泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
2−1
昼と、朝と夕方


 昨日は具合が悪くて、一日中寝ていた気がする。雨の日だったのは覚えているけれど、どうしても細かい部分が思い出せなかった。熱が高くて朦朧としていたのだろう。
 ともかく、昨日休んだ講義のノートを借りなければならない。教科書を片付けながら、軽く周囲を見回す。同じゼミにいた子が、確かここにいたはずなんだけど……
「浅香さん、ちょっといい?」
 突然声がかけられて、知らずに体が緊張する。
 苦手な子だ。いつも元気で明るくて、悪口も笑顔のまま本人の前で言うような子だった。
「どう、したの」
 不自然に息が途切れる。目が合った。
 視線を私に固定したまま、彼女が微笑む。どこか挑むような表情に、私の体はさらに緊張する。
「あのねぇ、お願いがあるの。聞いてくれるぅ?」
 媚びた口調とは違う瞳の光が、怖い。無理やり首を動かして、見ないようにした。
「私で……よかったら」
「わー、マジで? ありがとー! あのねー、このレジュメ、代わりにやっておいてくれないかなーなんてぇ」
 この講義では、学生が必ず一回レジュメを作る。この間私がやってきたものは、先生にたまたま褒められた。そのことを彼女は覚えていたのだろう。でもこれは、自分でやらなければ力にならない。誰かにやってもらったら点数に加算されないと、先生はあらかじめ言っていた。だから、手伝うことはできない。
 ごめんね、と断ろうとしたとき、彼女が先に口を開いた。
「あたしこれからバイトあってぇ。今週忙しくてやってる暇ないんだぁ。浅香さんバイトしてないでしょ? 暇でしょ? 暇だよね? やっておいてくれないかなぁー? お礼とかするからさぁ、ね、いいでしょ?」
 断らなくちゃ。そう思うのに、口がうまく動かない。教科書を持つ手が、嫌な汗をかいていた。
「……あの……ね、これは……」
「おねがーい。あたし本当に忙しくてぇ。浅香さんが頼りなのぉ」
 彼女と仲のいい子たちが三人、うかがうようにこちらを見ている。
『知ってる? 浅香さんって……なんだって』
 視線と一緒に投げられてくる声を、私は必死に意識の外へ追い出す。
『えーマジでー!? 真由美マジやさしー、あんな子に構ってあげてさぁ』
 彼女たちが悪いわけではない。普段はとてもいい人たちなのだ、一人でいる私に話しかけてくれているのだから。きっとどこかで、私に関する話を聞いただけ。今はそれに対する率直な意見を出しているだけ。だから、彼女たちは悪くない。
 私はそっと、目の前にいる彼女を見上げた。相変わらず微笑みながら、私のことを眺めている。
 何とか教科書をかばんに押し込み、机の下でそっとスカートを握り締める。
「やってくれるよね? 下書きだけでいいからさぁ。浅香さんだけが頼りなの、お願ぁい」
 そんな私の手を握り締め、彼女は甘い音で懇願する。緊張で手が冷え、震えている。彼女の笑みが深くなった。彼女を見ているのが怖い。
 思ってから、はっとする。怖いだなんて、たとえ苦手な人に対してでも失礼ではないか。せっかくこうして話しかけてくれているのに、その好意を無碍にしてしまうようなものだ。
 それに彼女なら他の人に頼むこともできたはずなのに、私を選んで頼んできてくれた。わざわざ私を選んでくれたのに、断ることなんてできない。
 一つ深呼吸をして、答える。
「……分かった、やっておくね」
「きゃー! ありがとー! じゃ、これあたしのやるとこだから。そうそう、先生には言わないでね。あたし成績マジやばくてぇ、ばれたらちょっとまずいからさ。人助けだと思って、ねっ? そんじゃよろしくぅ」
 プリント三十二番の解釈と自分の見解を述べよ。担当部分に引かれた蛍光ピンクが目に痛い。半ば押し付けるように私に渡してから、彼女は少し前にある友だちのところに駆けていった。これから昼ごはんを食べにいくのだろう。
 彼女たちの背中を見送り、手の中にあるプリントを眺めて、そっとため息をつく。誰もいない講堂に、やたら大きく響いた気がした。

