龍の血脈


 禊さん、と呼びかけられ、目を移した。廊下の向こうから、証が歩いてくる。
「果蓮は……助かるのか?」
 急く心を抑えながら、禊は証に尋ねる。と、証がちらりと笑みを見せた。
「大分症状が落ち着いたので、もう大丈夫。禊さんのことを呼んでいたから、早く行ってあげてくださいね」
「よかった……」
 思わず涙腺が緩んで、慌てて瞬きをする。証が気づいたのか、目をこする禊にハンカチを差し出す。礼を言って受け取り、目元を拭った。
「ありがとう、禊さん。果蓮のこと心配してくれて……僕は、果蓮に嫌われてるから……僕の代わりに心配してくれる人がいるから、ちょっと安心するよ」
 証は寂しそうに微笑んだ。陽の光が、彼の整った顔を金に縁取る。
「……ありがとう、禊さん」
「いや……いいんだ」
 禊は首を振り、ハンカチを返した。
「果蓮は俺の、一番最初の友達だから」
「僕と一緒だね」
「とは言っても、お前ほど早くには会ってないんだ」
 言いながら、視線をずらす。石畳が均一の間隔で並べられ、白く陽を反射している。辿っていけば、木で作られた大きな門があるはずだった。
「実際果蓮に会ったのは、汐留殿が亡くなってからすぐの……当主の会合の時だから」
 懐かしく思い出すのは、父に連れられて参加した会合のこと。汐留氏の座っていた座席にいた小さな少年のこと。
 女の子のように愛らしい顔立ちには、子供らしくない大人びた表情が貼り付いていたのを覚えている。
 こんなに小さいのに、と呟いたのは飛鳥氏だった。宗一郎氏は下を向いて、眉を寄せていた。神威氏は静かに、これも運命と答えた。泰氏は天を仰いで、父上は真っ直ぐに男の子を見ていた。自分と変わりない年の男の子に、自分はただ、泣きそうに唇を噛んでいる男の子が、可哀相でならなかった。
「本家の会合のときに?」
「ああ」
 そのときに、飛び出してしまった少年を追いかけた。慰めようと思ったのに、慰められてしまったものだ。果蓮はあれから、一度も泣いていないように思える。
「俺が小学生の時だったからな……いろいろなことがありすぎて……少し、大変なときだったから。同調してしまったのかもしれない」
 いい思い出は、ほとんど無いのだが。禊の思考に、暗い影が落ちる。それをごまかすために、何とか笑みを乗せる。うまく笑えただろうか。証は一瞬だけ眉を寄せて、
「禊さん」
 ふと、頭が抱きこまれた。何が起こったのかがわからず、禊は何度か瞬きをする。
「無理して、笑わなくてもいいからね」
「証……?」
「昔の果蓮を見ているようで、辛くなるから……だから、辛かったら辛いって、言ってくれるかい。僕は、龍家の専属の医師なんだから……みんな、大切な人たちなんだから。みんな、同じくらいに大切だから」
 温もりが優しい。禊は軽く目を閉じて、小さくうなずいた。
「ありがとう、証」

 龍の一族、または一族に関係する家々以外で親しい人間をあげろと言われれば、両手の指で事足りてしまうだろう。高校時代の大切な友人が二人と、部活の後輩が一人。ある事件に巻き込まれてから親しくなった人たちが三人。以前からの知人が二人と、父経由で知った人が一人。禊にはそれでも、多いくらいだった。
 原因は、体に流れる血脈にある。龍の血が濃い子どもである禊には、不思議な力も備わっていた。長時間水中にいたとしても溺れず、水の流れ自体を変えることさえできた。
 子どもというものは、得てして己と異なるものを排除する傾向にある。つまり自分は格好の餌食だったというわけだ。
(だから、なのだろうか)
 歩を進めながら、禊は思う。
(だからこそ、果蓮と同調したのだろうか……)
 視界の右側を何気なく見やる。小さな中庭になっていた。丈の低い松の樹があり、根元には丁寧に整えられたつつじの垣がある。囲まれた中央には池があった。水面に葉の影がちらつき、漏れる光をいくらか反射して煌めいている。上を見上げれば、目にも鮮やかな蒼い空が広がっていた。鹿威しが一声、高らかに鳴った。
 証とは先ほど別れた。勉強熱心なもので、これから学校に行くらしい。禊ら道場当主、または次期当主は大学に通っていない。先代の当主について、徹底的に作法や儀式、掟を学ばねばならないためだ。証は医師、禊は道場主。根本から違うのではあるが、禊はいつも証の勤勉さに感心しきりであった。
(……でも、俺よりもずっと証の方が果蓮を分かっているはずなのに。風の龍なんだから、俺なんかよりもずっと同調するはずなのに……)
 時折証が見せる表情に、何とも言えぬ哀しい思いをすることがあった。これだけ他人を思いやる彼が、一体どうして果蓮に拒絶されているのか。果蓮は決して口を割らなかったし、証も微苦笑を浮かべて教えてくれない。『僕は嫌われてるんだよ』とだけとしか、言わなかった。
(……証は……嫌われても、怖くないのだろうか……)
 嫌われるということは、排除されるということ。排除されるということは、存在を否定されるということ。拒絶されるということ。過去に幾度となく拒まれ、排除されてきた身としては、どれほどつらいことなのかが痛いほどよく分かる。
「……強いんだな、証は……」
 禊はゆるく頭を振った。
「俺には真似できん……俺は、臆病だからな」
 目をすがめて、小さく自嘲を吐いた。聴いている者は、風以外にいない。吹き抜けていくにおいがする。
 しかし、突然違和感を感じて、禊は眉を寄せた。これは確かに風のにおいだが、様子が違う。乾いた土のにおいもするが、中庭の土は見た限り湿り気を帯びている。
「何だ、これは……」
 嫌な感触が、服の隙間から肌をなでていく。ちりちりと肌に当たってはじけるのは、炎の気配だろうか。
『明確な殺気と――複数の気が入り混じった気配。それが奴だと特定する、唯一の手段だ』
 咲の言葉が蘇る。土の気、炎の気、風の気が絡み合い、体をたたいていく。ならばそれ以外の、この刃物のように鋭い気配は、殺気か。
 汗が背筋を伝っていく。空気はこちらに流れていない。こちらに向けられていないのならば、目的は己ではない。
「ッ!! 果蓮!!」
 果蓮が寝ているはずの客間は、この廊下の一番奥にある。長く伸びる板張りのそこを、禊は半ば駆け足で進んでいった。気配は消えない。消えるどころか、挑むように禊へとまとわりついてくる。
 あと少しで果蓮の部屋だ。転びそうになりながら向かう。
 瞬間。
「ッ! ――!」
 強い風が吹いた。今度は紛れもない、純粋な風の気配だ。
「これは、『流松籟』の……」
 果蓮に何かあったのか。禊は急いで障子を引きあけた。



