泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
1−3
昼と、夜


 季節は初夏。木漏れ日は緑の光となって降り注ぎ、学生たちは日々強くなる陽射しに文句を言いながら、照りつける太陽の下をくぐり抜けていく。そんな彼らを横目に、俺はバイクを走らせる。緑のにおいが風に混じって気持ちいい。梅雨が終わりたて、珍しいくらいにカラッとした日だ。明日もこんな感じで晴れればいいのに。セットじゃないのに両サイドが跳ね回るのは、ちょっと行くとき困るから。
 エンジンをかけっぱなしにしたまま、守衛さんに学生証を提示した。
 綿津見亘理(わだつみ わたり)、文学部国文学科所属。入学した日付は今より一年と少し前の四月十日、学生証の有効期限は今から二年後の三月三十一日まで。さっきちゃんと確認したから、出し間違いはしてないはず。
 守衛さんが身振りで、通ってよいと合図してくれた。それに手を挙げて答え、駐輪場にバイクを置きに行く。
 ヘルメットを外すと、緑色の空気が一気に頬へと降ってきた。やっぱり日陰のほうが涼しい。鍵をかけて、国文科のキャンパスへと足を向ける。ちなみに一番遠い。駐車場と駐輪場から十分歩く。今学校に到着した学生は、授業に遅れまいと全力疾走を始めていた。
 時計を見れば、残すところあと九分しかない。……まあ、自分の取っている授業は出席に厳しくない。単位は多分大丈夫だろう。それにこの時間では、いくら急いでも寝れる席は取れそうにない。ついでだし、ロッカーに寄って教科書でも取りに行くか。
 階段を上がり、廊下の半ばを歩いている最中でチャイムが鳴る。ばたばたと慌しい靴音が、前から後ろからひっきりなしに聞こえてくる。彼は間一髪セーフだ。奥の彼女は……教授が中に入ったのと同時だ、アウト。そんなことを考えながら足を運ぶ。
 少しすると、廊下には完全に誰もいなくなった。当たり前か、授業中だし。ロッカーの鍵を開けて、次の授業で使う教科書を数冊引き抜く。かばんの中に分厚いそれを押し込んで、不意に聞こえたそれに顔を上げる。
 やや早いペースで刻まれる、ブーツのかかとが当たる音。振り向いた俺の前を、鮮やかな紅茶色の髪が横切った。窓から差し込む光の具合で、所々が紅に透けている。教科書を胸に抱きしめて、ひたすらに足を動かしていた。右の目にかかる前髪を払いもせず、足下に視線を固定して、ただひたすらに。スカートが動きに合わせて翻り、そこにも日光が踊っていた。
 ――いつも、この瞬間はどきりとする。間違って目が合いはしないか、こちらに気づかれてしまわないかと、ついいつもの癖で息を殺してしまう。相手には丸見えで、全く無駄だということは分かっているのだが。
 相手が、こちらに視線を投げた。切れ長のつり目、瞳は常人ではありえないほどにくっきりとした翡翠色だ。鈍い光を放つそれに、俺の驚いた顔が映っている。
 映った俺の表情が、一瞬わずかに揺らめいた。それから怯えたように身をすくませ、相手が一歩後ろに下がる。
「あ、……ご、ごめんなさい……」
 しぼり出すように紡がれた言葉も、幾分か涙で潤んでいる。瞳はもう伏せられ、指は胸の教科書を力いっぱい抱きしめて白く変色していた。
 自分の表情が硬く強張っていく。やや高めではあるが、れっきとした男性の声だ。この音、この喋り方、もっと乱暴で激しいものなら、聞き覚えがある。
「別に、気にしてないし」
 返す返事は、自分で驚くほど冷たく突き放した響きを持っていた。
「授業はいいの?」
 爪先を必死に凝視しながら、相手は小さくうなずいた。こちらが怖いのだろうか、身体が小刻みに震えている。よく見れば、長いまつ毛の隙間に涙が溜まりつつあった。
