龍の血脈


「そんなことがあったのか」
『ああ。後で改めて、咲から連絡が来るだろう』
 時計を眺めながら、実紀は受話器越しに、禊の報告を聞く。
 昨日、会合の後に果蓮が倒れた。そして東雲家へ運び込まれた後、何者かから襲撃を受けたという。厳密に言えば襲撃ではなく、強い気配を感じただけらしかった。
『いずれにせよ、このことは早めに知らせておかねばと思った』
「そうか……ありがとう、気をつける」
 ふと、禊が沈黙した。不自然に途切れた会話が気になり、実紀は相手に声を投げる。
「どうした?」
『いや……実紀』
 やがて、問いが口にされる。
『お前、どうした?』
「何がだ?」
『声が沈んでいる。それに……』
 言いたいことが、分かった。皆まで言うな、と、苦笑して遮る。心優しい彼のことだ、言えばきっと、自分のことのように悩むのだろう。
 ならば余計なことまで気を遣わせる必要はない。
「何、夢見が悪かっただけだ。お前が気にすることでもないさ」
『しかし』
「大丈夫だ」
 強い口調で、諭すように、実紀は繰り返す。
「大丈夫だから、心配するな。それよりも、自分のことと……果蓮のことを考えてくれ」
 学校へ行かねばならない時間だ。断りをいれ、受話器を置く。
「……あいつは、どうも敏感で困るな」
 そうして一人、肩をすくめた。

 実紀ちゃんのわからずや、と言うのは、あのときの彼女。
 どうして分かってくれないのだと、苛立つのは自分だ。
 怒りが体を貫いて、力いっぱいに叫んだ。
 大地が呼応して揺らぎ、そうして、

 櫛名田さん、と呼びかけられ、実紀は我に返った。クラスメイトが、ノートを持って立っている。セーラーカラーにかかる長い髪はこげ茶色、軽く脱色しているのだろう。
「ちょっと悪いんだけど、ここどうやって訳するのか教えてー」
 言っていることが飲み込めなくて、呆然とする。何をどうするのかすら、理解するのに時間がかかった。
「櫛名田さん? どうしたの?」
 返事が無いことに気づいたのか、相手が再度声をかける。
 そうだ、訳を教えてくれと言っていたのだ。次は古典の授業、席順で考えれば、彼女は一番最初に当たる。
「ああ……大丈夫。ごめんなさい。ここ一行の訳でいいのかな」
「ありがとー。櫛名田さん、命の恩人よ」
 無邪気にはしゃぐクラスメイトの言葉を、実紀はどこかぼんやりと聞いていた。
(……ああ、そうか)
 彼女は、彼女らは知らないのだ。自分の正体も、過去に犯した罪も。一切知らないまま、こうして普通の人間として接している。欺かれていることすら気づかないまま、彼女らは日々を過ごしている。
(そのほうがいいのかもしれない……誰も傷つけないままでいられるから)
 訳を教えてやりながら、胸の奥で呟く。
(龍の血が流れているせいで、それを知られたせいで、私は大切な者を失ったのだから)

