龍の血脈
閑話
-2-


 ぽつりぽつりと紡がれる兄の声を背に、梓喜はキッチンで茶の用意をする。
「龍は理を護るもの。長である天の龍は、自分たちが元の世に帰る前に、その他の龍の持つ力を楔に変えて、大地に穿ったといいます」
 来訪した彼女の目的は、この地に伝わる龍の伝承だった。民俗学を勉強する人たちにすれば、確かに興味深い場所ではあるだろう。
 盆に茶と茶請けを乗せて戻り、客人へすすめる。それから自分たちの前にも置き、座る。弟の広輝は、まだ帰ってこない。
 兄は淡々と語りながら、火の着いていない煙草をもてあそんでいる。わずかに指先が震えていた。
 緊張しているのだ。兄は極端なまでに人見知りをする。知らない人間と対峙することなど、レースのとき以外はあまりない。自分が近くにいるとは言え、やはりどうにも落ち着かないようだった。
 梓喜が勇気付けるように肩をたたくと、彼は一度視線を投げ、軽く口元を緩めてから目を戻した。
「それを拒んだのが、我が家の祖……炎龍です。炎龍は炎の化身、すなわち荒れ狂う破壊の化身。己の力を削って世の守護とすることは、無駄な行為に過ぎぬ。彼はそう言ったそうです」
「それは、どういう意味なのでしょうか」
「推測でしかないですがね……己の強い力を、脆弱な人間が扱い切れるわけがない、とでも考えたんでしょう。先ほども言ったとおり、炎は破壊の化身ですからね。何かしら、拒絶をするだけの理由とか激しい感情とか、そういうのがあったんじゃないでしょうか」
 時折兄は、紅い記憶を見るのだという。龍の社を通りすぎるとき、必ず誰かの記憶が流れ込んでくる。いつかそうぼやいていたことがあった。激しく荒々しい感情と共に、自分が誰かも危うくなるのだと。
 推測だと断ってはいるが、それよりは誰かの記憶を共有することで得られた実体験、と言えるかもしれない。実際にどのようなものなのかは、梓喜には分からない。ただこれが、兄にとってあまりよいものでないことだけは理解していた。
「ともかく、炎龍は護りの楔を穿つことを拒絶した。それどころか、これで意味もあるまいとでも言うように、この辺り一帯の平野を全て炎で焼き払った」
「だから、天の龍が?」
「これに怒り、また嘆いた天龍が、自らの体と力を持って封じたのだと、俺は聞いています。だから炎龍だけが、今も元の世に帰れずにこの地に留まっているのだとか。龍の血は今も続いてはいるけれど、それ以来稲葉の家に生まれる龍の子どもは、封じられた龍の魂に引きずられて、酷い場合は魂を喰われて肉体を取られてしまうのだといいます」
 話は終わった。その後は、二言三言会話を交わし、簡単な質疑応答をする。梔子は全ての記録を丁寧に書き込み、繰り返し確認をし、やがて立ち上がった。
「今日は本当にありがとうございました。無理を言ってしまってごめんなさい、遅くなってしまったので、これで失礼いたします」
「いや、いいんですよ。お役に立てたようで何よりです。暗いんで門まで送りますよ」
 兄が立ち上がる。
「兄貴、いいよ。俺が送ってく」
「いいって。話してたら何か平気になった。それに門までだし、いいだろ。そこで待ってろ」
 頭がつかまれ、押し止められた。やや腹が立つが、そこまで言うのならと座り直す。
 梔子がかすかに微笑んだ。それにしても、本当に綺麗な人だ。兄と並ぶと、いかに彼女の背が高いのかがよく分かる。学校では相当もてるのだろう。憂いを帯びた表情が、彼女に影のある美しさを添えている。実に美人だ。すれ違ったら目で追ってしまうかもしれない。
 つまり何が言いたいのかというと、
「……兄貴にはもったいない」
「どういう意味だよ」
 思わず呟いた言葉に、兄は盛大に肩を落とす。いつもの調子に、梓喜は胸中で安堵の息をついた。

 カップを片付け、茶請けを元の缶に戻し、ついでに軽く掃除をしてから、梓喜は時計を見た。もう二十分経っている。いくらなんでも遅すぎる。
「何してんだろ……遅いな……ったく、世話焼ける兄貴だよ」
 サンダルを爪先に突っかけ、庭に出る。周囲を見回して、社前に座り込む兄の姿を確認した。
「兄貴、何してんのさ」
 答えは無い。近づく。サンダルが玉砂利を噛んで音を立てる。やけに庭に響いた。
 灯に照らされて、腕輪が金色の光を放っている。まるで己の意思を持っているかのように、艶めいた輝きを帯びていた。
「兄貴……?」
 兄は、虚ろな眼差しをして座り込んでいた。社の真正面、消えない炎を収めた本堂がある。
「ちょ……兄貴、しっかり」
 前に回りこみ、目を見て肩をつかむ。兄は黙ったまま、どこかを眺めていた。瞳の色が、朱に染まっていく。
 社には近づけるな。梓喜は隻眼の長から託された唯一の伝言を、ふと思い出した。
(憎しみと怒りと、哀しみの炎にまかれて己を見失う……だっけ……)
 兄は長を嫌っている。自分の身を嫌っている。直雅を自分のせいで失ったと、悔いている。もしもそこに、自分に対する怒りや憎しみがあるとするならば、兄は一体どうなるというのか。
 思わず声を荒げ、強く体を揺さぶった。
「兄貴! 俺だよ、梓喜! わかる?」
 やがて数回瞬きをして、兄がようやく首を傾げた。
「……あれ? 俺、何でここに」
「知らないよそんなの。あぁもう、心配したじゃないか」
 腹いせに殴りつけてから、腕をつかんで背を向ける。
「ほら。もうすぐ広輝も部活から帰ってくるから」
「あ? そ、そんな時間!? やべ、ごめん」
 腕の温もりが、手のひらを通じて伝わってくる。それがなぜか、梓喜には悲しく思えた。
 足を止めて、振り向く。兄が驚いたように身を引く。
(……炎にまかれて、……)
 兄は今まで、自分を許してこなかった。きっとこれからも、自分を許せないのだろう。直雅を殺したという罪悪感を背負いながら、龍であることを厭いながら、やがて炎龍の炎に飲まれてしまうのか。
 梓喜は兄の胸に飛び込んだ。反動で兄がバランスを崩すが、倒れることはなかった。
「お、おい? しの、どした?」
 うろたえる声を黙殺して、梓喜は兄にすがりついた。昔から変わらない兄の広い背中、成長した今ではもう、腕がすっかり回せてしまう。
「……しの、ぶ……?」
「何考えてるのか知らないけど……俺は、兄貴がいなくちゃ嫌だからね」
 兄の手が、ぎこちなく頭を撫でる。
「……兄貴はいつもくだらないこと考えるから。あれこれ悩む前に、絶対俺に言ってよ。死ぬなんて……言わないでよ。俺が頼るの、兄貴しかいないんだからね」
 最後が少し、涙声になってしまった。誤魔化そうとして、顔を胸に押し付ける。
 兄はあぁ、と返事をした後、ずっと頭を撫でていた。どうせまた遠くのほうを見て、違うことを考えているに違いない。
 結局、自分には何もできない。これだけ兄が苦しんでいるというのに、自分はただ守られていることしかできない。手を差し伸べることもできずに、そばで見ていることしかできない。それが悔しくて、梓喜は腕の力を込める。
 灯篭の灯が、兄の長い髪を縁取って赤々と燃えていた。

(2007.3.30)

 

::: Back :::