深キ森ニ生キル者

九章


 大地に染み入るそれは、恵みの水ではなく人間の体内を巡るもの。じわじわと面積を広げていくそれを認めたくなくて、ケリィは小さく頭を振る。
 脳に直接打撃を加えられた気がした。目の前で起きた出来事は、全部自分の夢なのだと思いたかった。
「ロザリー」
 膝をつくケリィの腕に、シェーラの細い指が触れる。
「泣かないで、ロザリー。大丈夫よ、少しの、間、お別れする、だけだから」
 優しく笑む姉の顔がにじんで見えない。艶やかな髪が紅に沈んでいく、それだけは分かるのに。
「また、会える。魂は、巡るのだ――だから、悲しむこと、は、ない」
 力強く言う兄の顔がにじんで見えない。白いマントが紅く染まっていく、それだけは分かるのに。
 いつも通りの声なのに、いつも通りの笑顔なのに、どうしてこんなにも涙が出るのだろう。
「だから真っ直ぐ前を見て」
「自分の選んだ道を歩いていきなさい」
 二人の言葉が重なり、途切れる。瞳は遠くを映したまま、二度と光を宿すことはなかった。
 ケリィはただ嗚咽をかみ殺して、体温を失った兄姉の手を握り締めていることしかできなかった。透明な沈黙が一帯を覆い、誰もが皆凍りついたように動かない。
 それを砕いたのは、他ならぬ父王であった。
「フン! 私の言う事を聞かないからこうなるのだ! 役立たずめ、死んで当然だ!」
 悲しみに浸された思考の芯が、重く冷たく痺れた。
 実の子どもが死んで当然? 自分の血を分けた子どもが死んで、当然? 利用価値がなくなったから死んで当然? ならば兄も姉も、自分も、一体何のために生を授かったというのだ!
 ケリィの内側で強い感情が爆発した。
「ふざけるなああああぁぁぁッ!!」
 激情のままに『銃』を乱射する。足や腕を撃ちぬかれ、兵士たちが次々とうずくまっていく。父王の騎乗する馬にも当たったのだろう、王が振り落とされた。撃った兵士の上に落ち、下敷きになった兵を罵ってからこちらをにらみつけ、怒りに顔を歪めてわめき散らす。
「何をしている!! 撃て、撃て、撃てえぇぇっ!! 私の敵だ、私の敵だ、王の敵だぞ!! さっさと殺せえぇっ!!」
 応戦しなければ。構えるケリィの視界の隅で突然、白い布地が踊った。ユプシィだ。こちらに来ようとしている。森の木々がざわめいている。穏やかな普段のそれではない、まるで威嚇する獣のような鋭い気配が立ち込めている。
 まさか加勢する気なのか。この大軍を前にして、たった一人で立ち向かうつもりなのか。
「森ノ民だ!! 森ノ民だ!! 殺せ、殺せ、殺せえええぇぇっ!! 砲撃隊何をしている、砲撃しろ、あの小娘もろとも焼き払えッ!!」
 王が怒鳴る。砲撃台が怒号にあわせて傾き始めた。
「ユプシィ、来るな! 逃げろぉっ!!」
 声を張るが、ユプシィは止まらない。衣の裾を翻して、一心にこちらへ駆けて来る。
 焔の弾が撃ち込まれれば、木々の化身たる少女とて無事ではすまされない。彼女がいなくなれば、この国は死んでしまう。メルトとシェーラが命を懸けてかばった森が、大地が、本当の意味で死んでしまうのだ。そう思った瞬間、ケリィは走り出していた。
 風のうなる音が耳を過ぎていく。足下を追うように銃弾が叩き込まれる。太ももを鈍痛が貫いた。足がもつれそうになる。砲台は威力がある分だけ動作が遅い。きっと間に合う。流れていく生温かいものに滑りそうになる。わき腹に熱が生まれた。まだ立ち止まれない。まだだ。遠い。もう少し。
 守らなくちゃ。ユプシィを守らなくちゃ――銃撃がほんのわずかな間だけ止んだ。その間だけで十分だった。
「ユプシィ、伏せろおぉぉっ!!」
 ケリィは渾身の力で叫び、ユプシィの前に滑り込んで両腕を広げた。
 王の振り上げられた拳が見え、次いで激しい衝撃が全身を襲う。痛みよりも熱が埋められている感覚が強かった。視界が衝撃にぶれ、体中から急速に力が抜けていく。
(兄様、姉様、ごめん――せっかく、助けてもらったのに)
 肺が痙攣して苦しい。喉に塊が詰まっているようだ。下を向いて吐き出せば、靴先と胸を真っ赤な液体が汚していく。
(アイビィ、ニップ、タンタル爺、ごめんなさい。帰れなくなっちゃった)
 ふらつく足に何とか力を込め、倒れないように大地を踏みしめる。もはや足裏の感触すら遠い。
(ユプシィ、ごめんね。命を捨てるようなこと、しちゃった……)
 霞んでゆく景色の先で、大砲の身が鈍く輝いている。あの口から焔が吐かれ、自分は焼かれる。
 だが、こうして彼女の前に立っていられれば、少しの間だけは盾になれるだろう。その間にでもどこかに逃げてくれればいい。自分の人生の最後を、自分の意思で締めくくることができた。これ以上何も望むことは無い。父の命令に、自分の意思で反発した。それだけで満足だ。
 ケリィは薄く、口元を緩めた。もはや何も見えない。何も聞こえない。いつの間にか頬に添えられたユプシィの手、その温もりだけが、暗く塗りつぶされていく意識の中に強く残された。