 実紀はふと、足を止めた。帰宅途中、舗装された塀の下に、いくつもの花が供えられている。白い菊は、傾きかけた太陽の光を浴びて橙色に染まっていた。
 唇を、噛み締める。
『実紀ちゃんのわからずや!』
 この塀の下で行われたやり取りを、実紀ははっきりと思い出せる。彼女の顔も、口にしたことも、全てが昨日のように、脳裏にこびりついて離れない。
 白川深雪。享年、十二歳。死因、事故死。ブロック塀が地震により崩れ、下敷きとなった。
『いっつも思ってたんだけどね。実紀ちゃんはどうして、そんなうそつくの』
 あの日。事の発端は、この言葉だった。実紀は静かに塀を見上げ、回想する。
『うそじゃない。ほんとだもん。私は龍なんだもん、父上がそういったんだよ』
 信じてもらえたと思っていた。唯一の理解者だと、思っていた。クラスメイトから避けられていた実紀にとって、彼女はただ一人の友達だったから。
 日陰で育たぬ草花の訴えに従い、校庭の日当たりがよいところへ植え替える。しおれた花が、触れただけで息を吹き返す。大地に根ざすものたちの声を聞き、会話する。地龍として生まれた実紀には、それがごく当たり前の行為だった。
 父の言いつけどおり、誰もいないことを確認してはいた。が、幼い子どもに厳重な警戒ができるわけもない。校庭の隅にある小さな木を力で癒した、その瞬間を見られたのである。
 子どもは理解できない存在を異質とし、排除したがる傾向にある。次の日から、からかわれ、個人攻撃を受けるようになった。やられるだけになることが耐えられなかった実紀は、口答えし、場合によっては喧嘩を買うこともした。あまりにひどい喧嘩をしたからか、父が呼び出されたことも二度三度ではない。
 そんな中、かばってくれたのが彼女だった。学級委員だったこともあってか、彼女が注意して以来いじめは止んだ。
 自分の生い立ちを打ち明けたとき、彼女は最後まで聞いてくれた。気にしなくていいんだよ、とまで言ってくれた。信じてくれる人がいる。話を聞いてくれる人がいる。実紀には、それが嬉しかった。
 目を落とす。散らばる花弁が、アスファルトにわずかな影を落としている。水分が抜けたものは、風に押されてくるくると舞っていた。
『だって変じゃない。だいたい龍なんて、いるわけないでしょ。どうして実紀ちゃんが、いるわけないのになれるの? なれないでしょ』
『ちがうよ。私は龍なんだよ。ちゃんとそう言われたんだもん、実紀は世界を守るんだよって。ずっと言われてきたんだもん』
『ほら、またうそつくんだ。みんなにすごいって言われたいだけなんでしょ。それ、やめようよ。ずうっと言おうと思ってたんだ。だからみんなにいじめられちゃうんだよ』
 ――最初から嘘だと、思われていた。そこで初めて、気づいたのだった。
 当たり前だ。信じてもらえる証拠など、どこにもない。何と手前勝手な解釈をしていたのだろう。花を眺めながら、再び胸中で自嘲する。
『じゃあ……どうして、深雪ちゃんは私のお話、きいてくれてたの。どうして私の味方してくれたの』
『うそだって言うの、がまんしてたの。だって実紀ちゃん、いじめられてるから、かわいそうだなって。でもね、もう言わなくちゃだめだなって思ったの。こういうのは、委員長のおしごとでしょ』
 彼女自身の好意ではなくて、ただの義務感でかばわれていた。仲良くされていた。裏切られたと、あのとき思った。
『だから、うそつくのやめよう? そうすれば、みんなかげでこそこそ言うのやめてくれるよ』
 足を止めた場所が、ちょうどこの塀の前。回想しながら、実紀は軽く塀に触れる。硬くて冷たい感触が、指先から伝わってくる。
『どうして!? 本当のこと言ってるのに、どうして信じてくれないの!』
 体の奥から怒りが溢れて、怒鳴っていた。なぜ信じてくれないのか、なぜ分かってくれないのか。相手に対する理不尽な感情は、勢いのまま大地に呼応する。
『何で怒るの? 何で聞いてくれないの! 実紀ちゃんのわからずや!』
 怒りと悲しさとで、ほとばしる力の奔流にさえも気づかなかったのだ――
『もういい! 知らない、深雪ちゃんなんか、深雪ちゃんなんか大っ嫌いだぁぁ!!』
