Importante Esprit
第五章
* かかとが石に触れて硬い音を響かせる。最初に通った入り口に向かえばよかったのだが、客席をぐるりと回った先に小さな扉があったのだ。人の気配もあったため、下に行くための近道と思って進んだのだが、どうやらそれがそもそもの間違いだったようだ。 「えーと……ここ……どこでしょうー……」 熱狂する人々の喧騒は既に遠い。周囲は薄暗く、ところどころに蝋燭の明りが灯っているだけだ。石造りの壁と床、ずらりと道なりに並んだ鉄格子は、どう考えても牢獄である。 「……うー、も、戻ったほうがよいでしょうか……」 独り言は全て石にぶつかり、砕けて消えていく。答える声はなく、しんと静まり返っている。 と――体内の魔物探知機能に反応が表れた。バレリアン特有の殺戮衝動『ビエニス』、その発作に侵されたディルと同じ反応だ。同時に人の話し声が聞こえてくる。誰かがいる。 アーティチョークは緊張を隠しきれず、足音を極力立てぬように移動する。真っ直ぐ進んで突き当り、その左側から声がする。角に身を隠しながら、そっとそちらを覗き込んだ。 影を取り囲むように配置された檻の中央に、少女が一人佇んでいた。金や銀や銅の装飾品が飾り付けられた白い衣装。同じ色の柔らかな帽子から覗くのは、蜂蜜色の短い髪だった。年は主と同じくらいだろうか、愛らしい顔は泣きそうに歪んでいる。 彼女の正面からは、細い手が激しく出し入れされている。獣の呻き声と咆哮が、少女の細い体を容赦なくたたいていく。 「アニス……ごめんね、苦しいはずなのに……何も、できなくてごめんね……」 少女は冷たい床へと膝をついた。鉄格子に添えられた指は、ここからでも分かるくらいに震えている。 探知機の反応が弱まった。獣の声は途絶え、か細い少女のそれにとって変わる。 「……大丈夫、パペル……もう、いいの、もうすぐ、きっと楽に、なる……次の人が来たら、きっと終わる……この発作に、苦しま、なくて、いいの。誰の、ことも……傷つけたり、死なせたり、しなくて、すむ」 発作――やはり彼女もバレリアンで間違いはない。探知機に引っかかるくらいのそれは、道連れである傭兵のそれと同じものだったから。気配を殺したまま、アーティチョークは少女たちの会話をうかがう。 白い少女の指に、優しく手が重ねられた。鋭い爪が逆に痛々しい。押さえきれない獣の血が、彼女の身体を獣へと戻しているのだ。探知機も未だ、弱々しく彼女の獣の面を知らせている。 「私は、……ここに、拾われた、こと……感謝、してるわ。あのままだったら、きっと……きっと、もっと多くの人を、傷つけてた、から。パペルのことも、きっと、傷つけ、た、だから……これで、いいの」 「嫌よ! そんなこと……そんなこと、言わないでよ! 嫌よ……っ、アニスが死んじゃうなんて嫌、大事な友達が死ぬのなんて嫌!!」 少女は涙を流して手を握る。檻から伸ばされた肘が曲がり、檻の中の少女と彼女の距離が近くなった。 「アニス……だからそんなこと言わないで……アニスの仲間が来たら、……治し方、教えてもらうから……絶対よ、絶対なんだから……」 「パペル……」 檻の少女の呟きは、どこか悲しそうな色を帯びていた。それは檻の前の少女を傷つけまいとしているのか、それとも。 そこでアーティチョークの考えは中断される。少女たちの向こう側から、誰かの足音が降りてきたのだ。白い少女が弾かれたようにそちらを見つめる。 「パペリッチさん、新しい挑戦者です。司会をお願いします」 「分かりました。今行きます」 答える少女の声は硬い。階段からは盛大な罵声が流れてくる。先ほどの挑戦者が負けたのだろうか。罵るのはどうかとも思ったが、そういう娯楽なのだ、仕方がない。 アーティチョークもまた、細心の注意を払ってその場を後にする。闘技場の地下にバレリアンの少女、ディルが耳にしたらどう思うだろう。そんなことを考えながら、主の言いつけを守りに廊下を進んだ。 買い物を済ませて席へ戻ると、案の定主が文句をぶつけてきた。 「遅い」 「申し訳ございません」 容器を差し出すと、問答無用でひったくられる。よほど喉が渇いていたのか、一息に半分を飲み干した。傍らに置いて本を閉じ、軽蔑の眼差しで周囲を見やる。 「挑戦者が負けるとすぐに野次が飛ぶ。全く、本当に下賎な奴らだよな」 アーティチョークは何も言わず、容器に浮かんだ水滴を拭った。次の人が座るときに困らないよう、容器の底も丁寧に拭う。 クラーリーは気付かないまま、本をアーティチョークに投げ渡す。危うく手を通り過ぎて隣にぶつかりそうになるが、詫びの言葉は一つもなかった。もはや慣れつつある動力炉の違和感も、頭の回路の焼ける音も、なぜだかひどく物悲しい。 「……おい。黙ってないで何とか言えよ。使えない給仕だなあ」 何も言えずにいるアーティチョークに、主が苛立ちで尖った音を投げつけた、そのとき。 <お待たせいたしました! 本日最後の挑戦者の登場でーす!! 司会は私、エストル闘技場の花形パペリッチがお送りいたしまーす!!> 牢獄で聞いた白い少女が、闘技場の中央に現れた。先ほどとは異なり、はつらつとした笑顔を浮かべている。手には棒状のものが握られているが、声を拡散させるための機械であることは間違いない。 闘技場の床が揺れるほどの大歓声が轟いた。クラーリーがうるさそうに顔をしかめ、耳を両手で塞ぐ。 <今回の挑戦者はなんとっ!! 外からやってきた旅人さんです!! 審査委員も目を見張るその技術と戦闘力、これは期待できそうです!! 隻眼義肢の傭兵ディル、今っ、現れましたぁー!!> 大きな扉の向こうから、ゆったりとした足取りでディルがやってきた。歓声に足踏みや口笛が塗り重なり、辺り一面を包みこむ。 <段階は全部で八!! 彼は果たしてすべてを駆逐することができるのでしょうか!> アーティチョークは横目で主を眺めた。主はいつものとおり、どこか不機嫌そうな顔でそれを見ているだけだった。 (2009.5.18) |