泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
1−1
昼と、昼


 葉擦れの音を聞き、風に吹かれながら、私は蒼く澄んだ空を眺めている。
 ここは私が見つけた秘密の場所。大きなマロニエの木が一本だけ立った、小さいながらも綺麗な庭だ。学校の校内ではあるけれど、ここに人が来ることは滅多にない。誰もいない。誰も来ない。誰の気も煩わすことなく、誰かに怯えることもない。
 私の名前を言うと、いつも好奇の目で見られる。私の名前を聞いて、不愉快になる人だっている。だから一人の方がいい。誰も傷つけずに、傷つけられずにすむ。
 視線を落とすと、膝の上で組んだ手の甲が目に入った。今朝巻きなおした包帯は、日の光に照らされて白く光っているように見える。
「……痛っ……」
 包帯を巻いた箇所から痛みが走り、反射でそこを押さえつけた。ガーゼに包まれた下、右手の甲に知らない傷跡が残っている。包丁で切ったにはあまりにも深く、今もまだ血が止まらない。
 傷の理由を知らないだなんて、誰にも告げられない。話してどんな反応が返ってくるか、想像することは難しくないけれど。
 さわさわと風が鳴る。踊るように木漏れ日が揺れて、私のスカートに影を作る。初めてここに来た日から、数えて二度目の夏が訪れていた。
「もう……一年経ったのか……」
 つまり、私が秘密を抱えたままここに来て、二年。私がこの大学に通うようになってから、二年。光陰矢のごとし。どこかの誰かが言っていたことだが、実際それだけの時間が経っていることに驚きを隠せない。
 私は一体、どれだけの人を欺いてきたのだろう。気づいている人も中にはいる。気づいて、嫌悪して、影で私を嗤う人は多い。面と向かって言う人もいた。もちろん恨むつもりなんかないし、怒る必要もない。本当のことを指摘されているのだから、私が文句をつける権利もない。
 ふと、人の気配を感じた。誰かが来る。緊張に息が詰まって、胸元をきつく握り締めた。心臓の音がやたらに大きく聞こえて、さらに呼吸ができなくなる。立ち上がる。音の大きさから考えると、来るまでにそう時間はかからないだろう。遠くから草を踏んで、一歩一歩近づいてくる――
 私はとっさにかばんをつかんで、反対方向に駆け出した。風が鳴る音に紛れて、近づく誰かの気配も遠くかすんでいった。
 わざと校内を遠回りして、正門を抜ける。駅までは十分、そこから二駅乗って、マンションまでは歩いて五分。鍵をさしてロックを開ける。エレベーターの十階、一〇一〇号室。
 浅香梔子(あさかくちなし)。それが、私の名前。
 書かれたプレートを見ないように、扉を開ける。鍵をかけて、中に入る。かばんを放り出して、服を脱ぐ。胸に詰めていたパッドが落ちる。拾わずにそのままシャワーを浴びた。湯気で曇る鏡に、指が触れる。
 濡れたそこに佇むのは、紅髪碧眼の男性だった。どこか野生の獣を連想する、シャープな線の体つきをしている。
 女性とは決定的に違う、私の体躯が映っている。
「……傷が……増えてる」
 ゆっくりと目蓋を閉じ、開く。鏡の中の彼も、翡翠色の瞳を瞬いた。
 髪や目の色だけではない。私の身体機能は、常人のそれをはるかに上回るものらしい。体力診断だろうか、確かそういう診断テストの結果だった気がする。
 もてはやされたのは、ほんの数日の間だけだった。その内にだんだん「浅香はおかしい」になっていった。「人間じゃない」に変化していくのに、さほど時間はかからなかった。
 私だって、こんな体が好きになれるわけがない。どうしてなのか、その理由さえ分からないのに。
 首元まで伸びた髪は、まるで血のようにも思えてくる。軽い目眩と吐き気を覚えて、一度大きく息をついた。
「髪の色も、最近紅くなってきてるし……目も色が薄く……」
 濡れて貼りつく前髪を梳く。右目だけ隠すそれを手のひらで持ち上げれば、雫が指を伝って落ちた。薬指の先に触れている場所には、本当にかすかな傷がある。鏡から目を離して顔を伏せる。平らな胸板や腕にも、いくつも傷がついていた。薄っすらと跡になっているものや、縫ったような跡まで残っている。
 胸の傷が、一番目立つ。中央にある刻印を消すように交差した、今でも痛む傷あとだった。刺青とも焼印ともつかない朱の印も、ざっくりとそれを切り裂く赤の線も、私は全く記憶に無かった。そもそもどうして私が男性なのか、体中にある傷は何なのか、なぜ髪の色も目の色も他人と違うのか。疑問がいくつ湧いてきたとしても、私はその答えを一切知らないのだ。
 いつの間にかついた傷、知らない刻印、男性の体、他人と違う部分。ここにいる私は、本当に私なのだろうか。私は本当に人間なのだろうか。私は本当に生き物なのだろうか。怖くて、恐ろしくて、たまらない。涙が溢れて止まらない。私は、私が「私」だとを証明する手段さえ、何ひとつ持っていないのだ。
 濡れて湿った密室で、私は小さくうずくまる。水滴が、鏡の滑らかな表面を伝っていく。そこに映る私の姿は、目を背けたくなるほどに歪んでいた。

