深キ森ニ生キル者
七章
木々の葉が擦れる音は、波の音にも似ている。ケリィは静寂の中を進みながら思う。 時折頭上を横切る碧の影は、この辺りに暮らすモリノツカイのそれだ。最近はすっかりケリィにも馴れ、近くの枝にとまっては、立派な冠羽を揺らしてこちらを伺うようにもなった。斑の美しいヒトツノジカは、こちらの姿を見るなり角をすり寄せてくるようになったし、他の小動物もそれと似た態度になっている。 様子を見に来るため、兄と姉はたびたび城を抜け出すようになった。優しい記録書記官の手を借りて外に出、アイビスやニップに護衛されながら夕刻に帰る。それを繰り返して既に一月近くが経過していた。今もユプシィを挟んだ左側を歩いている。 ユプシィは二人の来訪を歓迎し、ケリィを伴って様々な場所を巡った。眠レル森の中央部にそびえる大樹から、森林部分に点在する森ノ民の旧居や、枯れた古木が並ぶ民の墓地、絶滅危惧種あるいは絶滅種の巣など、見落としがちな場所の小さなものに至るまで、ユプシィは言葉少なに説明を織り交ぜながら紹介して歩いていた。 そうして日を重ねてとうとう、最奥にあったあの泉にたどり着いたのだった。王子も王女も、開けた視界に息を飲んで立ちすくむ。 身を切るように冷たい水の中央、武器に貫かれた白い木は、依然として両の腕を天へと伸ばしていた。 「先代の巫女にして我が母、セレンだ」 淡々と繋がれたユプシィの言葉に、二人の王族はうなだれる。そのまま額に指を二本当て、森を護り命を落とした巫女へ黙祷を捧げた。 一刻が過ぎてから、メルトはユプシィに質問を重ねる。 「この泉は一体何ですか? ミズノキからあふれ出たものだと、ロザリーからは聞きましたが……ただの泉じゃありませんね」 「『生命ノ泉』だ」 唐突に出された単語に、ケリィは面食らった。泉に名前があったなんて知らなかった。最初に会ったときはおろか、森に足しげく通うようになった今でも、泉のことは少しも知らなかった。もっとも、大きな理由として泉に関する話を一切していなかったからなのだけれども。 「ここは我らが父、ファイより賜りし奇跡の泉。この水がなければ、我らの肉体は年月に耐え切れずに枯れ落ちてしまう。我らの成長は人間よりもはるかに遅いが、肉体の構造自体は人間のものと変わりないからな」 そういえば、眠レル森にある木々はどれも樹齢数百年のものなのに、まるで若木のようにしっかりしているとアイビスが驚いていた。通常の樹木は、老いるにつれて葉をつけることすら困難になるという。 神の授けた水ならば納得できる。ファイは生命の恵みをもたらす神、だからこの森に住む生き物は、生命力の勢いをみずみずしいまま保てるのかもしれない。 「『生命ノ泉』……そうか、これが父上のほしがっていた泉か」 と、不意に兄の口から呟きが漏れた。予期しなかったその言葉に、ケリィは虚を突かれて戸惑った。 「え、……」 「ロザリー、父上は君に何も教えてくれなかったのか」 ケリィを見やるメルトの眼差しに、鋭い光が灯る。 「父上は何とおっしゃって、君に依頼をしたんだい?」 「この国がより発展するには、眠レル森を潰して居住区を広げる必要があると……」 機ノ国の人口は爆発的な勢いで増えている。にも関わらず、人間の居住区域はあまりにも狭い。このままではいずれ、国の成長が止まってしまうだろう。ゆえに父は自分に森ノ民の抹殺を依頼し、森林を焼き払って新たな居住区にすると言ったのだ。 そう告げれば、シェーラが痛ましそうに眉を寄せた。その表情はケリィに対して向けられたものなのか、それとも父に対するものなのかは分からなかった。 「なるほど。私に最初言った建前と大体同じだな」 ケリィの言葉に意味ありげに呟き、兄はシェーラへ目配せする。シェーラは一度うなずくと、ケリィに視線を戻した。 「父上は、眠レル森の奥地にあるとされる『生命ノ泉』をほしがっていたのよ。でも、いくら交渉を重ねても、森ノ民の長……つまり先代の巫女様であるセレン様は承諾してくださらなかったそうなの」 森ノ民が長い年月を生きるには、『生命ノ泉』の水がなくてはならないという。その効力が森の外にいる人間に作用しなかったのは、雨水や地下水に混じって薄まるからだろう。 そこでふと、ある考えに思い至る。もしもこの泉に宿った神の力が、木々の寿命に耐えうる長寿の恵みだとするならば―― まさか。嫌な予感が頭の内側を駆け巡る。そんなはずはないと否定しても、恐ろしい考えは拭い去れない。