深キ森ニ生キル者
六章
結界の消えた直後よりも、森の内部ははるかに明るかった。木の葉の隙間より零れ落ちる光は、緑石の輝きを帯びて大地を彩る。木々の幹は皆みずみずしく伸び、踏みしめる草地もまた玉の露を乗せて煌めいていた。 「すごいわね、聞いていたよりもずっと綺麗」 先頭を軽やかに駆けながら、アイビスは笑った。 「確かにこりゃぁ見事なもんだ。絶滅種までいるとはな」 よく通る声でニップが続く。愉快そうに振られる尾は、彼がいかに上機嫌かを示している。 「綺麗ね、まるで楽園だわ。兄様見て、ミズノキが大半を占めているわ」 その後ろをゆったりと歩みながら、シェーラは細い首をめぐらせている。今にも布を跳ね除けてしまいそうなほど、彼女は喜んでいた。 「これが森ノ民が遺した最後の砦……静かであるからこそ、生命の脈動がじかに伝わってくるのか。本当に『楽園』という言葉が相応しい」 メルトは目深に被ったフードの下から呟く。時折手を伸ばしては、ずれそうになる妹のフードを直してやっている。そういう彼もまた周囲を見やり、口元には淡い笑みが乗っていた。 モリノツカイの透明なさえずりが、木漏れ日に紛れて響いていく。蔦の茂る太い幹は小動物が駆け回り、道無き道の奥は青味を帯びた深緑を溶かし込んで広がっている。日光の金粉を散らす風が隣をすり抜け、木々を幾度となくざわめかせた。 (やはりここは、とても綺麗) 進む彼らの姿を眺めながら、ケリィは改めて実感する。 (ファイ様の愛した場所だもの、当然か) 森林の神ファイは、創造神テラレシートより賜ったミズノキの枝を大樹へと変え、実る果実を人々に分け与えて救ったと伝えられている。荒れ地ばかりの島は、ファイの加護により緑の溢れる国となったと、神話では語られている。ゆえに城下町の広場や城内の庭に置かれた石像は、足を木の根と変えて根ざす森林の神を模しているのだ。森林の神の恩義を決して忘れぬように、と。 視界が開け、大樹が姿を現した。空を覆わんばかりに枝葉を広げ、厳かに佇んでいる。 (ああ、そうか……) 誰もが言葉を失って立ち尽くす中、ケリィは不意に悟った。 (ファイ様は、生き物の生命のために森を創って与えた。森ノ民は、ファイ様の願いのために森を守っている。それなのに父上は、彼らの意思に反してここを滅ぼそうとしているんだ……) 「我らは戦いを望まない。望むものは、この地に生まれた生命を守ることだけ。それが我らが父ファイの望みであり、我ら森ノ民の望みだ」 細い声が響いた。幻聴ではない。意識を戻すと、背景に溶け込んでこちらを見る少女がいた。淡い緑の髪に木漏れ日が揺れ、大きな瞳は蒼と紫が程よく混じった不思議な色になっている。 「ユプシィ……」 「答えは出たのか」 何も聞かずとも、彼女には分かっているようだった。ケリィは小さく首を振り、鏡のような目を見つめ返す。 「これから答えを出すところだ」 「そうか」 娘は静かにうなずくと、唖然としている他の者へと向き直る。 「我が名はユプシィ。森林の神ファイが巫女、森ノ民の長セレンが娘」 アイビスは珍しく真面目な顔をして、ユプシィの前で膝を折った。 「アイビスと申します。機ノ国のギルド協会で治癒師をしています。故郷である聖ノ国で、森ノ民のお話はうかがっていました。次期の巫女様ということでよろしいでしょうか」 「かしこまらずともよい。今はまだ、そのときではない」 彼女は治癒師として育ってきたのだと、ケリィは遠い昔に聞いたことを思い起こす。治癒師の力は神の力、巫女候補だったこともあると聞いた。礼儀が徹底されているのは、巫女がいないことに疑問を感じていたのは、「奇跡」の力が当たり前の場所にいたからなのだろう。それは、自分の存在が認められていることに他ならない。 ユプシィの口元がかすかに緩み、視線がニップへと注がれる。彼は一度頭を掻き、一つ呻いてから口を開いた。 「俺はニップ。ハンターだ。生まれは草ノ国の大都市イルデル。親元飛び出して十五年、機ノ国で専属のハンターをしている。巫女様がどうだとか何だとかはよく知らねぇから、口調云々は勘弁してくれ」 その物言いがいかにも彼らしいので、ケリィは思わず笑ってしまった。ニップも小さく肩をすくめて苦笑する。こういう堅苦しいのは苦手なんでな、という言い訳がましい言葉もまた、彼らしかった。 彼らしいということもまた、彼自身が認められているということだ。アイビスやニップに醜い嫉妬をぶつけたことがあったと、ケリィはぼんやりと思い返す。 と、フードのついた外套を取り払い、メルトとシェーラが深く頭を垂れた。 「機ノ国王ネオが息子、メルトと申します。こちらは私の妹、シェーラです。お目にかかれましたことを、そして末妹との縁を心より感謝いたします」 ユプシィが再びケリィを見る。