Importante Esprit
第三章


 月は今宵も明るい。獣も人も寝静まる夜更け、ディルは一人天を仰いでいた。
 クラーリーは焚き火の向こう側で眠っている。アーティチョークも気が緩んでいるのか、目を閉じて記録の整理を行っていた。
 街を出立してからおよそ三日。義肢にわだかまっていた熱は、いまや全身にまで及んでいた。頭の芯がぼうとかすみ、視点が定まらない。喉だけが異常に渇いている。眠ろうにも眠れない。
 風に当たろう。音を立てぬように腰をあげ、槍を携えて離れる。足が重い。動かぬ身を引きずるようにして歩く。魔物の気配は無い。あったとしても大丈夫だろう。いざというときには、あの給仕係がいる。
 火が小さな点となった時点で力が抜け、座り込んだ。ひどい眩暈がする。
 白い色彩が映ったのは、その直後だった。
「苦しいか」
 無機質さを持つ平坦な声音が、鼓膜を震わせる。見上げる自分と見下ろす相手、双方の視線が交わる。感情の伴わない瞳の色、口は堅く引き結ばれ、目元には白い仮面。
 なぜお前がここにいる。問い掛けたくとも、唇は強張って震えるばかりであった。
「あと数日で月が満ちる」
 そんなことは見れば分かる。虚ろに開いた視界の上、天空で冴え冴えと照り渡る月は、今も冷たい光を地上へと投げかけている。
「お前はそれまで持つのか」
 聞きたいのはこちらのほうだ。黙ったままにらめば、男は軽く手を振ってそれをいさめた。
「そうにらむな、我が同胞。こうしてようやく会えたのだ――実に、十年来の再会ではないか」
 言いながら、彼は優雅な身のこなしで仮面を外した。端整な顔立ちは仮面を外しても大差ない。焔の髪はさらりと零れ、月光に淡く照り輝いた。
「久しいな、ディル。我が友よ」
 伸べられた手を取る前に、意識が遠くなっていった。背を支える手のひらの感触だけが、十年も昔と何ら変わりがなかった。

 重い目蓋を開き周囲を見回せば、布張りの壁が四方を覆っていた。木で作られた骨組みが、布の壁の内側に張り巡らされている。
「気づいたか」
 頭上の右から声が落ちた。
「ここは」
「私のロンガだ。今は私一人しかおらん」
 相変わらずこの男は、自分の言いたいことをすぐに汲み取ってくれる。ディルは首を巡らせようとしたが、首は嫌な音を立てて軋んだだけで、うまく動かすことはできなかった。こめかみを汗が伝う、その感覚すら遠い。
 頭の奥底で何かが叫んでいる。うごめいている。今にもこの身を裂いて飛び出して来そうだ。ひどい吐き気がする。熱い。額が割れそうだ。
「ディル」
 体内で暴れ狂う衝動を、遺された理性で必死に押さえつける。
 出してはいけない。出てきてはいけない。ここから出してはいけない。ディルは歯を食いしばる。歯の間より漏れる呻きは、獣のそれに似ていると薄く思った。
 彼が眼を細めたことが、空気の流れで嗅ぎ取れる。
「やはり十年も経てば、発作の侵攻も進むか。ディル、この付近に血の通う生き物がいるか分かるか。それで発作を止めればいい」
 血の通う生き物。ディルの脳裏を、護衛対象である少年の姿がよぎる。
 駄目だ。それはならない。いけない。言葉を操り、思考する生き物を殺めることだけは、何としても避けたい。ただでさえ罪咎の無い生き物を殺めてきたというのに、これ以上己の罪業を増やしたくない。
 首を振る。彼の手がディルの肩をつかむ。ディルはその手を渾身の力で握りしめる。痛みのためだろう、彼は一瞬だけ眉を寄せる。が、それ以上表情が変化することはなかった。
「人間が近くにいるのだな」
 そうだ、とは答えられなかった。口を開けば、いつ咆哮が漏れるか分からない。咆哮をあげれば、眠っているだろう魔術師の耳にも届く。隠し通してきた事実を知られることになる。それはどうしても嫌だった。
 耳障りな荒い吐息は、紛れもなく自分のものだ。息がやけに詰まる。そのくせ感覚は先ほどと異なり、異様に研ぎ澄まされていた。周囲を過ぎる風の音、床に敷かれた絨毯の毛の流れ、雨が来る前の埃の臭い。その湿った臭いに混じり、確かに別の生き物の臭いが生まれた。鱗を覆う粘液の生臭いそれは、ディルが押さえ込んでいる衝動を激しくあおった。
 獲物が来た。背筋を走り抜ける何かを理解する前に、ディルの体は動いていた。
 目の前の男を突き飛ばし、大地を蹴って飛び出す。全身を巡る血潮が歓喜に沸いている。身を低くし、気配のするほうへ一心に駆ける。これから展開されるであろう狩りの予感に、魂が震えた。
 もっと向こうだ。せせらぎが聞こえる。羽音がする。臭いが、気配が近づいてくる。もっと向こうだ。もっと、もっと。湧き起こり、波打つ奔流に背を押されるまま疾駆する。近い。だがまだだ。ここでは遠い。もっと近くに。この牙が届く場所まで行かねばならない。今は失われた爪が疼いた。
 視界が開けた。木陰に身を寄せて息を殺す。そこに現れた巨大な姿を確認したとき、戦慄が走った。
 蛇眼竜(サーピュラム・イレス)、蛇竜のうちでもっとも生息数が多い竜だ。手足は無く、瞳もまた一つしか存在しないが、その眼差しには強い麻痺作用を起こす力がある。魔猟人(メドゥス)ですら警戒する、危険な魔物だった。
 だが、危険であればあるほど、獲物を仕留める悦びは大きい。ディルの体内を巡る血が、再びざわめいた。
 腰を沈め、膝を深く折り曲げ左手をつく。暗闇の向こうで、確かに動く影がある。鱗が地を擦る音は近く、鋭く闇を裂く呼吸の流れは、既にこの場所まで届いていた。
 一。二。鼓動は高鳴る。三。四。ざり、と足下で土が動く。五。六。息を長く吐いて。七。八。相手は気づかない。九――
 相手の喉笛へと飛びかかった。相手が気づいた。身を反りあげて威嚇する。力任せに腕を皮膚へ突っ込み引っ掛ける。これさえあれば登っていける。威嚇の声は悲鳴へ変わる。腕に力を込めて身を引き上げる。頬に生温かい何かがかかるが気にならない。鉄錆の臭い。全身をたぎらせるそれが理性を焼いていく。
 腕に乗り上げ跳躍する。腕が柔らかな顎の肉を貫通していく。身を貫く腕から逃れようと竜が悶えた。全身に降り注ぐ液体の雨。最後の理性が爆ぜ割れた。

