龍の血脈
七
男性にしては幾分か細い腕に、包帯を巻く指が震える。静かにそこへ注がれる視線に、柚江は逃げ出したい思いに駆られていた。 「ご、めんなさい、……ごめんなさい、來以(らい)様……」 「なぜ貴女が謝るのです」 目を離さないまま、彼は淡々と言葉を落とす。 「本家の龍を護ることが、我ら分家の務め。私はその役目を果たしただけです」 「それは、神威様とお父さんが……私を護るようにと言ったからですよね」 勝手ににじんでくる涙を袖で拭いながら、切れがちになる言葉をかろうじて繋いでいく。 「それが私たち分家の使命ですから」 彼はただひたすらに淡々と、事務的な返答を返すばかりだ。 龍の家には分家があり、六の家と五の守人で構成されている。守護の化身白龍の分家、錘楯(つむたて)家は守りに特化する。そして長たる天龍には分家が存在しない、ゆえに錘楯家が天龍を守護する。己が家の主を守り、己が一族の主を守る。楯を錘む家に生まれたこの青年は、それを当然と受け止めている。 分かってはいる。だから彼はこんな無茶をする。これが当たり前。こうなることが当たり前なのだから。けれど。 柚江の心はひたすらに痛む。血の色を透かす白い布に、酷い目まいを覚えた。 「來以様、……お願いします、もう無理はなさらないでください。私は平気ですから、……ですからどうか、天龍の家の護衛を」 「なりません。宗一郎様と神威様の言いつけです」 「お願いします、來以様……これ以上、私のせいでお怪我をされるのは」 「なりません」 懇願は、意思を秘める強い言葉によって叩き落される。柚江は包帯を巻く手を止めて、唇を噛み締めた。だから彼を呼びたくなかったのに。心の奥底で、柚江は父と長を責める。 人が傷つくのは嫌だ。誰かが傷つくのを見ることも、誰かを傷つけることも嫌だ。自分のせいで誰かが傷つくのは、どうしても我慢できない。今まで傷ついてきた父、父の介抱をしながら泣く母、怯えてしがみついてくる妹、顔も知らないのに血縁だと言い張る人たち。 原因は自分にあることくらい分かる。分かるから余計につらい。悲しい。それ以上に、誰も自分を責めないことがつらい。妹は自分を好きだと言って笑い、父は母に似て美しくなったと微笑み、母は父に似て凛としたたたずまいになったと嬉しげに言う。 (それなのに私は、何もできない……ただこうして、守られていることしかできない) 争いごとは嫌いだった。血を見ることは、もっと嫌だった。権力の素晴らしさなど、柚江には分からない。無力に守られている立場の一体どこに、親戚の人々は惹かれるのか。 龍だというだけで祭り上げられ、龍だということだけで当主の座に着き、守ってもらうだけの存在。一体そこに何の魅力を感じるのだろう。 「……私一人でも、何とかしてみせますから」 こぼれた独り言ですら、彼は聞き逃してはくれなかった。 「なりません」 「來以様、私は來以様が傷つく姿を見たくないんです」 「なりません」 來以の瞳には、強く鋭い光が宿っている。 「私は錘楯家の当主。主のために楯を錘がぬ護り人など、一体どこにおりますでしょう」 「ですが」 「柚江様。私は、否、我々はあなた方のために存在しています。我々分家の存在意義は、主たるあなた方龍をお守りすること。それすらを否定されたなら、我々はいかようにして生きていけばよいのです」 ひやりとした手が重ねられ、身体が硬直する。 「この傷は、私があなたを守りついたもの。私の誇り、私という存在の確認なのです」 まただ。柚江はそっと手を抜き、うつむいて目を閉じる。 ――実紀も咲も同じ女性なのに、ここまでされているなんて聞いていない。いや、そうする必要がないのだろう。咲はただでさえも強い人だ。天龍に生まれたからかもしれない。実紀の家は分家が縁を切っているから仕方がないとはいえ、同じ年とは思えないほどしっかりしている。 なのに自分は。自分はこうして甘えてばかりいる。誰も守れない。誰かに守られていることしかできない。守りたいと願うには、あまりにも非力で。 「……ですからどうか、私のことはお気になさらず。