頼みごとと、一つ言っておきたいことがある」
 メルトの声が、真剣な色を帯びる。
「まず一つ。森ノ民のことについてだ。この国には、先住民族として森林に暮らしていた民がいることは、ロザリーも知っているだろう。では、彼らの行っていることについては知っているかい?」
 体が不自然に緊張している。ケリィは強張る唇を動かし、質問を返す。
「……どうして、それを私に聞くのですか?」
「父上からじかにうかがった。住居区域を広げ、工業国として発展させるために森林部を潰すと。そのために森ノ民を殲滅するよう、あるハンターに極秘で依頼したのだとも。ハンター嫌いの父上が、ハンターに依頼するなんておかしいと思った。だから、勝手だけれども探りを入れさせてもらった。すまない」
 こちらを見つめる兄の瞳は、真っ直ぐにケリィを見つめている。自分と同じ蒼緑色の瞳に、硬い表情をした自分の顔が映っている。心の奥まで見透かされそうで、無理やりそこから視線を外した。
「ということは、全てご存知なのですね」
「そういうことになる。それで、森ノ民の行っていることは?」
「知っています。生き残りだという少女に、直接聞きました」
 答えるケリィの脳裏に、ユプシィの横顔が蘇る。長い時間を生きてきた少女は、日に日に汚れていく大地を癒しながら何を思っているのだろう。
「ならば話は早い。ロザリー、私たちに協力してもらいたいんだ」
 一瞬、何を言っているのかが分からなかった。その意味を理解するのに、さらに何秒かを要した。
「……え?」
「私とメルト兄様はね、眠レル森と大地の毒素の関係を調べてきたの。そうしたら、『粛清ノ日』……森ノ民のほぼ全てが虐殺され、国を護るはずの巫女まで命を落としたあの事件以降、毒素が急激に増えていることを知った」
 重ねられたシェーラの手が、ケリィの手を握り締める。温もりは手袋を通してじわりと皮膚に染み入る。
「でもね。眠レル森の結界が無くなったと同時に、毒素がほんの少しだけど減ったことが分かったの。あの森は、この国の悪いものを浄化する働きがあるのよ」
『この樹は、この森は、この島で暮らす命のために存在している』
 たった一人になってしまった少女は、ケリィが迷い、悩んでいる間にも、ただ蝕まれた大地を癒していたのだろうか。そうして今も一人で、大陸に住む命を守るために森を癒しているのだろうか。
「シェーラの言うとおり、眠レル森には浄化作用がある。その作用のおかげで、我々は今日まで生き永らえてきた。眠レル森がなくなれば、この大地は本当に死んでしまう。だから私たちは、父上をお止めしようと考えているんだ」
 答えようとしたが、喉が渇いていてかすれた音しか出なかった。沈黙するケリィを見据えたまま、メルトはなおも言葉を続ける。
「そしてロザリー。私は君に、王位を譲ろうと思っている」
 耳に入った単語の羅列から、意味を汲み取ることができなかった。兄は今何と言った。働かない思考回路の中から、再度兄の言葉の意味を探り出す。
 私。次期後継者、メルト王子。君。ハンターケリィ、出来損ないのロザリー。王位。王としての位。譲る。受け渡す。
 ――王としての位を、受け渡す。次期国王が、追放された出来損ないに。それはつまり、王位継承権の無い役立たずに国を預けるということ。
 そんなことは許されない。自分はもう王族ではない。国王に認められない子どもは、王家ではないのだから。声を絞り、ケリィは叫ぶ。
「そんな……どうしてですか!? 兄様がこの国を背負うのだと、兄様でなければならないと、父上は、父上はおっしゃって」
「本来ならば君が――機ノ国の王妃テルルの娘だった君が、女王になるはずだったんだ」
 兄の強い口調が、ケリィの言葉を完全に遮断した。
「正当な後継者ではない私が、国を背負っていけるとは到底思えない。だから私は、君から奪った王位継承権を返還したい」
 頭痛がする。心臓は早鐘を打ち、手足は痺れて冷たい。汗が噴き出して、顎を伝い落ちた。
「奪った、だなんて、だって父上が、そうおっしゃったから、だから私は」
 父に認められなければ意味を成さない。たとえ王妃の娘であったとしても、王がそれを愛でなければ存在する価値がない。価値がないものは真ではない。王が真を認めなければ、いかなることであれどそれは真ではない。国を統べる王の権限は絶対、そう言っていたのは父なのだ。
 真でないものは存在する価値すらない。父の真になりたくて、父の言うことはすべて従ってきた。認めてほしかった。それだけを夢見て、父のすべてを信じてきたのに。
「昔からずっと不思議だったんだ。どうして王に愛された母が、自分で命を絶ったのか。どうして小間使いの息子の自分が王子として扱われて、王妃様の娘のロザリーは閉じ込められていたのか」
 違う。メルトもシェーラも王の子ども。出来のよい子どもだった。だから愛された。自分は出来が悪い子どもだった。だから愛されなかった。たったそれだけの簡単な話、だからそんな顔をする必要なんてない。
 もうやめてくれと懇願したかった。それ以上は言わないでと叫びたかった。しかしケリィの唇は一向に音を紡ごうとしない。
「答えは簡単だった――王妃様のいた塔は、父上が今まで集めてきた収集物を収納する場所だった」
 数刻後に放たれた王子の声は、怒りのために震えていた。
