龍の血脈


「ふぅん……天才少女、ね」
 細くたなびく煙越しにテレビ画面を眺めながら、昇が呟く。テレビでは幼い少女博士を混ぜての討論が行われている。こういう番組はあまり好きではないのだが、他に見るものがないから仕方がない。
「あ、ちょっと兄貴。灰こぼすでしょ。やめてよねそーいうの」
 口うるさく言いながら掃除をするのは、高校生になる弟の梓喜(しのぶ)である。返事の代わりに癖毛へ手をつっ込んでやれば、彼は心底嫌そうに顔をしかめた。
「ちょっと、やめてよマジうざいよ兄貴」
「そーか」
 払われた手を、そのままガラスの灰皿へ伸ばす。電灯の光を受けて、左腕の腕輪がちかりと光った。
「帰ってきてからテレビ陣取って煙草なんて、どこのオッサンだよ」
「知るかよ」
「辛気臭い顔してさ」
 梓喜が掃除機のスイッチを切る。余韻を残して消えていく音を確かめつつ、彼は事も無げに言葉を継いだ。
「どうせ神威さんに会ったからなんでしょ」
 疑問に見せかけた、確認。図星かよ、と昇は内心で舌打ちする。やはり血を分けた弟、隠し事は無意味だ。
「……別に」
 無駄だとは分かっていながらも、最後の悪足掻きをする。
「嘘ばっかり。顔に書いてあるもの」
 呆れた声が、気持ちよいほどに足掻きを両断する。所定の場所に掃除機を戻し、梓喜が昇の隣に腰を降ろした。議題は変わり、「幻想生物の現実における役目を考える」と銘打たれ、引き続き出演者が議論をする。
「兄貴は、さ」梓喜は静かに、口を切る。「……まだ、直雅(なおまさ)兄貴のこと……気にしてるんだね」
 懐かしい名前だと、昇はかすかに目を細める。それから窓辺に立ててある、一家の集合写真に目を移した。
 向かって右側に、母の肩を抱いた父。母の隣に梓喜が並び、まだ小さかった広輝(ひろき)の手を握って笑っている。広輝が真ん中だ。自分は梓喜のやや奥側、中央の左側に立っている。自分の肩に腕を回し、優しく微笑んでいるのが――
「……気にしねぇほうがおかしいだろ」
 短くなった紙筒の先端を、握りつぶす。鋭い痛みが走るが、それぐらいが丁度よかった。
「直雅は……俺が殺したようなもんだからな」
 昇のしぼり出した声はかすれ、どこか沈んだ音を持ったまま空気に溶ける。
 稲葉直雅。炎龍稲葉家に、当主の資格を持たぬ嫡男として生まれた男。昇の二つ上にいた兄であり、昇と共に『炎風の兄弟』と称された、有能なF1レーサーでもあった。
 あれは二年前だったか。兄弟同士の対決、初めて同じレースに出たその日、ゴール直前で起きた大惨事のことを、昇は今でも鮮明に思い出せる。多くのレーサーが爆発に巻き込まれて命を落としたというのに、自分はかすり傷一つですんだ。
 奇跡の生還、と言えば聞こえはいい。しかし昇はこの日ほど、己の身を、己に流れる龍の血を呪ったことはなかった。直雅が龍だったならば、世継ぎとしての資格を持っていたならば、こんなことにはならなかったのにと。
 龍の家は、家宝の刀剣を鞘より引き抜いたものが当主となる。通常ならば嫡男が、刀を抜くことができる。長女が生まれてより抜けたならば、その家には娘しか生まれない暗示である。
 ならば嫡男が刀を抜けず、次に生まれた男子が当主の資格を持っていたならば、それの示すものは一つしかない。
 直雅の葬式の時に投げられた言葉が、蘇る。龍の長は、あの鋭い紫電の瞳をわずかにすがめて、こう言ったのだ。
『――彼の仔は、最初からこうなる運命だった。お前が責任を感じる必要はない』
「運命、だってよ。……直雅は最初から、死ぬためだけに生まれてきたんだと」
 ソファの背もたれに腕を預け、昇は天井を仰いだ。蛍光灯の光が目に焼きつく。
「……俺が腕輪持って生まれてきたから……直雅は死ぬことになっちまったんだってさ……」
 手のひらで目元を覆った。ざらついた皮膚が目蓋を刺激し、かすかな痛みを覚える。そのまま目を閉じ、溢れそうになる水分を堪えた。
「兄貴……さ、前から思ってたんだけど」梓喜が小さく息をつき、言葉を繋げる。「自分のこと……嫌い? ……直雅兄貴が、あんなことになったから?」
「直雅のことだけじゃねぇよ。力のことも『運命』とやらのことも全部ひっくるめて――自分が大嫌いだよ」
 昇は煙と共に吐き捨てた。ついで立ち上がる。
「ちょ、兄貴? どこ行くのさ」
「……道場行く。何、気晴らしだ。湿っぽくなっちまったからな。ちっとは体動かさねぇと、ますますどうにかなっちまう」
 口角を軽くつり上げて笑い、昇は表へ出るためにサンダルを突っかけた。