柚江様はただ、前を見ていてくださればいい」 誰も傷つかなければいいと願うには、あまりにも弱すぎた。 * とぼとぼと、学校からの帰り道を歩く。夕陽に影が長く伸び、柚江の足にあわせて揺れている。人影は見当たらず、オレンジ色に染まった道の上には柚江だけしかいない。 普段なら、毎回校門まで送ってもらい、授業が終われば同じようにして帰る。しかし、來以が護衛の役目を果たすのは月に数回、怪しげな人たちが来るときだけだ。 怪我をしてほしくない。これ以上自分をかばってほしくない。無理をしてほしくない。だから、今回の申し出を断った。父からは叱責を受けたが、柚江は頑なに拒否をした。 存在理由だという來以の言い分も、娘の身を案じる父の言い分も分かっている。 (……それでも、もう十分です……) 胸中で一人ごち、柚江は道に投げていた視線を空へ向ける。鮮やかな夕焼けに、少しずつ夜の気配が溶け込みつつあった。雲には既に蒼が混ざり、不思議な色合を帯びて流れていく。 (誰かを犠牲にして自分が無事でいるなんて、そんなのは嫌です……) できることならば、誰も傷ついてほしくない。誰にも苦しんでほしくない。白龍は守護の龍。本当ならば、自分こそ來以のようにならなければいけないのに。守護する立場でありながら、守護されている。それでは意味がないのに。柚江は唇を噛み締めて、不意に湧き起こる涙を耐えた。 飾りのような立場なんて欲しくない。ただそこにいるだけではなくて、誰かの役に立ちたい。それができないのは、今の立場に甘えていることに他ならない。誰かのせいではない。これは、柚江自身の心の問題だ。 自分が傷つくのを怖がって、一歩が踏み出せずにいる。だから、守られることしかできない。力が無いことを理由にしてはいけない。自力で問題を解決しなければ意味がないのだ。 (私に今何ができるか……ちゃんと考えなくちゃ) 制服の袖で涙を拭い、足を速める。 誰かの力を借りることなく、自分の力で自分を守れるようにならなければ。そうしなければ、誰かを守ることなんてできない。 (でも……) 速めた足は、再びスピードが落ちていく。 (どうすればいいんでしょうか……私にできることなんて、あるんでしょうか) もしできることがあったならば、こんなことにはならなかったのではないか。そんな考えが頭をよぎり、心の奥へと溜まっていく。 柚江にできることがないから、周囲が動くのではないか。何もできないから、周囲が全て片付けるのではないか。例えば自分の身を守ること。例えば家を治めること。 彼らは、できない者の始末をしているのではないか。やはり自分はどう足掻いても、何もできないのではないか――そんな気がしてくる。 足が止まった。柚江は足下の影を眺めてから、小さくうつむく。 (……やっぱり、そうなんでしょうか……) 昔から、柚江は気が小さかった。自分の言動に自信が持てず、何をするにもびくびくしていた。父は何度も叱咤してくれたが、それよりも長が小さく零した言葉が忘れられない。 『心根の優しい娘だが、いささか臆病すぎるな』 彼が何を言いたかったのか、今の柚江でも判断はできない。しかし、決していい意味ではないことくらいは理解できる。当主は家を治める身、時には自らの意思を通さねばならないことがある。事実柚江自身、父のそうした判断を見ている。反感を買うようなことがあっても、それに怯んではならないのだ。 柚江にはそれができない。相手を傷つけることを怖がるあまり、相手の意見を飲んでしまうことがある。自覚している。だから余計に、長の言葉が痛い。 (やっぱり私には……何もできないんですか……?) どうすればいいのだろう。溢れてくる涙を、今度は拭う気にはなれなかった。 涙の伝った頬に、ひやりと風が触れる。焦げた土の臭いが混じり、冷たかった空気が一瞬だけ火の気配を散らしていく。 「え……!?」 慌てて顔をあげ、柚江は周囲を見回した。日は沈みかけ、街灯が点滅し始める。相変わらず人の気配は無い。あるのはただ、静寂のみ。否、前方に佇む影が一つ。 薄暗くなる視界の中、光に照らされる金の髪が眩しい。