アイビスは息を飲み、ニップもまた目を丸くする。その視線がこちらと二人の間を行き来するのを、ケリィはややいたたまれない気分で受け止めていた。 大地の肉を示す茶、静寂を示す蒼と緑の混合色。機ノ国の王家に名を連ねるものが持つ、証とも呼ぶべき髪と瞳。ただのハンターがなぜ王家の証を持つのか。困惑するのは当然だ。 「父王ネオの野望を止めたく思い、無礼を承知で参りました」 「どうぞ、我らの願いをお聞きください。私も兄も、既に覚悟の上です」 兄姉の言葉を背に、ケリィは友に頭を下げる。 「……二人とも、今までだましていてごめん。ここに二人を連れてきたのは、決断することができなかったから……私がまだ迷っているから、それを決めるためなんだ」 「どういう、こと? だますって、何を?」 戸惑いがちに、アイビスが尋ねる。祭典以外では見ることもかなわない人物が二人も、この場にいることに混乱しているようでもあった。 息を深く吸い、渇いた喉に唾を送り込んで、ケリィは声を放つ。 「私の……本当の名前は、ロザリー。機ノ国王妃テルルの娘、第一王女ロザリー」 「ちょっと待ってくれよ」 ニップが制止の声をあげる。普段から冷静な彼が、ここまで狼狽しているのを見るのは初めてだ。 「機ノ国の王子さんとお姫さんがここにいるってだけでも驚きなのに、お前も王女さんだって? しかも第一王女? 王妃さんの子どもは二人だろ? でもお前も子どもだっていうなら、第二王女になるんだろ? 頭がこんがらがってきた、詳しく説明してくれよ」 「我々は、王妃テルル様の実子ではありません」 ケリィの言葉を引継ぎ、メルトが答える。シェーラも凛と背を伸ばし、通る音で続けた。 「我々は父の過ちで生まれた、小間使いの子どもです。父のわがままによって隠蔽され、追放されたのがロザリーなのです。民に伝わる王族に関する情報は、ほぼ全てが捏造され歪められたものに他ありません。正統な王家の血を継いでいるのは、ロザリーだけなのです」 嘘、というアイビスの言葉が、重くケリィの心に突き刺さる。 今まで必要であったとはいえ、友に嘘をついていたのだ。その罪は、簡単に償えるはずもない。やはり自分は、価値の無い存在なのだろうか。 胸の痛みを堪えながら、ケリィは再度口を開く。 「……私は父上に命じられ、ハンターに紛れて眠レル森を見張っていた。結界が解けたとき、中に潜入して民を抹殺するようにと」 ユプシィの細い指が、ケリィの手を握った。そこで初めて、自分の手が震えているのを知った。 「私の母は、父に愛されていなかった」 語尾が震え、かすれる。うまく音になったかどうかも分からなかった。切り刻まれたような鋭い痛みを、胸の内側が訴えた。 「兄様と姉様が生まれたあとに、私が生まれた。父上は私と母上を、塔に閉じ込めた。父上は兄様を跡継ぎにしたかったから。私のことも、母上のことも、父上は愛してくれなかった――」 目蓋の奥から零れて落ちていく熱は、足下を柔らかに包む草へと消えていく。涙の筋が風に冷やされて、余計に頬の熱さを実感した。 「母上は父上をずっと待っていた。だけど、父上は来なかった……だから私は、父上に愛してほしかった。私を通して、母上を愛してくれればそれでよかったんだ。たとえ出来損ないでも、たとえ存在価値のない屑だったとしても、この使命を全うすれば……父上は私を愛してくれると、そう言ったんだ」 そんなことを、と呟く兄の声が耳に届いた。 「だけどユプシィの話を聞いて、兄様の話を聞いて、分からなくなった。ユプシィが正しいのか、父上が正しいのか。何を信じればいいのかが分からない。私は屑だから、言う事を聞かなければ愛してもらえないんだって。父上はそうおっしゃった。王は絶対だ、だから子どもであったとしても、逆らってはいけないんだって。でも兄様や姉様は、そんな父上のことを間違っているという。私はどちらを選べばいいのかが分からない。どちらも選びたいけれど、どちらかしか――」 突然、衝撃が頬を通り過ぎて視界がぶれた。呼吸が一瞬だけ停止した。じわりと熱が皮膚を覆う。その後を追うように、やっと痛みが広がった。 「ケリィの馬鹿!」 アイビスが怒鳴る。あまりにも唐突過ぎて、思考がついていかない。ケリィは張られた頬を押さえ、ただ呆然とアイビスを眺めるしかできなかった。 「馬鹿! あんたはちゃんとした人間でしょう!? 屑なんかでも、命令を聞く便利な人形なんかでもないのよ!!」 「だって父上は……」 「あんたのお父さんがどう言おうが、あんたはあんた以外の何者でもないの!!」 ケリィの言葉を遮り、アイビスはなおも声を張った。肩をつかみ、何度も乱暴に揺さぶる。 「あんたは王様の子どもである以前に一人の人間でしょう!? 