 ――うまいもんだ。心のどこかがそう嘲り、全くだと胸中で呟く。こうやっていつも仕事をしているのか。どこまでもプロフェッショナルを追及する根性は評価に値する。
 そんなことを考えていると、相手はきつく唇を噛み締め、首を振って後ずさる。そして頭を下げると、小走りに反対方向へ駆け出した。
 毎回、何かの見間違いだと願わずにはいられない。そして毎回、見間違いではないことに愕然とする。あの紅色がここにいて、俺もまたここにいる。偶然にしては、あまりにも出来すぎていた。
 ……たぶん、今日も授業の内容は頭に入らない。角を曲がっていく後姿を見送って、一人嘆息した。

 帰宅してすぐにパソコンを開く。データを探っている俺の背後に、ふと気配が生まれた。
 ぱちん、とどこか間の抜けた音がして、部屋が一気に明るくなる。
「ちょっと。目ぇ悪くなっても知んないよ。二時間くらいずっとつけてなかったでしょ」
 それから香佑の呆れた声がする。顔を上げてそちらを見ると、見慣れた姿が腕を組んで戸口にもたれていた。組まれた腕の左側から、温かく湯気が立ち上っている。
「何調べてんのか知んないけど、ほどほどにしなさいよ。はい差し入れ」
 腕はほどかれ、代わりにマグカップが渡される。ほどよい温さを保つカップの表面に触れると、チリチリしていた神経がようやく鎮まっていく。
「ありがとう、香佑(こう)」
 カップを傾け一口、行く前に、覚えのある刺激臭が鼻をついた。柔らかなコーヒーのにおいにはまるでそぐわない。例えるならそう、ちらしとか握りとかに使われている、あの。
「……こ、……これ」
 かろうじて顔を引き剥がせば、
「あ、ごめーん。酢ぅ入れちゃった」
 してやったり、とでも言いたげに、彼女はにやりと笑ってみせる。危うく引っかかるところだった。
 最近の趣味、なのだ。コーヒーでいかに人を悶絶させるかが。いつものごとく義兄さんが犠牲になっていたが、なるほど確かにすさまじい威力である。
 マグカップを無言で突っ返し、パソコン画面へ目を戻す。ちょっとした事情があって仕入れた、うちの大学全員の名簿だ。学部学科、学籍番号、氏名、生年月日、そして顔写真が掲載されている。その中にいる一人を確認し、すれ違ったときの横顔を思い浮かべた。
 やはり、見間違いではなかった。いや、今まで見て見ぬふりをしてきた、と言ったほうが正しい。夜の側の連中でも、あの赤毛を目にして生きていられたものはほとんどいない。貴重な生き残りは、自分を含めても十人に満たないだろう。
 何を企んで普通の大学に紛れ込んでいるのかは知らないが、昼側には昼側のルールがある。俺だって『こちら』のルールを守って平穏に生きているのだ、せめてこちらで生きているときくらい普通でいさせてほしい。こんなところまで、夜の世界のやり方を持ってこられても困る。
 昼と夜は違うものだ。だからこそ、『奴』はこちらに来るべきではない。ルールなど無い無秩序の世界の危険人物は、平穏と秩序で構成された世界に来るべきではない。
「難しい顔してんじゃないの」
 と、頭の上に何かが乗せられた。顔の前に垂れ下がる灰色の尻尾は、突然のことに不機嫌をあらわして激しく揺れている。次いで両足にも体重がかかる。黒とまだら三毛の両方が、人のジーンズで爪をとぎ始めた。こちらも、彼らの不機嫌を示している。
「ほら見なさい。カイもクウもミチも、あんたがそんな顔してるからご機嫌斜めになっちゃったでしょうが。難しいことこちゃこちゃ考えてる暇あるなら、さっさと動きなさい」
 別に俺のせいじゃ無い気がするが、確かに考えるばかりでは始まらない。思考を中断し、頭に乗せられた猫を下ろす。膝の上に抱き直せば、エメラルドグリーンの瞳を細めて満足そうに喉を鳴らした。他の二匹も大人しくなり、足下へとうずくまる。