 叫んだ、そのとき。地鳴りがした。どん、と腹に響く音、それから近隣から上がる悲鳴、何かが割れる音。恐怖に顔を引きつらせた彼女、次の瞬間には――
 息が詰まった。咳き込んで、実紀はその場に座り込む。花が花弁を撒き散らし、傍らにかばんが落ちた。膝をすりむいたのか、鈍い痛みが皮膚に刺さる。
「ッ……う、っ……!」
 涙が止まらない。目をきつくつむっても、耳を塞いでも、記憶は容赦なく実紀を追い詰める。
 次の、瞬間には。
 彼女は腕だけを残して、瓦礫の中に消えていた。
 石の山から伸ばされた、動かなくなった小さな手。まるで救いを求めるかのように、天へ突き出されていた。叫びすら飲み込まれて、あとに残されたのは土のにおいだけ。
 この力は、人を殺すのだと。気づいた。人の命を奪ってから初めて、気づいた。気づいてからでは、遅すぎる。微動だにしない手、徐々ににじみ出す染み、地震の意味と、体内を巡る血の異常さ――
「実紀……? どうしたんだい、具合でも悪いのかい?」
 とっさに振り向いた。父が驚いたように身を引く。紅い日よけの唐傘が、夕刻の光を照り返した。
「……父上……なぜ」
 ここにいるのですか、と問う声は、かすれて潰れた。
「帰りが遅いから探しにきたんだよ。もしやとは思ったが、やはりここにいたんだね」
 傘を置き、両手を合わせて黙祷してから、父はこちらへ目を向ける。
「さあ、帰ろう。みんな心配しているよ」
 差し出された手を、乱暴に払った。
「嫌です」
「実紀」
 父が困惑したように眉を寄せる。
「……こんな血……なければよかったんだ」
 うめいたのが聞こえたのか。父の気配が、近くなった。
「こんな力があるから、私は大事な友達を殺したんだ」
 龍の血の持つ龍の力。瓦礫に消えた小さな命は、もう二度と帰ってこない。
「人間を殺すような血なんていらない! ……龍になんてなりたくなかった!!」
 隣にそびえる石塀を、渾身の力で殴りつけた。骨にまで、痺れが走る。過去に彼女を押しつぶした石の壁は、小娘の拳で崩れることはなかった。
「もう嫌だ! 次も私は繰り返すに決まってる!! ……今度はあの人を殺すに決まってるんだ!!」
 記憶の底をよぎる影を、いつ消してしまうかも分からない。幼い頃から憧れていた青年を、いつかきっと、彼女のように殺してしまうに違いない。
 大切な存在を傷つけるのなら、龍の血などほしくなかった。龍の力などほしくなかった。龍の命などほしくなかった。
「嫌だ、そんなのは嫌だ! ほしいならこんな命くれてやる!! 心臓だってくれてやるから……!!」
「もうやめなさい、実紀」
 静かに告げる父の態度が苛立たしい。聞きたくなくて、遮る。
「父上は中途半端だから分からないんだ!! こんな、こんな――」
 唐突に痛みが走った。反射で頬に手を当てる。痛みの後を追うように、熱がじわりと広がっていく。
 父がゆっくりと腕を下ろす。たたかれたのだと、気づいた。
「否定はしないよ、実紀。私は完全な龍ではない。だから龍の化身たるお前の苦しみや心の内側を、理解することはできないだろう」
 視界がにじむ。にじんで、澄んだ。新たな雫が、実紀の頬を伝っていく。
「私も、己の身を呪ったことがある。だが……生まれ落ちた以上、やり直しをすることはできない。私は中途半端な生き物として生まれ、お前は龍として生まれた。これはもう、決められたことだ。今更何を言ったところで、変更することなんてできない」
 徐々に蒼を混ぜていく空へ、父の柔らかく、しかし淡々とした声が溶けていく。
「お前がその血を嫌うのも、その身を呪うのも自由だ。しかしまかり間違っても、命を軽んじることだけは言うんじゃない。たとえお前が望まなかったとしても……果たして全てのものが望んでいないといえるのか、よく考えなさい」
 父の手が、再度差し出される。振り払うことはできなかった。
 立ち上がる。案の定、膝が擦れて血が出ていた。
「帰ったら消毒をしないといけないね」
 言葉の調子が元に戻る。傘を握る父の手元を眺めながら、実紀は最後まで謝ることができなかった。
 風がもう一度、落ちた花弁を吹き上げた。

(2007.3.30)

閑話-2- 

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