自分が正しいと思うことを信じて行動するのよ、いつもあんたがやってることじゃない! それを今やらないでどうするのよ!!」 アイビスの目じりに涙が浮かび、次々に頬を伝っていく。肩を揺さぶっていた手は腕まで落ち、音は涙で潤んだ。 「あんたは生きている人間だわ、自分の意志で生きることができる人間なの……都合のいい人形じゃないの、屑なんかでもないの……お願いだからそういうこと、言わないでよ……あたしの友達は、屑なんかじゃない……人形なんかでもない、ケリィは……人間だもの……」 「アイビィ……」 声が詰まった。大粒の涙を零す友人の顔がにじみ、揺らぐ。やがて視界は澄み、同時に未だ痛む皮膚の上を雫が流れていった。 「ったく。ひよこちゃんが一丁前に何を言い出すかと思えば、そんなことか」 一方、大柄な半獣の男はさもおかしそうに笑い出した。 「何つまらんことで悩んでんだ、ケリィ。お前はお前で、他人は他人だろ。他人の主観に振り回されるなんて、実にくだらねぇじゃねぇか」 違うか、と彼は首を傾げる。 「自分自身の価値なんて、最終的に自分が決めるもんだろが。自分を押し込めて他人の意見ばっか気にしてても、いいことはねぇさ。他人の主観はたまに当てにするくらいでいいんだよ。そうでもしねぇと、疲れちまう」 「ニップ……」 「どうしたよケリィ。いつも通り、俺にガンガン意見ぶつけてこいよ。しおらしいお前なんざ、気持ち悪いだけだぜ」 ちょっとだけ、カチンとした。 「……気持ち悪いって何だよ。私だって悩むことくらいあるんだ」 「そうそう。それでいい。そうやってぶつけてみろ。何、確かに痛いこともあるが、その分だけ相手が分かるってもんだろ」 屈強な腕が、肩に回される。アイビスもろとも引き寄せられて、頭をくしゃくしゃに撫でられた。ハンターになりたてだった頃、任務を一つこなすたびにこうして滅茶苦茶に褒められたものだった。 「強く、優しい絆がある。よい友人たちを――いや、よい家族を持ったな」 ユプシィがかすかに笑んだ。細められた瞳は、兄姉と同じ、そして自分と同じ、透明な青緑を宿していた。 「お前はこれでも、己がいらない命だと言うのか?」 解放され、ケリィは少女と対峙する。 優しい兄姉がいる。励ましてくれる友がいる。支えてくれる、絆がある。どうして今まで気づかなかったのだろう。自分には、こんなにもたくさん愛してくれる人たちがいる。認めてくれる人たちがいる。 自分が自分でいられる場所が、必要とされる場所が、こんな身近にあったのだ。 「――いいや」 胸の中を満たす温もりを感じながら、ケリィは笑った。 「それどころか、なくてはならない命なんだと自惚れたくなったよ」 「自惚れなんかではない。それが当たり前のことなのだ。この世に生まれ出でた命は皆、なくてはならない尊いものなのだから」 ユプシィもまた、笑みを深くする。思い返せば、この少女の言葉はケリィを救ってくれていた。出会ってわずかな時間しか経っていないのに、彼女の傍は安らぎを与えてくれる。森と共に生き、命をいつくしむ民の娘は、ひょっとしたら人々を見守る森そのものなのかもしれない。 「私は」 失いたくない。この場所を。この人たちを。彼女を。 「この森を、守りたい。それが私の、答えだ」 メルトとシェーラの表情が、ぱっと輝いた。 「そのために、ユプシィ、一つお願いしてもいいかな」 ケリィは今一度、少女の小さな手を取った。森ノ民の少女は、ただ静かにその様子を見守っている。細い身にまとう白い布に、風の女神が運んでくる木漏れ日が踊った。 「私と……違うな。私たちと、友達になってくれないか」 ユプシィはかすかに目を見開き、それから驚いたように見上げてくる。 「私にはこんなに素敵な友人たちが、素敵な家族がいるんだってことを、ユプシィに知ってもらいたいんだ。それとユプシィのことも、私の大切な友達にもっと教えてあげたい。私の『家族』に、ユプシィが入ってないなんて嫌だよ」 呼吸を数度重ねてから、ユプシィは嬉しそうに笑った。それは外見に相応しい、無邪気な子どもの笑顔であった。 「ありがとう」 頃合を見計らったかのように、ニップが再びケリィをつかまえる。ユプシィも一緒くたに抱きすくめ、頭がかき混ぜられた。アイビスが反対側から勢いよく抱きついてくる。ひっくり返りそうになる背後、シェーラが飛びついてきた。メルトだけが外で笑っている。その外套を引っ張って、ケリィは兄を羽交い絞めにした。慌てる兄の腰にユプシィが抱きつき、ニップが双方を引っつかみ、アイビスがそこに飛び込み―― いつしか大樹のそびえる広場には、笑い声が響いていた。 (初回アップ:2007.8.30) |
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