 周囲からの視線が痛い。足早になる。スカートが足に絡まって歩きづらい。
『あ、浅香さんだ。美人だなぁ』
『本当だ、今日も図書館かな。頭いい人は違うね』
『浅香さん、あんましゃべんないよなぁ。俺いつも逃げ出されるんだけど』
『俺もだ。もうちょっとしゃべってくれたっていいじゃんね』
 男の子の囁く言葉。
『うわ、ホントに髪真っ赤ね。初めて見た。染めてんの? だとしたら超イタイ人だよね』
『目もカラコンだって聞いたけど。あれだけ自己主張しといて、話すとおどおどびくびくしてんの。正直マジウザいっていうか、消えてほしいっていうかぁ』
『ちょっと、それ言いすぎー。せめてどっか行けにしといたらぁ?』
『意外とフラストレーションたまってたりして』
『切れると怖いタイプってこと? うわ、人は見かけによらないよねー』
 女の子の皮肉る言葉。小声が余計に、耳に入ってくる。
 うつむいて、小走りになる。ブーツが床に当たる音、耳に大きく木霊する。
 聞かないようにしたいのに、声はひたすら追いかけてくる。相手が悪いんじゃないって分かっている。分かっているけど、やっぱり悲しい。
 胸を突く感情のせいで視界が滲む。流れてこないように目元を拭った、そのとき。
「……人の見かけだけで判断するのはよくないと思う」
 聞き覚えのある声がした。
「外見だけで判断して、さらに噂や独断や偏見で決め付けて悪く言う。これ以上見苦しいことは無いな」
 同じ学科の奥沢浩樹(おくさわ こうき)君。学年の主席だから、学校内ではちょっとした有名人になっていた。
「見苦しいはちょっと言いすぎだけど……そうね。外見と中身は必ずしも一致するものじゃないし」
「浅香さんはすっごく真面目だし優しいんだよ! そんなこと言っちゃ駄目だよ!」
 美作香佑(みまさか こう)さんと、綱島香織(つなしま かおる)さんもいる。違う大学を卒業した後にここに来た美作さんは、おしゃれでとても大人っぽい女性。奥沢君の従姉妹の綱島さんは、逆に明るくて可愛らしい。人見知りも差別もしないから、しょっちゅう男の子が噂している。
 周囲でざわついていた人が、気まずそうに散っていく。申し訳なくて、同時にひどくいたたまれなくなる。後ろめたい気持ちが急かすまま、私はとっさにきびすを返した。
「あ、浅香さんっ」
 それに綱島さんが気づいたらしい。足と息と思考が、同時に止まる。
「あんまり気にしないほうがいいよ」
 肩に触ろうとする彼女の手から、私は逃げた。逃げたと分からないように、さりげなく足を後ろに送る。立ち位置を少しずらせば、避けたとは分からない。
 誰かに触られることは、好きではない。何をされるのか分からない、それがひどく恐ろしかった。けれど、今これを言ったらは傷つく。綱島さんはとても優しい人だから、傷つけるのは嫌だ。
 幸い綱島さんは不思議そうな顔をしただけで、気づいていないみたいだった。
「ごめんなさい……綱島さん。でも、私なら大丈夫だから」
 うつむいた先、彼女の爪先が見える。可愛い桃色のサンダルで、細かい編みこみにビーズがあしらってあった。綱島さんだから似合う、女の子らしいデザインだ。
 私とは、根本から違う人だから。どうあがいたって、私は彼女のようにはなれない。
「浅香さん、無理してない? 大丈夫?」
 もう一度手が伸べられる。これ以上は駄目だ。さらに一歩後ずさって、私は半ばうわ言のように叫んだ。
「大丈夫だから……! ごめんなさい、さよなら……!」
 叫んで、走った。息が切れる。苦しい。心の中で何度も謝りながら走った。早くここから逃げ出してしまいたかった。
 その途中で誰かに肩が当たり、よろめいて立ち止まる。
「あ、れ……浅香さん――?」
 戸惑ったような音、彼の声だ。あの三人と仲の良い、綿津見亘理君。
「どうかしたの。そんなに走ってたら危ないよ」
 声が、硬い。顔を見ることができない。私は鋭く痛む胸を押さえて、ただ黙っていることしかできなかった。
 いつも柔らかな笑顔をしている彼は、私を見るときだけ、別人のように冷たい眼差しをしている。避けられていることは知っていた。他の人と比べるわけではないけれど、態度や瞳に浮かぶ感情で分かる。
 彼は、私のことを嫌っている。そして私はきっと、彼に好かれることなんてできない。
 私は顔を上げないまま隣を走り抜けた。走った。走った。苦しい。呼吸ができないからなのか、それとも別の理由があるからなのか、私には分からない。電車に飛び込んで、乱れた息を整える。乗っている人が驚いたように私を眺めたけれど、一分も過ぎればそれもなくなった。
 マンションに帰ってから、ベッドに体を放り投げる。視界の端に映る髪の色、不意に哀しみがこみ上げてくる。
 このまま消えてしまえれば、どんなに楽なのだろう。このままいなくなってしまえば、どんなにみんなの気持ちが楽になるのだろう。今すぐいなくなれれば、今すぐ消えてしまえればいいのに。
 そうやって心の中で願っても、どれだけ望んでも、結局私には消える勇気なんてない。消えようと思って、でも直前で恐ろしくなって踏み留まってしまう。そしてまた他の人に迷惑をかけて生きていくしかできない。
 自分に酔っているだけなのだと思う。可哀相なヒロインを気取っているだけだ、と言われても仕方がない。
 だけど。だけど――ここにいる意味も分からないままで、自分の生きている意味も分からないままでいるよりは。そのせいで周りに嫌な思いをさせてしまうよりは……自分がいなくなってしまうほうがいいと、思わずにはいられない。
「どうして」
 シーツに染みが出来る。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「どうして、私、ここにいるの――……」
 答えを返してくれる人はどこにもいない。
 ゆっくりと押し寄せてくる眠気にさらわれる。目覚めのときが来なければいいと、溶けていく意識の隅で願った。