 三度画面を視界に収める。網膜を焼くほどに鮮やかな紅、翡翠を思わせる硬質の碧。
「……案ずるよりも何とやら、ね」
 確かに、これはちょうどいい。悪名高き夜の世界の何でも屋、圧倒的に情報量が足りない『奴』の秘密を握るいい機会だ。徹底的に調べてやる。それが結果として自分の身を守ることになる。
 自衛のために、生きるために――探ることにしようではないか。
 ウインドウを閉じる。『奴』の紅い色が消え、愛猫三匹の子猫時代の写真へと切り替わる。それを少しの間眺め、癒されてから椅子を引いて立ち上がった。
「クウ、カイ、ミチ。ご飯あげるからおいで」



 この施設は、ものの見事に白一色だった。使い続けられているゆえの汚れこそ目立ったが、それ以外は本当に白しかない。人間を全てが白い部屋に閉じ込めると発狂する、なんて聞いたことがある。だからこの施設の連中はイカれてるんだな、と何となく納得した。
 有名な狂人集団、『狂乱舞踏(マッドダンス)』と呼ばれる暗殺組織の根城である。何という事でもない。情報をいただきに来ているだけだ。これも俺たち情報屋の仕事である。こうして仕入れた情報を、必要としている人間に売る。オンライン世界に溢れる膨大な情報から釣り上げるよりも、自分の足で調べ、手に入れたほうが信憑性も出る。それに重要な情報というものは、大抵書類にしてしまいこまれていたりするものなのである。最近では、チップやディスクなどに入れておくことも増えた。それでも、根本的な部分に変化はない。
 オンラインに曝すより、オフラインで厳重に保管する。それが一番確実なのだ。
 それにしても、本当に白一色である。所々が薄汚れてはいるものの、目が眩むほどの白さに変わりは無い。かろうじて正気でいられているのは、仕事用の服のおかげかもしれない。
 やっと見つけた階段を上り切ると、向こう側から人の叫ぶ声がした。何番と何番を出動させろ、実験後のテストだ、使えなかったら破棄しろ、なんて物騒な声も聞こえてくる。
「何だ何だ、ちょっとは歯ごたえありそうじゃねえの」
 思わず口笛を吹いて呟く。さっきからもやしのような科学者ばかりで、すっかりだれてしまっていた。狭い廊下は一本道、左右の幅が大体一メートルずつ。突き当たりに曲がり角が一つある。距離は……十メートル前後だろうか。ここからではうまく感覚がつかめない。
 そこから影が二つ飛び出した。両方とも同い年くらいの女の子、どうやら双子らしい。片方がショートで片方がロングヘアーだった。金色がかった茶色の髪に、瞳は紅味を帯びた茶色。脱色したような色だった。それぞれの右腕は人間のものではなく、鋭く加工された機械のそれである。反対側の生身の腕には、ここのシンボルマークが刻まれていた。実に表現し難い。音符を鋭く研ぎ澄まし、ナイフの形にしたような、そんな感じだった。
「排除いたします」
「どうぞご覚悟を」
 同じ声で、同じ顔でそう言うと、彼女たちは同じタイミングでこちらに飛びかかってきた。とんでもない脚力だ。助走もなかったはず。頭上の蛍光灯が割れる。風圧と機械の腕の一撃に耐え切れなかったらしい。降り注ぐ欠片から顔をかばいつつ、何とか攻撃をやり過ごす。細い体からは想像もできないが、どうやらここの実験体兼専属暗殺者なのだろう。
 薬品投与によって人体の能力を限界にまで引きだし、拷問に近いテストを繰り返して限界以上にまで引き上げる。度重なる薬の影響で髪や目の色が常人より薄く、代わりに人間離れした動きが得られる。それが『ここ』出身の奴かどうかを見分けるポイントになる。
 ――噂には聞いてはいたが、やっぱりここはクレイジーだ。そうこなくちゃ、『この名前』を名乗る意味が無い。
