泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
1−2
夜と、夜


 仕事の依頼があった。逃走する男を殺せ。周囲の護衛は三十人、らしい。この際、護衛のスキルは一切関係ない。俺の方が圧倒的に強いからだ。頭数が多ければ多いほどいい。それだけ楽しみ甲斐がある。想像しただけで、ぞくぞくと頭の奥が痺れてくる。
「いいぜ、請けてやんよ」
 疼く体と鮮烈な飢え。凶暴なそれらを持て余しながら、俺は依頼人にそう告げた。

 一人。二人。三人。手にした得物から伝わる、感触。骨を絶ち、肉を切り、断ち割るもの。背筋を駆け抜けるそれに、俺は歓喜の叫びをあげる。脳の回路が焼ききれそうだ。体中を満たし切り刻んでいく悦楽の奔流が、まさに麻薬のように意識を蝕んでいく。
 一人に飛び掛って喉を掻っ捌いた。勢いよく吹き上がる血流は、雨よりも噴水と言ったほうが似合う。実に爽快な眺めだ。悪くない。悪くないが、まだだ。まだ足りない。もっと殺せ。もっと殺せ。
「おらおら、道空けろカス共が! 『首切り双刃』様のお通りだ、道ぃ開けろってんだろが!」
 銃を構えるそいつに向けて、俺からナイフをプレゼントだ。鈍い音がして、相手の額にナイフが突き立つ。それを抜こうとしたのか、男は痙攣しながら手を挙げた。それきり倒れて動かない。気を取られていると見せかけてもう一本を翻し、別の男を斬り倒す。
 俺のナイフはよく切れる。特注品だ。いくら殺しても、どれだけ殺しても、血脂で曇ることも切れ味が鈍ることもない。
「どうした! もう終わりか、てめぇら! 俺を楽しませろよ!!」
 来ないならば挑発してやればいい。突っ込んでくる奴らを斬り裂き突いて殺す。殺す。殺していく。殺した後は知ったことではない。もう動かない奴には、用は無い。俺が欲しいのは、今生きていて動いている奴らだけだ。
「く、っくくははは!! あっはははは!!」
 楽しい。楽しい。楽しい。生きるか死ぬかの瀬戸際で、肉を裂き骨を砕き血しぶきを上げて殺しあう。奪いあう。喰らいあう。相手の命を奪う瞬間、相手の命を握りつぶす瞬間、刃物を通じて感じる官能こそが最高の娯楽――それでもまだ、足りない。
 動くものがいなくなるまで、俺は殺し続けた。通りすがった汚いガキも迷い込んだ女も全部全部全部巻き込んで、そろそろ何人殺したか分からなくなった時点でようやく俺の飢えは治まった。

 仕事を終えて、軽くシャワーを浴びる。髪からじわじわと紅い水が溶けて、流れていく。それを横目で眺めながら、傷の具合を確かめた。
 右手の甲に、裂傷が一つ。避け損ねたか。もっとも、俺は左利きだから問題は無いのだが。
「あいつに知られたらどうすんだよ……ったく」
 舌打ちしてから、蛇口を閉める。嫌な音を立てて吸い込まれる水をにらみながら、ぼやいた。
「面倒くせぇ」
 かすかな痛みが走る。面倒な同居人は、おそらくこれに気づくだろう。細かいことばかり気が向く奴だから、見つけてはあれこれと悩むに違いない。自分の存在がどうだとか、そんなことばかりあげつらうのだろう。
「……クッ、くく」
 喉から声が漏れた。唇を歪める。
 馬鹿馬鹿しい。他人とのかかわりを恐れ、他人を傷つけることを恐れ、自分の存在を恐れ自分の身を恐れて。そんなに自分が嫌いなら、軽くここから飛び降りればいいのだ。それができないあの同居人はただの怖がり。
 生きている理由がすなわちイコールで死にたくないからになるとは限らない。この命がどうなろうと知ったことではない。生きていても死んでいても結果は同じ、俺が死んだところで俺の代わりが現れて、俺の代わりに他の命を食い荒らすだけだ。
 そんな世界で命の価値を求めてどうする。価値のない命を惜しむ者がいるわけないのだから、面倒くさくなったら死ねばいい。こんな歪んだ命など、あってもなくても同じようなもの。だから要するに「どうだっていい」。