 結局、あの気配の正体は分からず仕舞いだった。最初こそ興奮し、尖った言葉が処々に見えていた果蓮も、家に戻るころにはすっかり落ち着いていた。
 妹たちも、今日は合宿だ友人宅にお泊りだといっていない。一番下の妹がいなくなると、途端に家の中がしんと静まり返るものだ。母もにぎやかな人で、家に帰るたびに出迎えてくれたものだったが。
 思い返して、ふと涙が出そうになる。禊はそれを誤魔化そうと、眉の間に力を込めた。
「堪忍な、禊」と、果蓮は顔の前で両手を合わせて禊に頭を下げる。「俺もちくっとイラついてたさかいに」
「別に怒ってはいない」
 なぜ謝られたのかが理解できず、禊は幾度も瞬きをする。
「せやけど、何や、眉間にしわぁ寄ってはる」
「あぁ……何、静か過ぎると思っただけだ」
 果蓮はしばらく疑わしげな表情をしていたが、やがて小さくうなずいた。
 分かってしまったのかもしれないと、禊は内心で苦笑する。果蓮も昔から、人の感情には敏感だから。
「何か飲むか」
「せやな。茶ぁ飲みたい」
 果蓮が倒れたときに置きっぱなしだった茶を入れなおし、居間のテレビをつける。学会がどう、研究会が云々と、生真面目そうな男性たちが話し合っている。
「頭痛ぅなってくるわ」
 つまらなさそうに頬杖をつきながら、果蓮は言う。チャンネルを回そうとしないのは、単に面倒くさいだけだろう。
「そうか? 俺はなかなか面白いと思う」
「こおいう奴らはろくなこと言わへん」
 隣に座り、禊はテレビを眺めた。カメラは画面の中央から右にずれていく。大人の男に混じって、小さな姿があった。
「ん?」
「どしたん?」
 座っているのは、幼い少女だ。無表情なまま、大人たちのやりとりを聴いている。
『桐御原博士は、今後どのようにして生物へ影響していくとお思いですか』
 カメラは彼女に固定された。下にテロップが流れる。
<桐御原 茅菜(かやな)……アメリカの某大学に飛び級で合格し、若干十歳にして博士課程を修了。主に絶滅した動物の研究、ひいては想像上の生き物の生態系などについての研究も行い、世界中から注目を集めている>
「想像上の生き物、ねぇ」
 果蓮が呟く。
「例えば麒麟、とかだろうか。それはすごいな」
「俺たち龍も、やないのか。実際にこの世界じゃ、想像上の生き物やろ」
 吐き捨てるように言い、果蓮は眉間にしわをよせる。
「こーいう学者なんかが面倒なんや……目をつけられへんとええねんけど」
 ふと、桐御原博士の後ろに控える少年が目に入った。金色の髪に緑色の目、外国人だろうか。まだ幼い。十二、三ほどの少年だ。静かに佇む姿は大人びており、年以上に落ち着いた空気をまとっている。
「……?」
 違和感を感じた。テレビの画面を通じて感じる空気が、何かおかしい。何とは言えないが、何かが――
 禊はそれを探るため、少年を凝視する。少年の視線が動いた。カメラ越しにこちらを見つめている。意思を持って、こちらを見つめている。
「ッ!?」
 瞬間、背筋を何かが走りぬけた。恐怖のままに、思わず刀を握り締める。
「ど、どないしたん?」
「……い、……や……」
 いつの間にか噴き出していた汗をぬぐう。
 カメラはもう別の教授を映している。あの視線はもうない。だが、忘れることなど到底できなかった。
「……何でも……ない」
 肌がざわついている。得体の知れぬ恐怖は、いまだ禊の肌に絡み付いていた。

(2007.2.18)

閑話-1- 

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