 次の日の放課後。今日は三限で授業が終わる日。いつものように、秘密の場所で過ごす。
「きもちいい……」
 日の光は温かくちらついて、空は青く澄み渡っている。
 と、かすかに鈴の音がした。次いで草むらが動く。私がそちらを眺めるのと、動いていた主が顔を出すのと、タイミングは同じだった。
 飛び出してきた影は黒猫だ。とても綺麗な猫、どこかで飼われてるのか、首輪がついていた。銀色の鈴が陽光に輝く。
 彼は(彼女は?)目をしきりに瞬いて、長く鳴いた。
「君、どこから来たの? 名前は?」
 柔らかい喉元を撫でてあげると、猫は気持ち良さそうに目を細めた。黒い毛並みの中にあっても、その瞳は緑柱石のように煌めいている。ここまで鮮やかなグリーンは珍しい。心さえ吸い込まれそうな、深い色だった。
「綺麗な目ね、君」
 ごろごろと喉を鳴らして、猫は私の手に頭を擦り付ける。くすぐったい。思わず笑い声が漏れた。
「もう、くすぐったいよ」
 でもやっぱりやめてくれない。私の指をしきりに舐めて、撫でてくれと言わんばかりに体をこすり付けてくる。胸の辺りが、ほっこりと温かくなる。
「困ったちゃんだなぁ」
 手触りがいい。艶やかな指通りと、動物の高い体温が優しい。
 座り直すために置いた手首に、また柔らかい感触がした。振り向いてみて、呆然とした。
「あれれ?」
 猫が増えていた。白猫に三毛猫、長毛に短毛……よくここまで集まったものだと、感心してしまうほどに多種多様。猫の見本市という表現がぴったりだ。めいめいがそれぞれのことを言いながら、私のところに集まってくる。
「え、え、え、ちょ、ちょっと」
 三匹ほど膝の上に乗ってしまった。周りも、足の踏み場のないほどに猫がいる。これじゃあ動けない。目の前で、さっきの黒猫が満足そうに私の顔を見つめている。
「……もう」
 何だかおかしくて、私は猫の群れに笑いかける。
 動物は好きだ。温かくて、優しくて、自分勝手で自由。言葉を持っていないから、人間のように言葉で傷つけあったりなんてこともない。それに、一人ぼっちだった私の傍らにいて励ましてくれる。励ましてくれている自覚は無いだろうけど、だからとても気が楽になる。
 ――でもこれは、ちょっと多すぎるかもしれない。
「そろそろ帰りたいんだけどなぁ……」
 少し、首をひねる。猫たちは、私の膝の上で気持ち良さそうに眠っている。これを起こすのは、さすがにかわいそうだった。
 すると、黒猫が私の膝に手をかけた。それから一声、長く鳴く。あっという間に猫が起きた。するすると私の膝の上を降りて、みんな私を見上げている。
「え……すごい……君、ここのリーダーなのね」
 お礼代わりに、軽く頭を撫でて立ち上がった。これから帰って、レポートを仕上げなくてはならない。名残は惜しいけれど、ここで猫の群れにはお別れを告げる。
 中庭を突っ切り、正門を抜けて、駅へと歩いていく。
 瞬間、後ろから視線を感じた。後頭部からかかとまで、余すところなく撫で回されているような、粘ついた不気味な感覚が走り抜けていく。
 最近、特に多かった。後ろを向いても誰もいない。気配と視線だけが、いつまでも追いかけてくるのだ。
 さっきまでの穏やかな心は、もうどこかに消えてしまっていた。ここ数日の間で、だんだん距離が狭まっている気がして怖い。
「……」
 震える足を止めて、振り向いてみる。誰もいない。でも、いる。どこかにいる。息を殺して、こちらを見ている――
「……っ……」
 マンションの入り口についた。慌ててあたりを確認する。誰もいない。いないはずなのに、心臓が緊張に波打っている。息が詰まる。ロックを開けて、すぐに閉める。こうすれば、内側から開けない限り誰も入れない。
 エレベーターで上に昇る。部屋について、ほっと胸をなでおろしたとき。
 電話が、鳴っていた。外からのお客さんが使う、呼び出しの電話だ。
「あ……」
 腕を伸ばして受話器を取る。
「もしもし?」
 返事が無い。
「もしもし……どちら様ですか」
 返事が無い。
「切りますよ」
 返事が無い。押し殺したような笑い声が聞こえてくる。本当に笑い声だったのか、それとも何か話していたのか、男性なのか女性なのか、複数なのか単独なのか。思考が真っ白に凍り付いていて、判別することもできない。
「……ッ」
 うまく持っていることができなくて、受話器を取り落とした。
 どこかで携帯が鳴っている。かばんの中からだ。嫌な想像が先走り、体がすくんで動けない。喉で絡まる息を何とか飲み込み、恐る恐る携帯を取り出す。
 知らない電話番号が並んでいる。出る前に切れてしまったらしい。履歴を見ると、もう十回以上かかってきている。
 もしかしたら、知り合いかもしれない。私は冷たく強張った指で、通話ボタンを押した。

(初回:2006.6.29 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)

1−2 夜と、夜


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