ケリィの予感に気づいたのか、メルトが苦々しく言葉を繋ぐ。 「父上はそのことについて、常々こぼしていらっしゃった。不審に思って問いただしたら、『生命ノ泉』のことに関して話してくださったよ。それから、私に一番最初に言ったことはすべて建前だった、ともね」 全身の血が一気に引いていく。踏みとどまれずに一歩よろめく。思考が働かないにも関わらず、聴覚だけ異様なまでに研ぎ澄まされていた。 「そんなときに起きたのが、あの忌まわしい事件だった――邪魔者を一匹取り逃した、これでは手に入れることができないではないか――タンタル爺から聞いたわ。父上は、確かにそうおっしゃったって」 「では」 ユプシィの声が、虚空に投げられた。大きな瞳を瞠目し、愕然とした様子で言葉を継ぐ。 「私の母上は、森ノ民たちは、その要望を拒んだために……皆殺しにされて焼かれたというのか」 ケリィもまた愕然としていた。メルトに対して言ったものが建前だというのならば、自分に対して語った国の未来も建前だということになる。 「自分のほしいものは、どんな残虐な手を駆使してでも手に入れようとする。あの方はそういう人なんだ……そうしていながら、自分の罪は立場で握りつぶすか、他人への責任転嫁で無理やりにでも逃れる。自分の主張が聞き入れられなければ、癇癪を起こして言う事を聞かせるんだ」 呻きにも似た声の後、メルトはケリィを真っ直ぐに見つめてきた。普段は穏やかな双眸は、硬い決意を秘めた色が濃く宿っている。 「だが、いつまでもそうでいられるわけがない。このままでは国が死ぬ――明日、シェーラと父上を説得してみる。これで聞き入れてもらえなければ、最終手段に出るしかない」 どういう意味なのか問い返そうとしても、声が喉に貼り付いて出てこない。ケリィは黙ったまま、先を促すしかなかった。 「ロザリー。頼みがある――君はこの国には無くてはならない存在だ。君だけは絶対に生きていてくれ。たとえ我々が命を落としたとしても、悲しまずに前を向いて国を導いていくと約束してくれ」 「ユプシィちゃんにもお願い。ロザリーとユプシィちゃん、それにあのお二方にも……どうか生きていてほしいから。だから、どうかそのときは泣かないでちょうだいね」 まるで死地に赴く騎士のようだと、ケリィは唇を噛んで思った。自分が死ぬことを予期しているくせに、哀しみも家族への思いも一切捨てていく。そんな彼らのような、清々しいくらいに穏やかな顔だった。 ユプシィはそんな二人を眺めていたが、やがてうつむき、本当に小さな声で呟く。 「みんな生きていなければ駄目だ。もしもなんて無い」 一人生き残った少女に、この約束は辛すぎる。それは自分にも同じこと。無言で胸に顔を押し付けてくるユプシィを抱きしめながら、二人をにらみつける。 「そんな約束、私は認めませんよ」 「ロザリー」 「私の家族がこれ以上いなくなるなんて、そんなの耐えられない。だから、約束は果たせません。兄様にも姉様にも、そのずっと先まで、私が戴冠する瞬間を見ていてほしいんです」 ユプシィは体を斜にして手を伸ばし、メルトとシェーラの手を握った。膝をつく二人の背中に左右の腕を回し、黙ったまま目を閉じる。 「命は巡る。だが、お前たちがお前たちである時間は一度きりしかない」 彼女の声はそれきり途絶え、ただじっと二人を抱いていた。二人も何も言わずに、ただ幼い腕に抱かれている。ケリィは小さな温もりを腕の中に収めながら、兄姉の横顔に散る木漏れ日を見つめていた。 風の音だけが遠く、海の波のように寄せては返していた。 重く告げられたその事実に、メルトが城壁を殴りつけて歯噛みする。 「馬鹿な!! そんなことがあっていいものか!! 父上は一体何を考えていらっしゃるのだ!!」 「落ち着け、王子さん」 ニップがメルトの肩を押し留めても、メルトの怒りは収まらないらしかった。 あの後――二人の王族を、ニップとアイビスと共に城へ送り届けた際、迎えに出たのはタンタル爺その人であった。年老いた頬は幾分かやつれてはいたが、比較的元気そうである。柔和そうな顔も、口元に蓄えられた豊かな白ひげも、曲がった背中も昔のままで、ケリィは彼に世話になった昔を懐かしむ。 しかしそれもつかの間、ケリィの姿を見て和らいだ表情もすぐに消えてしまった。理由を尋ねるメルトに対し、タンタルは答えをためらっていた。何度も繰り返して促した結果、出された言葉は王の宣言だった。 『これより七日七晩を経た後に、眠レル森を焼き払う。