 唐突に静寂が訪れる。口の中や喉の粘膜が、妙に粘り気を帯びている。つんと鼻腔を突き上げる臭いは、周囲を覆う澱んだ空気と全く同じものだった。
 全身をしとどに濡らすものも、同じように澱んだ空気を発散している。手袋はいつの間にか破れ、金属の肌が露出していた。息が切れる。心臓が未だ落ち着いていない。唾液を飲み込もうとしても、うまく嚥下することができなかった。
 ここはどこだろう。ディルはふらつく頭を振り、周囲を見回した。水のせせらぎが耳に優しい。もうすぐ雨でも降るのだろうか、星月は見えなかった。
 そこで初めて、目前に横たわる何かに気づいた。無残に切り刻まれた肉の塊がある。既に原型を留めていないが、どうやら元は動物だったようだ。
 体内の器官をすべてぶちまけられた生き物らしきものが、おびただしい血の池に浸っている。顎の下を貫かれ、心臓をえぐられ、目をえぐられ、腕を引き抜かれ翼を引きちぎられていた。かろうじて形を保っている頭部の切り口は、明らかに何者かに食いちぎられたあとが残っている。
 歯の奥に何かが挟まっている。舌で触れれば、ぶよぶよとした感触と硬い感触がある。肉だ。鱗がついている。転がる塊にも、鱗がある。
 唐突に脳裏をよぎった残像に、ディルは眼を見開いて後じさり呻いた。
「……う、……」
 これは竜だ。目が一つしかない、蛇眼竜の死骸だ。生きたまま引き裂かれ、引きちぎられて息絶えた、哀れな生き物の死骸だ。獣に散々弄ばれた挙句、喉を食い破られた獲物の死骸だ。そして獣はこの生き物を裂き、眼をえぐり、喉に喰らいついて肉を貪り、その血を飲んだのだ。
 他ならぬ、自分が。
 愕然と思い返した瞬間、胃が痛みを伴うほどに痙攣した。ディルは膝を折り、咳き込みながら戻されたものを吐き零す。顎を伝い溢れるそれは、周囲を覆う血と同じ紅をしていた。胃酸混じりの液体が、繰り返し喉を焼いていく。固形物が引っかかり、それが余計に嘔吐を助長する。目尻ににじんだ涙は、徐々に広がってゆく血溜まりに吸い込まれた。
 舌が強い苦味しか訴えなくなり、同時に虚脱感が全身を押し包み始めたとき、ディルは堪えきれずに嗚咽を漏らした。
 命は平等に与えられている。誰もが皆同じように生きている。そうして懸命に生きている者の命を、いたずらに奪ってはいけないのに。生きる権利を奪うことは、たとえ神であろうとも許されないはずなのに。
 もうたくさんだ。己の欲望のために、生き物を殺すことに何の意味がある。たった一時の殺戮衝動のせいで、一体どれだけの生き物の命が失われた。一体どれほどの生き物を、こうしてごみのように殺したのだ。
 もう誰も殺したくない。もう何も奪いたくない。奪いたくないのに、体に流れる暴走した本能は新たなる殺戮を求めている。
 どうすれば止められる。どうすれば奪わなくて済む。どうすれば進行を抑えることができる。これ以上苦しまずにいられるには、同行者を殺さないようにするためには、どうすればいいのだ。
 嗚咽はいつしか咆哮となり、悲しみの咆哮は降りだした雨粒に紛れて消えた。

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