十二、三歳くらいの、まだ幼さを残した少年がいた。爬虫類めいた光沢の瞳は、鮮やかな緑色を宿している。視線はひたと、柚江へ固定されていた。気配は複雑に混ざり合い、殺意と共に風となって吹き付けてくる。咲が話していた気配の持ち主であることは明確だった。 柚江はとっさに、手にしていた袋を握り締める。白龍家の宝刀『銀篭霧(ぎんろうむ)』、持ち主が望めば、龍の力は強靭な盾を織り上げるだろう。 いつ力を解放しようかと意識をめぐらせていた、その瞬間に別の気配が背後に生まれた。 「白い龍のお姫様、ちぃとばかり俺と遊んでくれよ」 振り向いた柚江の目に、電柱へ寄りかかる一人の青年が映る。 紅すぎる髪は電灯に照らされ、やや黄色味がかっている。男性にしてはやや小柄な、獣を思わせるシルエットをしていた。口元を嘲笑の形に歪ませ、少年とは異なる碧の瞳を細めている。腰にはベルトを二本つけ、見た限り四本の刃物をぶら下げている。 頭の芯がすっと冷たくなっていく。彼の全身から、濃く澱んだ血の臭いが流れてくる。そこから嗅ぎ取った死の臭いに、柚江は愕然とした。彼は今までに、数え切れないほどの人間を殺している。そうして繰り返し塗り重ねられてきた血と死の臭いが、彼に染み付いているのだ。 一歩後ずさった。血の臭いに当てられたのか、胸もとが苦しい。冷や汗が伝っていくが、それを拭う余裕はなかった。 青年は嘲りを深くして柚江に言う。 「まぁ、いいさ。だから選んだわけだしな」 まるで楽しんでいるかのような表情に、それ以上に放たれた言葉に、柚江はさらに身体を強張らせた。 「選んだ? 私を、ですか?」 喉に絡まる音を何とかしぼり出して、柚江は青年に問い掛ける。足が震えて、立っているのがやっとだった。 「そうだ。選んだ。一つ取引するためにな」 ちりちりと首筋が痛む。風に混じる火の気が、首の皮膚を焼いているのだろう。土の臭いに混じる血のそれが、言いようもない吐き気と目眩を引き起こす。 「と、……取引……?」 吐息がかすれ、声を出すのさえままならない。吐き気は酷くなる一方で、柚江は苦しさを堪えながら青年に問い返した。 「そう。取引だ」 楽しげに、彼は言う。 「ある人からの依頼でな。龍のサンプルが欲しいんだとよ。だからお姫様、あんたが必要なんだとさ。応じてくれりゃ、とりあえず取引の対価っつーことで、家族と一族にゃ手ぇ出さねぇでおいてやるよ」 では、応じなかったならば――柚江の脳裏に、最悪な状態が描かれる。それに小さく悲鳴をあげて、柚江はさらに一歩後ずさった。 「簡単だろ? お姫様は、俺らと一緒に来てくりゃいいだけだぜ」 さぁどうする。早く答えろ。答えなければNoとみなすぜ。凶暴な光の灯る双眸が、柚江にそう語りかけてくる。獲物を追い詰めた獣の瞳が、ただ柚江の答えを待っている。 思考がうまくまとまらない。刀を持つ手の感覚は既に無い。膝は震えて、今にも座り込みそうだ。 ここで彼らの言うことを聞けば、龍の家に迷惑がかかる。それだけは避けたい。 だけど。条件を跳ね除ければ、家族が殺されてしまう。他の一族も、酷い目に合うだろう。それは嫌だ。大切な人を失うのは嫌だ。もう自分のせいで、誰かを傷つけることなんてしたくない。苦しめたくない。迷惑はかけたくないけれど、やっぱり大好きな家族だから。大好きな人たちだから。 (大好きだから……守りたいんです……) 一つ、大きく呼吸をした。唇を引き結び、足に力を入れて地面を踏みしめる。刀を握りなおし、涙を振り払って相手を見た。 (ごめんなさい、皆さん) 咲や父はきっと怒るだろう。実紀や果蓮は呆れるかもしれない。禊は涙目でおろおろしてしまうかもしれないし、昇は困って呻いてしまうだろう。 でも、これが自分にできる精一杯のこと。非力な自分が、弱い自分が、臆病な自分が作る精一杯の盾。今まで何も返せなかった人たちに対する、せめてもの恩返しになればいい。 「その約束、絶対守ってください」 「取引成立、だな」 ごめんなさい、皆さん。 もう一度口の中で呟いて、柚江はゆっくりと瞳を閉じた。 (2008.2.11) |