 玉砂利を敷いた庭をゆっくりと歩いていく。解けかける髪留めを結び直しながら、昇は視界に入ったものに眉を寄せる。
 それは一見、古びた小さな稲荷のようでもある。朱塗りの本堂には大きな爪あとが残り、その周囲四隅を灯篭が囲っていた。本堂には昼夜問わず、決して消えない炎が灯っている。扉はよく見れば歪み、横へ二つに折れかけている。
 炎龍の社。長が言うには、世の理を保つ楔なのだという。同時にこの地は、天龍が暴れ狂う炎龍を封じた土地なのだとも、伝承として語られてきた。
「……チッ……嫌なこと思い出しちまった」
 一人で呻き、止まりかけた足を無理やり動かす。
 あの大きな爪あとは、他ならぬ昇自身がつけたものだ。直雅が死に、取り乱した自分が、長の言葉に逆上したときの傷跡である。扉が折れているのは、長が避けずに昇の爪を受け止めたからであった。避けることなど、たやすいことのはずなのに。
『私を傷つけることでお前の怒りが治まるならば、たとえ臓腑を切り裂かれたとしても構わぬ――私はそれだけのことをしたのだからな。その責任は、この身をもって果たす』
 呟くように告げられた声も、まるで抵抗しなかった屈強な体も、皮膚を裂いたときの感覚まで、生々しく蘇ってくる。それだけではない。自分のものでない「誰か」の記憶まで流れ込んでくる。荒ぶる激情と共に、乱雑に意識をかき乱して入り込んでくる――
 一度首を振った。ここは駄目だ。居心地はよい。だがどうしても――飲まれてしまうのだ。炎はすなわち燃え上がり、激しく渦巻くもの。何もかも灰にするまで止まらぬ、破壊の化身。いつまた暴走するか分からない。
『それが炎龍の運命だ。苦しかろうが、耐えてくれ』
「……だからあの人は嫌いなんだ」
 定められた理を受け入れ、頑ななまでに優先する。姿勢は尊敬に値するが、それでも決して、その考え方は好きにはなれない。直雅の死を、そんな簡単なもので片付けたくはないのだ。自分の大切な者が、死ぬためだけに今まで生きてきたなど、それが最初から決められていたことなどと、どうして受け入れることができる。
 体を引きずるようにして、社から離れる。眩暈がした。紅の記憶が徐々にぼやけ、不鮮明になって消えていく。
 と、そこで道場の門をたたく音に気づいた。控えめだが確かなそれは、一定の間隔を置いて響いてくる。とすると、飛鳥氏か柚江か、そんなところだろう。道場から入ってくる人は、大抵が知り合いだから。
「はいはい、今あけますよー」
 足を速めて門に向かい、扉を開ける。突然開かれたことに驚いたのか、来訪者は小さな悲鳴をあげた。
 淡い藤色のワンピースに、白いレースのカーディガンを羽織っている。細身のすらりとした、一見清楚な女性である。が、体つきはどこか、野生の獣を思わせるシルエットをしていた。髪は紅に近い茶色、瞳は出雲の持つ翡翠のごとく、見事な碧色だった。顔も均整の取れた美しい作りをしている。これは相当人目を引くだろうと、昇は勝手に思った。
 思った時点で、思考が停止する。これだけ目立つ外見をしているにも関わらず、自分は全く彼女のことを知らないわけである。