本日の夕刻までにハンターが報告をしなかった場合、失敗したとみなして厳重な処罰を与える』 振り仰ぐ空は、既にミューの連れてきた夜の色に染まり始めている。これではもう夕刻とは言えない。タンタル爺が答えをためらったのは、王からの宣告を伝えても手遅れだと悟ったからだろう。 聞けば、宣告が成されたのはついさっきらしい。ケリィの事情を知るタンタルは反対したが、王は一向に聞き入れなかったという。 「これは以前から決めていた期日、破れば罰を受けて当然だ、と……」 期日を定められていた記憶は無い。七年前、任務を告げられたときはおろか、結界が解けた後も、連絡らしい連絡はただの一度もなかった。つまり最初から、成功して帰るという選択肢は用意されていなかったのだ。悔しげなメルトの横顔を眺めながら、ケリィはどこか静かな心持ちで思った。 彼を責めたところで、今更事態が変わるわけでもない。それにもし伝えに来てくれなかったならば、知らないうちに森を焼かれ、処罰を受けることになったのだ。覚悟が決められ、そのときを待つ余裕ができたことだけでも感謝しなければならない。 力になれず申し訳ない、と頭を下げる家臣に対し、ケリィは礼の言葉を伸べる。 「大丈夫だ。ありがとう、タンタル爺。私のことを心配してくれたんだね」 「ありがたきお言葉、爺は嬉しゅうございます。して、そちらのお二方は」 ニップとアイビスが自己紹介をする傍らで、ケリィはかつていた城の影を見上げた。処々にともされた灯りが、黒く塗りつぶされた城壁を途切れ途切れに浮かび上がらせている。 恐らく、処罰とは名ばかりの死刑になるだろう。身許も分からないくらいに焼殺されるのかもしれない。そうして、何事もなかったかのようにギルドへ遺骸を提出する。ハンターの死亡届はギルドが提出しなければならない。誰にも知られていなかった王位継承者ロザリーの存在も、ハンターケリィの存在も、そこで初めて完全に消えてしまうのだ。 父がハンターに紛れるように指示したのは、捨てる前に有効活用するためだったのか。それとも事故や事件での巻き添えを狙ったものなのか。どちらにしたところで根底は変わらない。自分がいたからこうなったのだから。 「どこまでも私は、あの人にとって邪魔でしかなかったのだな……」 自嘲気味に呟くケリィの肩に、タンタルの乾いた手が置かれる。 「姫様、そのようにご自分を責めるのはおやめなさい。亡くなった母上が聞かれたら悲しまれます。それに姫様は、おいくつになっても爺めの大事な孫娘でございます。こんな老いぼれでなければ、国王様の監視がなければ、今すぐにでも姫様の元に駆けつけますのに!」 そう言ってケリィを抱きしめ、年老いた記録書記官は嘆くのだった。 「うん。大丈夫、もうこんなこと言わないから」 そんなタンタル爺に対し、ケリィは答えを返す。 今はもう、昔のように自棄になったりしない。自分にはこんなに愛してくれる人たちがいる。支えてくれる、大事な家族がいる。だからもう迷わない。 そっと老いた腕から抜け出し、自分を今まで慈しんでくれた老人に笑顔を向ける。 「また来るね。今度来るときは、爺特製のシュレの実ジュースを瓶一杯ほしいんだ。爺の作るジュースは、市で売られているものよりもずっと美味しいから」 「それなら、みんなでお茶会を開きましょ。ユプシィちゃんのところで飲めば、きっと格別よ。爺の淹れるお茶も最高に美味しいの。ユプシィちゃんにも、爺のこと紹介してあげたいわ」 シェーラが微笑みながら手を合わせる。メルトもようやく表情を緩め、「それは名案だ」と笑った。 「爺さん、ついでに俺らにもそのジュース分けてくれや」 「あたしね、シュレの実のジュース大好物なの!」 「もちろんでございます! この老いぼれ、今度までに飛び切り美味しいものを作って、美味しいお茶を選んで待っております! 待っておりますから……ですから、どうかご無事で……」 喜色に満ちた顔が涙で歪む。言葉も詰まり、最後はただただ咽ぶだけだった。 「うん。約束だよ」 思わず目頭が熱くなる。涙をどうにか堪えて手を握り締め、ケリィはタンタルにうなずいてみせる。そしてその骨ばった手が、いつの間にか自分のものよりも小さくなっていることに、言いようもない切なさを覚えるのだった。 (初回アップ:2007.10.22) |
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