 雨。周囲は霧がかったようにぼんやりとしている。夜。闇に紛れて、ものの輪郭ははっきりとしない。それでうまく自分の身を隠して、撒こうという魂胆か。
 小ざかしい真似をする。それしきのことで、この俺が撒けると思っているのか。随分と舐められたものである。
 常人以上に研ぎ澄まされた感覚から、普通の人間が逃げられるはずもない。
 感じる。標的の息遣い、左右する視線、靴裏がアスファルトをたたく音。雨であろうが夜であろうが、俺の目には真昼の明るさだ。無様に逃げていく背中が、のろのろと遠ざかっていく。
 腰の得物を引き抜いた。逆手に持つ、皮の手袋が柄に吸い付く。なじんだそれが、血を吸うことを催促する。体中を駆け巡る期待に一度身震いして。
 地を蹴った。駆ける。近くなる。男の姿が近づき、並び。追い越し様に、得物を振りぬいた。派手に飛沫を上げる紅は、すぐ雨に溶けて流れていく。
 倒れる体と真逆に飛ぶ頭は、壁に当たって脳髄をぶちまけた。
「へぇ、派手にぶっ飛んだなぁ」
 笑いがこみ上げた。いいことを、思いついた。これはいい娯楽になる。
「どうせなら、もっと派手に死のうぜぇ」
 仰向けの腹を捌く。それから脂肪ばかりついたそこへ、手を突っ込んだ。

『どういうことだっ!』
「うるせぇなあ」
 やたら高く響く声は不快以外の何者でもない。俺は携帯を耳から離し、しばらく好きなだけ怒鳴らせた。風呂あがりで貼りつく髪がうざったい。
 どうにもかったるいが、一応空いた間をついて返事をする。
「仕事は終わったんだ。あんたが文句を言うのはお門違いだろ」
『遺体をバラバラにしろとは言っていない! 頭部も潰れている、内蔵も外に引きずり出されて滅茶苦茶だ!』
「なかなかゲージュツ的だったろ? ナマ人体標本っつって」
 つけ加えるなら、渾身の作だ。あれだけ綺麗に人の中身切りそろえられるのは、この辺で俺くらいしかいないだろうな。
『馬鹿者ッ!! あれではもう流せないではないかッ!!』
そういえば、臓器売買をするつもりで依頼してきた男だった。内容は「裏切り者が一人いる。出来るだけ綺麗な状態で始末をしてくれ」とか何とか、そんな感じだった気がする。興奮していてすっかり忘れていた。
 まぁ、別に俺には関係ないからどうだっていい。
「綺麗じゃねえか」
『雨にさらされた上に鳥が食い荒らしたッ!』
 自業自得だろうが、と心の内で吐き捨てる。終わってすぐに連絡をしたのに、今日は遅いからまた明日、だってほざいたのはどこのどいつだ。
「お前らが遅かったからだろ。俺ぁ悪くねぇよ」
 考えていたことが言外に出たのか、相手は早口で何かをまくし立てていた。相当怒っているらしい。馬鹿のように怒鳴り散らしている。それを遮り、声のトーンを落としてささやく。
「とにかく仕事はしたんだ。約束の通り、金の用意は出来てんだろうな」
 瞬間、相手が沈黙した。分かりやすい態度で大いに結構。俺は一人、唇の端をつりあげる。
「払えねえのなら、アンタのはらわたでも売りさばくなり何なりして金作れよ。払う気がねぇのなら、どうなっても」
 切れた。平坦な電子音だけが繰り返される。
「フン」
 携帯を放り投げる。勝手なものだが、こういう馬鹿な奴らはざらにいる。後々解体するのが楽しみだ。
 髪をかきあげた。手のひらからは血の臭いがする。これをどうごまかそうか。ソファに寝そべり、しばらく考えた。が、どうもうまくまとまらない。
 まぁ、いい。俺はどうせ困らない。誰がどうなろうと、知ったことか。
「ったく」
 雨足は激しい。一向に止む気配がしない。
 雨は嫌いだ。気が滅入る。こういう澱んだ空気の日は、どうしても動けない。神経が俺のものでないように、身体が俺のものでないように、ぎこちない動きしかできない。正直今日の仕事も上手くいくかどうか、確率は五分五分だった。
 雨。一瞬だけ蘇る映像に、呼吸が止まる。男だ、大柄な男。雨。雨の中に混ざる紅色。あれは誰のものだっけ。俺のものか、それとも別の奴の?
 思い出しかけて、うち切る。別に、今はもうどうでもいい話だ。身体の神経が働かないのも、気がこんなに滅入るのも、みんな雨のせいだ。俺は窓ガラスを伝っていく雫に拳を一度たたきつけて、カーテンを閉めた。
「……もう、寝ちまおう」
 眠ればいい。夢を見ることもなく、眠ればいい。そうすれば、きっと記憶すら曖昧のまま眠れるから。失敗作は夢を見なくてもいい。息をすることすら忘れて眠ればいい。そうすれば、きっと俺は。

 疲れ果てた身体をベッドに投げて、目を閉じた。目蓋の奥にちらつく光をぼんやりと意識しながら、やがてそれが見えなくなるのを待った。

(初回:2006.6.29 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)


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