 つまり、完全初対面。頬に血が登るのを自覚する。
「あ、あの、……?」
 相手が不思議そうに尋ねてくる。思わずバックステップを踏んで距離をとった。冷や汗が背中を伝っていく。頭の中がすっかりこんがらがっているので、言い訳も説明もできない。
「か、帰ってください!! あああごめんなさいやっぱり帰らないでください!! ちょ、ちょっとだけ、ちょっとだけ待ってて!!」
 何とか言葉をひねり出し、素早く門の陰へ飛び込む。緊張で強張る腕を無理やり動かし、携帯を引っ張り出して電話した。数回のコール音の後、弟の声がする。
『もしもし稲葉ですが』
「し、しのぉ……!! ちょ、お客さんっ」
『……兄貴また泣いてんの、ってか携帯にかけてって言ったじゃんか』
 機械越しでも、梓喜が呆れているのが分かる。
『って、ちょっと待ってお客さんいるの? 待たせてる系? 兄貴何してんのさ、失礼だろ』
「だ、だって知らない人が来るだなんて思ってなかったし! 道場側だし!」
『ホントしょうがないな。今から行くからちょっと待っててよ』
 ぷちりと電話が切れる。ようやく助けが来ることに安堵したとき。
「あの……」
 突然後ろから声をかけられ、文字通り昇は飛び上がった。
ひぃぃっ!! ごごごごめんなさいぃっ!!
「ご、ごめんなさい! そんな驚くとは思わなくて、あの」
 考えることすらできず、昇はただ柱にしがみついていることしかできない。女性は困惑したように首を傾げ、やがてうつむいた。
「あの……やっぱり急ですよね。私、帰りますから……」
「すみません、遅れちゃって!」
 軽い足音がした。梓喜だ。ようやく昇の体から不自然な力が抜けていく。
「三時ちょっとすぎくらいにお電話くれた方ですよね。すみません、こんな失礼なお出迎えしちゃって」
「いいえ、そんなことないです。私こそ、お兄さんを驚かせてしまったみたいで……」
「気にしないでください。ただ異常に人見知りが激しいだけなんで。えっと、確か」
 女性は小さく、そうなんですか、と相槌を打ってから名乗った。
「大学で民俗学を専攻している、浅香梔子(あさか くちなし)と申します。本日は大学の研究発表のため、龍の伝承について詳しくお伺いしたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします」
 民俗学専攻で、龍の伝承について勉強している。ということは、やはりあの話をしなければ駄目なのだろうか。冷静さを取り戻した昇の胸が、再び重くなる。
「兄貴大丈夫?」
「……多分、な……」
「あの、ご迷惑でしたら」
 女性――梔子は申し訳無さそうに口を開いたが、梓喜がそれを押し止めた。
「いえいえいえ、いいんですよ。せっかく来てもらったんですから、どうぞあがってください! 兄貴、俺も同席するからいいでしょ」
(そういう問題じゃねぇんだがな……)
 心の中で呟いてみるも、それが聞こえるはずもない。昇は小さく、あぁ、とだけ返事を返した。

(2007.3.19)

 閑話-2-

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