 翌日、朝の九時前、一限目が始まる前。ロッカーを開いたとき、いくつか封筒が入っているのに気づいた。
 最近多い。一通封を切る。周りの気配が少し、気になった。
 手紙にはこう書いてあった。
『キモイよ男のくせに!! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね!! お前なんか死んじゃえばいいんだ! ゴミ!!』
 きっと、体育の着替えを見られていたのだろう。気持ち悪い思いを、させてしまったのだろう。申し訳なくなってくる。
 手紙をたたんで、かばんにしまう。誰かがくすくすと笑う声がしたけれど、笑った人が誰かを確認する気にはなれなかった。これは、私がいけないことだから。仕方のないことだから。誰も悪くない。手紙を出した人も、今笑った人も悪くない。
 涙を必死に堪えて、私は教科書を手に取る。と、教科書の奥に何かがあるのが分かった。
 かばんだ。色は黒くて、ファスナーがしまっている。わりと小ぶりの、手で持つタイプのもの。シンプルな作りだった。男性用かもしれない。
「これ、誰の?」
 近くにいた男の子に聞いても、彼は首をひねるだけだった。中を見てみれば分かるんじゃない、と提案され、了承の意を込めてうなずく。もし何かに名前があれば、学生課に届けてあげられる。間違えて私のロッカーに入れてしまったのだろう。
 ファスナーを降ろす。かばんの中には、小さな黒猫が入っていた。
 命を宿さない、小さな小さな子猫の体が。もう血の通わない、冷たく硬くなった子猫の体が入っていた。
 首を切られて、手と足とを切断されて、金の瞳が私を見つめて、額には紙切れ、『猫、好きなんですよね? アナタにコレをさしあげます きっと喜んでくれますよね? アナタのコトが、ダイスキですから いつでもアナタを見ています』、それで、それから。
「――ッ、っ!」
 声が、でない。喉が渇いてからからになっている。手足が痺れている。重い。ひどい。取り落とす前にかばんを抱きしめて、足から力が抜けて座り込んだ。
 どうしてこんなことを。この子は何も悪くないのに。まだ小さくて。本当に小さくて。きっと、ようやく歩き始めたばかりの。歩くのがやっとくらいの。本当にまだ、こんなに小さいのに。私のせいで。私のロッカーに入れられるために。こうやって命を奪われて。
 私のせいで。私がいるから。
 どうして私は、他の人に迷惑しかかけられないの。

 どうして。

 小さな亡骸の感触だけが、遠のく意識の下で最後まで残った。



 次に目を開けたとき、見慣れた天井が広がっていた。白くて高い天井と蛍光灯、自分のマンションの寝室だった。
「あれ……」
 起きると少しだけ頭がくらくらした。ぼんやりしている。
「私……どうしたんだっけ」
 呟いて、途切れる前の記憶を探り出してみる。学校に行って、気を失って。そうだ。私は倒れたんだ。一限目が始まる直前に、猫の――
 突然フラッシュバックした映像に悲鳴があがる。あの子。あんなに小さかったのに、一体誰がこんなことをしたのだろう。あの子は、何も悪くないのに。嗚咽が零れた。
 私のロッカーに放り込まれるためだけに、生まれたばかりの命が奪われた。一生懸命に生きていた命を、顔も知らない誰かは奪い取って、滅茶苦茶に切り刻んでしまった。
「……ごめんね……」
 名前もない小さな黒猫に、私はただ謝ることしかできない。
「ごめんね、……っ――ごめ……ごめん、な……さい……っ……――!」
 私のせいで、あの子はあんな酷いことをされてしまった。私の、せいだ。

 泣き疲れては眠り、眠っては目が覚めることを繰り返した。ひとしきり泣いて落ち着いてから、今日やるはずだった授業を自分なりにさらい、水を飲んで本を読む。
 学校には戻る気になれなかった。問題を置き去りにしたままなのは心苦しいけれど、怖い上にショックで外に出ることができない。
 しばらく本を流し読みしながら、ふと思う。どうやって帰ってきたんだろう。帰ってきてからの記憶が無い。倒れたなら、保健室で目が覚めるはず。誰かがここまで連れてきてくれたのか、それとも覚えていないだけで自分で帰ってきたのか。
 いくら思い返しても駄目だった。そこの部分だけが虚ろに抜け落ちていて、どう頑張っても欠片すら出てこない。素直に諦めて、置いてある水差しに手を伸ばす。
 窓の外は夕暮れ、橙色に柔らかく染まっている。結局、学校に行ってないのと同じになってしまった。水を少し飲んでから横になる。
 何も食べたくない。朝の黒猫の変わり果てた姿が目に焼きついてしまって、食欲が湧かない。体がだるいのは、きっと水分が足りないからだろう。もう一杯水を飲み、目を閉じる。そして、私への『プレゼント』にされて死んでしまった子猫のことを思った。

 携帯が鳴った。遠い親戚の人からの電話、出ないと後で怒られる。私は重くなっている手を伸ばし、通話ボタンを押した。

(初回:2006.6.29 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)

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