深キ森ニ生キル者

八章


 あれから、七日。父王が森を燃やすと公言した日がやってきた。
「六日前、王子と王女が大病にかかったって知らせがあったよ」
 夜明け前の森は、時折吹く風にかすかな葉擦れの音を散らしている。硬い幹の感覚が心地よい。座り込み、背後に息づく確かな命を聞きながら、ケリィは隣の娘に語りかける。
 あまりにも急すぎる知らせに、嘘だと二人の友人は憤っていた。無理もない。つい前日まで元気でいた人間が、次の日いきなり重度の病にかかるはずがない。可能性は無いと言い切れる証拠はない。だが自分の知る限り、兄も姉も健康そのものだった。
 思い当たる理由は一つきり。
「父上の説得に失敗したのかもしれない」
 そして、父王の怒りを買ったのかもしれない。己に反抗する者は、決して許しはしなかった父のことだ。いくら可愛い子どもであったとはいえ、さすがに真っ向対立されたとあれば、逆上もするだろう。
 徐々に空が白く染まってゆく。頬に朝露が零れ、顎の線に沿って伝っていく。その冷たさが、緊張して火照る意識をわずかに落ち着かせた。
「……アイビィとニップは来ないよ」
 何かを言いかけたユプシィを遮り、ケリィは優しく微笑んでみせる。
「私が、来るなと言ったんだ」
 最初こそ、友人たちは反対した。一緒に阻止してくれると意気込んでいた。しかし、国土の大半を占める森林部を焼くとなれば、ほぼ確実に国の近衛兵全部隊が来ることは想像できる。くわえてタンタルの話では、今回も王が自ら兵を率いるとのことだ。
 もしも王の目に二人が留まれば、自分に加担した者として処刑される。近衛兵は選りすぐりの実力者ばかりで構成された精鋭部隊、捕らえられたならば抵抗することは容易ではない。
「巻き込みたくなかった。大切な人たちだからこそ、ここで終わってほしくなかった――」
 口に出してから、ケリィは自然に苦笑する。
「――嫌だな。結局、兄様と姉様と同じことを言っている」
 ユプシィの目が、悲しげに細められた。幼い手のひらが重ねられ、安心させるように撫でてくる。
「でも大丈夫。絶対に帰って来いって、何度も約束させられた。だから大丈夫、……大丈夫」
 声が震える。体も同じように震えている。情けなさに、少しだけ涙腺が緩んだ。
 今まで流されるままになっていた自分が、自分の意思で、自分の志を貫こうとしている。反抗できずに従ってきた相手に、初めて逆らおうとしている。
 怖い。こんなに怖いことだなんて、知らなかった。ケリィは思わず、ユプシィの手を両手で握り締める。なめし革の手袋を通じて感じる彼女の手は小さかったが、不思議と全身が包み込まれている気がした。
「大丈夫、これは私が決めたことなんだ……ここを守るって、決めたんだ……私はもう、都合のいい人形なんかじゃないんだ」
 足音がする。規則正しい、一呼吸すら乱れない整えられた軍隊の足音が、風のざわめきに乗って聞こえてくる。暁の光が木々を鮮やかに照らし始める中、それは徐々に近づいてくる。
 もう後戻りはできない。もう逃げることはできない。だが後悔はしたくない。そのために、自分はここに来たのだから。
 『銃』を二丁構え、息を詰めて立ち上がる。今一度、ユプシィの顔を見た。美しい双眸は、今の空を映す澄み切った色を宿していた。
「ユプシィ、私たちも約束を交わそう。私はこの森を守ってみせる。だからここで待っていて」
 少女は少しの間沈黙し、やがて静かに首を振った。
「私も行く」
「駄目だ」
「私だってみんなと共にありたい。だから行く。もうこれ以上、この地で血を流させたくない。守られているだけなのは嫌だ」
 言外に込められた強い思いに、ケリィは胸を突かれた心地がした。
 青海石に封じ込められ、眠りについていた少女。死して木に変じた巫女の娘。森を守護する民の、最後の生き残り。
 後悔をしたくないのは、自分だけではなかったのだ。
「……ユプシィ」
「もうこれ以上、待っていることは嫌だ」
 静かに呟く面は無表情であるのに、瞳だけが不安げに揺らめいている。普段は鏡に似た表面に、涙の膜がたたえられていた。
「……わかった。でも、もし危なくなったら逃げてくれ。私が駄目でもユプシィが無事なら、森はまた息を吹き返すだろうから」
 幼い娘は、大人びた口調で答える。
「善処しよう。だがケリィ、逃げるときはお前も一緒だ。生きていなければならない――命を捨てるようなことだけはするな」
「心に留めておくよ」
 戦いの気配が、間近に迫っていた。