「その自慢の腕。錆び付いても、知らないぜ?」
 向かってくる二人の女の子に相対する。無表情のまま、再びこちらに突撃してくる。二人の腕が交錯し、一つの槍になって俺の胸を刺し貫く、直前。
 俺は渾身の力で左腕を振りかぶり、全体重をかけて振りぬいた。
 鼓膜を破らんばかりの不快な音がし、女の子たちの機械の腕がもげ落ちる。二つの腕は壁に当たり、ひびを入れて床に突き立った。これが俺のあだ名の由来。人呼んで『荒ぶる海魔』、利き腕ではないほうの腕力・握力だけが強いだけなのだが、仕事の際には役に立つ。
 ぶつかった跡にはどす黒いオイルがペイントされている。なかなかグロテスクだが、狂った白い箱にはこれくらいがお似合いだ。もがく彼女たちのわきをすり抜け、奥に進む。
 一階はさすがに複雑だったが、二階三階に行くにつれて簡単になっていく。頭の中に構造を記憶させつつ、次々に現れる実験体たちを適当になぎ払いながら、道のとおりに足を運ぶ。
 その、途中。
「センス悪いな」
 巨大な檻があった。上に続く階段の部屋、その半分が格子の向こう側にある。部屋の規模は、大体小さめの講義室くらいだろうか。壁には錆びた鎖が垂れ下がり、首輪や干上がった水槽なんかが転がっている。そして。
 壁の一部分一部分に、血と思しき汚れが染み付いていた。
「これで人がいなかったら……心霊スポットになりそうだな」
 ご丁寧に『危険!』と英語で書いてある札が下がっている。猛獣でも飼っていたのかとも思ったが、恐らくは実験体が入れてあったのだろう。英語の下にかろうじて『X』の字が読み取れる。
 牢屋に向かって右側のほうに、格子のはまった窓があった。今は深夜だから、空も闇の帳が引かれている。昼間に見れば、きっと青空が切り取られたように見えるのだろう。冷たく冷えた、白い箱。ここには死のにおいしかない。ひどく居心地が悪く、そして何となく寂しい部屋だった。
 扉を左手でこじ開け、壁に指を当てる。ここ数年間は使われていないのか、牢屋の中には埃が溜まっていた。目ぼしいものも特にはない。格子窓の傍に血のこびりついたバットや金属棒、錆びた手錠やら鉈やらが置いてあったが、素手の方が強い自分には必要無さそうだ。何の手がかりも得られそうにはない。大人しく上に向かうことにする。
 どうやらここの所長は留守にしているらしい。机の中、隠し扉の内側、ディスクと言うディスクを押収する。書類らしいものは皆無だった。
 本棚を調べていると、一枚の紙切れが床に落ちた。随分古い書類のようだ。B5サイズの紙切れに、びっしりと文字が書き込まれている。
 拾い上げ、ライトに透かしてみる。特に何の仕掛けもない。ざっと目を通してみることにした。
「……人間兵器……仕込みドス計画? 何だそりゃ」
 何と言うネーミングセンスのなさ。呆れて続きを読む気になれない。
「まぁいいや……あとで読む」
 元の通りに折りたたみ、ポケットにしまう。改めて目ぼしい書類が無いか確認をしてから、俺はようやく『狂乱舞踏』根城から退散したのだった。『奴』の重要な情報が、もしかしたら入っているかもしれない。そんな都合のいい期待を抱きつつ、夜の最中にある街を走り抜ける。
 結果としては、入手した情報のどこにも『奴』の名前はなかった。まぁそれはいい。仕事は成功したことだし、それで満足することにしよう。パソコンの電源を落とし、ベッドに身体を放り投げる。眠りの波が暖かく押し寄せると共に、意識は夢の中へと落ちていった。

(初回:2008.10.23 更新:2009.1.10)


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