「飽きればそこに放り込んで、二度と取り出すことは無い。二目と見られぬ美しい娘は、権威を誇示するために集めたモノにすぎなかったんだよ」
 ケリィの頬を、涙が伝っていった。シェーラの指がそれを拭うも、雫が止まることはなかった。
 どうしてかはケリィ自身にも分からない。母が父にとってはモノと同じだった、という事実に衝撃を受けたからかもしれない。自分を通して母を見てほしい、という希望が断ち切られたからかもしれない。もしかしたら、そのどちらでもないのかもしれない。ただひどく胸が苦しくて、そして悲しかった。
「すまない、ロザリー。父上のことを信じている君の心を、踏みにじるような真似をしてしまって」
 額が、兄の広い胸へ押し付けられる。あたたかな温もりが肩を包み、あやすように背をたたく。
 本当は知っていた。二人が母の世話をしていた小間使いの子どもだということは、彼女によく似た暖かさが何よりも雄弁に物語っていたから。彼女が父のお気に入りだったことも、そのせいで母の世話役から外されたことも、彼女が父に愛されたせいで自殺したことも、知っていた。
 本当によく似ているのだと、ケリィは兄の手の感触を受けながら思う。ケリィが父に怒られたときも、こうして優しく背中をなでてくれたのだ。「姫様、わたくしのせいでこんなお辛い目にあわせてしまって」と、いつも謝っていた。
 自分のせいで誰かが悲しい思いをする。やはり自分は父の言うとおり、役に立たない駄目な屑なのだろうか。自問をするケリィの耳に、低い声音が滑り込んできた。
「君の母上はとても優しかった……私たちの母のこと知っていたはずなのに、一切責めずにご自分のお子のように可愛がってくださった――私は、父上を許せない」
 知らず、顔をあげる。普段は優しげな兄の眼差しは、いまや鋭い光を帯びてきらめいていた。
「王妃様が病気だと偽ったのは、成長した私たちと顔が似ていないから。本来妻である王妃と血が繋がっていないことが分かれば、自分のお気に入りは王位を継げない。だから父上はロザリーを閉じ込めた。正統な王家の血を継いでいる子どもの存在が知られれば、自分のお気に入りが王位につけないから。巫女を始末したのは、自分に指図する者がいることが気に入らなかったからだ。森ノ民を虐殺したのは、自分の命令に従わなかったからだ」
 シェーラは一度息を吐き、うつむいて目を閉じる。彼女の長いまつ毛が、柔らかな曲線を描いて伏せられた。
「調べて分かったのだけれど、父上は一度巫女様を通じて、森ノ民に退去を命じていたの。でも民たちはそれを拒否した。だから父上は……」
 メルトの手が、きつく握られる。男ながらに整えられた爪が、手のひらに食い込んでいる。
「――そうやって真実を捻じ曲げて、隠し通して、自分の意のままにしてきた。まるで子どものわがままだ。欲しいから手に入れる。邪魔だから潰す。気に入らないから追放する、滅ぼす。このままでは、この国は近いうちに滅ぶ」
 言葉に隠された衝撃の刃が、ケリィの体内を駆け抜ける。
 国が、滅ぶ。自分の父が、国を殺す。何千という無罪の民を道連れにして。体が震えるのを抑えられない。多くの命が奪われるのだ。父の心一つで、父の意思の一つで、いとも簡単に、国家という大樹は倒されてしまうのだ。
「国が滅びれば、多くの民が苦しむだろう。これ以上、父上の過ちを見過ごすわけにはいかない。過ちに気づいているのは、私たちの三人だけなんだ」
 父の犯した過ちに気づいているのは、兄と姉と自分しかいない。だがこの国を救うためには、父の言葉に逆らわなくてはならない。父に逆らってはいけない。自分が逆らえば、その罪はすべて兄と姉に行ってしまう。自分さえ我慢していればいい。これ以上迷惑をかけるわけにはいかないのだ。もう誰も、傷ついてほしくない。
 再度断ろうと唇を引き結んだとき、兄が深く頭を下げた。王族が一般人に頭を垂れることは絶対に無い。硬直するケリィに向けて、兄は真摯な音を声ににじませる。
「ロザリーばかりにつらい思いをさせられない。だから、無理にとは言わない。選ぶのは君の自由だ。私たちは、君の意思に従おう」
「私の、意思に」
「そう。誰のものでもない、あなたの心が出したものよ」
 姉もまた、兄に倣う。呆然とそれを眺めていたケリィは、先に示された言葉を、胸中で小さく反芻する。
 誰の意見でもない。誰の指図でもない。自分自身の、本当の答え。
 一瞬だけ、老いた父の横顔が浮かぶ。姉の華奢な手が自分のそれに重ねられている。瞬きをすれば、静かにこちらを見つめる兄と姉がいる。
 できることならば、両方を選びたい。それでも絶対にどちらかを選ばなければならないのなら、真実を知る人たちの言葉を聞いてからにしたい。
「……森に、行きましょう」
 深く息を吸い込んで、ケリィは言った。音は震え、かすれてはいたが、それでも自分の言葉で伝えたい。
「護衛をあと二人、つけます。どちらも私が信頼している友ですから、ご心配には及びません。それから森ノ民に会って、客観的な意見をいただきましょう。そこで私は、結論を出します」
 母の異なる兄姉は、優しい笑みを浮かべてうなずいてくれた。彼らはいつも、ケリィを認めて受け入れてくれたのだと、今更ながらに思い出した。

(初回アップ:2007.8.23)

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