 森林部と居住区の境に広がる『境地』にて、ケリィは七年ぶりに父と対峙した。薄い肩を張り、背筋を伸ばして馬に乗る父の姿は、以前よりもずっと覇気がなく思える。
 王の背後に控える軍隊からは、物音一つ立たない。諸所に見える巨大な砲台だけが、黒い胴体を朝陽にさらしている。
 ただの砲台ではない。機ノ国の技術を結集して作られた、火炎を吐いて周囲を焼く大砲だった。軍隊が手にしている銃も、通常の銃弾の他に焔を噴射するよう改造してある。
 本気でここを燃やすつもりなのだ。ケリィは改めて、父の意向が変わらないことを知った。
 それでも、もしかしたら考えを変えてくれるかもしれない。一抹の希望を抱きながら、父王に訴える。
「父上、どうか話を聞いてください!」
「ロザリー……この出来損ないめ、役立たずめ、人間の屑めッ! どの面を提げてここへ来た! 恥を知れ!」
 王は眦が割けんばかりに目を剥き、しゃがれた声を張り上げる。逃げたいと怯む心を奮い立たせ、ケリィは奥歯を食いしばった。
「私は一国の主だぞ! 貴様、どうなるか分かっているだろうな!」
「この森は、森ノ民は、機械から流れ出た毒素を浄化してくれているのです! 眠レル森を燃やせば、森ノ民を殺せば、この国は本当に死んでしまいます! どうかお考え直しください! 兄様も姉様も、そのことを――」
「黙れ、黙れ、黙れえッ!!」
 王の顔色が、怒りのあまり朱に染まっていく。髪を振り乱し、口から泡を飛ばしてなお怒鳴る。
「メルトもシェーラも、そんな戯言にだまされおって!! 私が、私だけが正しいのだ!! 私の言うことだけを聞いていればよかったのだ!!」
 その言葉に、ケリィの思考に衝撃が走った。頭の中に直接雷が落とされた気がした。手先から徐々に体温が下がっていく。足先も痺れて感覚が無かった。唇も顔面も強張っている。
 何とか腹の底に力を込め、震える足を踏みしめて問いかける。
「父上、兄様と姉様は……今は、どちらに……いらっしゃいますか」
 その様子が父王の癇に障ったのか、馬の上で苛立たしげに拳を振り上げた。馬が嫌がっていななくが、全く意に介さない。
「あんな奴らはもう私の子どもではない! 手塩にかけて可愛がってきてやったというのに、私に反抗したから折檻して閉じ込めてやったのだッ! 言うことを聞かずに反抗する奴らなど、利用してやる価値もないわ! せっかく『生命ノ泉』の力で勢力を伸ばせると思ったのに、裏切られた!」
 ――何と言うことだろう。ケリィは半ば絶望にも似た気持ちで思う。
 兄メルトは一国の主に、姉シェーラは他の国へ嫁ぐために育てられた。本当の立場を偽ってまでそうしてきた理由は、お気に入りだからというだけではなかったのだ。
 退位した後でも、自らの意思で国を動かすことができる。娘を通ずることで他国を支配することができる。『生命ノ泉』の力を持ってすれば、その勢力を保ったまま拡大することができる。
 そんなことのためだけに、兄も姉も自分も利用されていたなんて。ケリィの全身に、言い難い激しい感情が駆け巡った。
「私は……私たちは、あなたの都合のいい人形じゃない! 今ここに生きている、自分の意思で生きて動いている人間なんだ!!」
 そんな身勝手な話があるものか。そんな身勝手な理由で、大事にされたり簡単に捨てられたりしてもいいものか。そんな身勝手な主張で、たった一度しかない『自分』の生きる道が決められていいものか。
 腕の『銃』を王に向け、ケリィは全身の力をもって叫ぶ。
「あなたの人形、出来損ないのロザリーはもういない!! 今の私は、ハンターケリィだ!! 私は私の意思に従って、この森を守る!!」
「この出来損ないがぁ……! やれ、やってしまえ!」
 一斉に銃口が向けられた。この数では捌ききれない。避けることすらできないだろう。だがこのままでは、後ろにいるユプシィまで巻き添えを食らう。
 逃げろ、と声をあげる、その直前に父王が腕を振り下ろした。
「私に逆らう者は皆始末しろぉッ!!」
 構えられた銃から火が吹いた。ユプシィに力いっぱい当身を食らわせる。自分も倒れこむが、ぐずぐずしているわけにはいかない。殺すことはできないが、せめて相手の攻撃を止めなければ。
 体勢を立て直そうとした瞬間。影が、よぎった。
 自分の前に、影が二つ。広い背中が、華奢な背中が、大地を示す柔らかな茶の髪が、見慣れた姿が、先日まで一緒にいた人たちが、
 銃弾を体に受けて、倒れた。
「あ、――」
 頭の中が真っ白になった。声が出ない。兵士たちの間にも、にわかに動揺が走る。
「嘘、だ」
 そこに横たわっていたのは、

「に、兄様……姉様……」

 捕らわれていたはずの王子と王女であった。

(初回アップ:2007.11.11)

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