 森ノ民を後ろにかばったまま、ハンターの娘が不敵な笑みを浮かべる。が、彼女の顔をよぎった感情の一片はすぐに消え、やがて膝を折って引き寄せられるかのように大地に横たわった。あとに残るのは、無力そうな一人の幼い少女だけ。王が血走る眼を見開いて地団駄を踏み、忌々しげに歯ぎしりをする。
「あの化け物め、まだ生き延びていたか! ええい、どこまで私の邪魔をする気なのだッ!! 砲撃隊、何をしているか!! 早く焼き払え!! あいつを殺せ!! 遅い遅い遅いッ!! 早くせんかぁっ!!」
 口から泡を飛ばして金切り声をあげ、腕を振り回し、それから少女をにらみ殺さんばかりに凝視した。
 少女は大きな瞳を見開き、倒れた娘の向こうから王を見据えている。にらむわけでもなく、しかし確かな怒りを鏡に似た双眸の表面ににじませて佇んでいる。
 少女は一つ呼吸をし、王の甲高い罵りの合間を縫って言葉を発した。
「聞ケ、大地ヨ。我ガ声ヲ聞キ声ニ答エヨ」
 ほんの小さな音であるにも関わらず、それは強烈な波となって張り詰めた空気を震わせた。兵士たちは戸惑いはじめ、手にした銃を握り締める。誰もが今一度警戒しようと首を巡らせたとき、ある一人が銃を放り出した。
「う、うわあぁぁっ!? 俺の銃がっ!」
 大地へ落とされた鉄の塊から緑が芽吹いた。と思えばみるみるうちに苔がむし、蔦が絡まる。鉄で出来ていたはずの銃身は樹木の表皮で覆われ、瞬く間に一本の若い木に生まれかわった。
 砲撃隊の人間が、悲鳴をあげて砲台から飛び降りた。黒光りしていた砲台も、苔と雑草に侵食されていく。音すら立てずに腐食して崩れ、巨大な火器は使われないまま小さな草の山となった。
 それを皮切りに、次々と銃が投げられ始める。露出していた土はたちまちに草地へ代わっていく。王が焦って怒鳴り散らすも、もはや聞いている人間は一人としていない。
 最後の火器が深緑に埋もれた刹那、少女の両腕が掲げられた。突風が巻き起こり、木々の葉を強く揺さぶっていく。きらめく碧い燐光が陽光と共に降り注ぎ、次いで少女が朗々と声を響かせた。
「聞ケ、コノ地ニ生マレシ子ドモラヨ!!」
 風は声を届け、運んでいく。風の女神によってもたらされた少女の言葉を、すべての民が聞く。
「我ハ深キ森ニ生キル者――我ハコノ地ニ根ザセル神ノ代弁者!」
 ある者は神の降臨だと歓喜に咽び、ある者は兵を率いて森へ向かった王の身を案じ、ある者は一体何が起こるのだと右往左往する。
「我コレヨリ穢レタル地ヲ清メン」
 しかし人々の多くは、姿見えぬ神の代弁者に敬意を払い、沈黙を守ったまま耳を澄ましていた。道行く者は足を止め、家屋の内にいる者は外に出て、風が運ぶ少女の声を受け止める。
「汝ラノ命育ミシ大地ヲ抱キ」
 やがて起こる小さな揺れは、これから起こるだろう『浄化』の時を示していた。揺れは徐々に激しくなり、道の下で大きな流れがうごめいているのすら分かるほどに大きくなっていく。
「シバシ彼ノ叫ビニ耳ヲ傾ケヨ!!」
 そして時は訪れた。
 老人も子どもも男も女も、人間も半獣も外からの旅人も、ハンターも職人も商人も兵士も皆大地へ身を伏せ、生命の力強い奔流がうねる衝動を全身で体感する。己も昔この中にいたのだという漠然とした確信を抱きながら、彼らはひたすらにすべてが終わるのを待った。
 ただ一人――機ノ国王ネオを除いて。

(初回アップ:2007.11.22)

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