泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
2−2
夕方と夜


 俺は手を伸ばして、鳴り響く携帯の通話ボタンを押した。
「はい」
『な、何でも屋さんですか』
 鼓膜を打つのは男の声だ。年は二十代の前半といったところか。
「仕事の依頼か、それともおふざけか」
『ち……ちゃんとした依頼、です、よ』
 どもりながら返事がされる。クールを装うとしているのがバレバレだ。普段もそんなキャラ演じてるなら、たかだか『何でも屋』風情相手でもそれを貫いてほしいもんである。
 上ずった語尾に苛立ちながら、俺はわざと馬鹿にした調子で問い掛けた。
「お前、俺が誰か分かってんのか? 罰ゲームならさっさと切んな。今なら腕と足だけで勘弁してやんぜ、オニイサン」
 相手が生唾を飲み込む音がする。耳障りだった。
『な、何でも屋、の……「狂える快楽主義者(クレイジーヘドニスト)」さん、で……ですよね……』
 まずは上出来。
「ご名答」
 口笛を吹いてやれば、相手はようやく安堵のため息を漏らした。
 俺は基本的に、通り名を知っている奴からの依頼しか引き受けない。通り名の意味を理解しており、そこから推測される特性や性格を把握しており、なおかつそれに見合う対価を用意できる人間でなければならない。この質問には、そういう奴を選別する意味がある。
 なお、依頼はメールまたは電話を通じてのみ行われる。直接会って交渉はしない。寝首をかかれるのを防ぐため、それから俺が相手を殺さないようにするためだ。取引相手を殺したらお話にならないことくらい分かっている。
 分かってはいるが、俺はいざ生身の人間を前にすると、どうしても喉をかっ捌きたくなってしまう。最初の頃なんかは、交渉の途中でつい手が出たことも少なくなかった。
 俺自身、自分のことながらこれにはちょいと困って、考えあぐねた結果が今の取引形態というわけである。ある意味では成功したと言えるだろう。もっとも……反動がでかくなったおかげで、ちょっと暴れたくらいじゃ物足りなくなったけれども。
『お金さえ払えば、何でもやってくれるっていう』
「はン。金だけじゃ俺は動かねぇよ。内容と金額を提示しろ。それで決める」
 嘲笑を混ぜた俺の返答に、相手は少なからず戸惑ったらしい。一呼吸の間が開く。
『……え? それなりにお金払えば、全部やってくれるんでしょ?』
「『狂える快楽主義者』はその名の通り、快楽を追い求める狂人だぜ? いかに俺をソノ気にさせるかで全部決まる。つまらなかったら途中でやめるぜ。前金だけいただくことになるが」
 俺の名前を知ってる割に、俺の噂は知らないらしい。喉で嗤うのが分かったのだろう、相手は気まずそうに咳払いをした。
『前金は、前金はいくらなんですか?』
 誤魔化すような早口で急きたてられる。こんな面倒な奴を相手にしている暇はないが、何となく遊んでみることにした。
「全体報酬の四割」
『よ、四割ですか? そんなに……』
「てめぇの保険だと思えば安いもんだろ。俺ぁ気が短ぇからな、下手したら依頼人の首飛ばしちまうんでね」
 前金を支払われた時点から「仕事の完遂する」あるいは「こちらが依頼を放棄する」まで、依頼人には一切手出ししない。まずこれが、契約を交わした時点で生じる俺の義務。
「それで俺が依頼を完遂した場合、期限内には絶対に金を用意してもらう」
 依頼人は先に報酬の四割を前金としてこちらに渡し、依頼を完遂してから期日までに残りの六割を必ず支払わなければならない。次にこれが、契約を交わした時点で生じる相手の義務。
「言い値を払わない場合や踏み倒そうとした場合、命の保障はねえ」
 依頼人が言い値を払わないとき、または踏み倒そうとしたときのみ、俺が直接出向いて足りない分を支払ってもらう。が、その場合の支払いは金ではない。俺が『対価』だと認めているもので払ってもらう。
 俺にとって対価たりえるものは殺しの快楽だけ。殺戮の瞬間に閃くあの一瞬の快楽でなければならない。命が潰れる感覚があれば、あの愉悦を味わえれば、俺は四割の報酬しかもらえなくても満足できる。
 正直なところ、俺は金自体に対する関心が薄い。ここで金が云々としつこいくらいに言うのは、一般的な価値観を引っ張り出して絡めることで、依頼人に契約を意識させ義務感をあおるためだ。あとはまぁ、何だかんだで無いと生活できないからというのもある。
 ともあれ、俺は依頼を請けるにあたり以上の条件を提示する。この条件で相手が承諾すれば、晴れて契約成立となる。我ながら随分と譲歩した内容だが、こうでもしなければ相手が怖気づいてしまうのだ。
 落ちてくる髪を何度もかきあげながら、俺は相手に再度囁きかけた。
「そういうことも含めて俺に依頼するっていうんなら、聞いてやってもいいぜ」
 また、間が開く。
 さあ、どうする。金に物を言わせるか、それとも驚くほどに優良な物件を持ち込んでくるか。俺を満足させるだけの依頼を持ち込んでくるだろうか。
 俺が三回足を組み替えてから、ようやく言葉が返された。
『……依頼なんですが』
 腹を決めたらしい。男はこう切り出した。
『とある女の子を調べて欲しいんです。何度か探偵に頼んだんですが……みんな分からないと首を振るばかりで。一千万、出します』
 少しばかり期待していたものとは異なったが、これはこれで面白いかもしれない。探偵に依頼しても探れない女のこと。秘密主義なのか。それとも気づいていて、既に対策を打っているのか。一千万も出してくるとなると、相当なものらしい。
 なるほど、そういう楽しみ方もありか。すべてを徹底的に暴いていく、あの爽快感。何度かこういった仕事は請けたが、あれもなかなか病み付きになる。
「女の名前は」
 先ほどとはまた違う期待を込めて、俺はターゲットの名前を聞く。こういうところからだって、データを取ることは造作もない。
『浅香梔子、というんです。彼女はですねぇ』
 すると男は、待ってましたと言わんばかりにマシンガントークを開始した。口を挟む隙もない。おまけに口調も先ほどとは打って変わり、ねっとりとした気色悪いものになる。耳から生ぬるい息を吹き込まれているような、悪寒がする喋り方だった。いや、実際電話口から妙に荒い息が漏れ始めている。
 これじゃマジもんの変態じゃねぇか。こんな奴に絡まれるなんて、本当についてねぇ奴だな。俺は心の中で、ぼんやりとそう思ったのだった。

 ともあれ、男の主観と勝手な思い込みを多大に含んだ説明は、実に三十分以上展開された。ざっと噛み砕いて言えば、こんな内容である。
 初めて会ったのは一年生のとき。教室が分からずに困っていた自分に道を示してくれたのが彼女だった。らしい。天使のような美しい笑顔と、そこに含まれた憂いが、男の心を奪った。らしい。目立つ赤毛と緑の目、成績もいいためすぐに検討がつき、それからずっと彼女を見つめている。らしい。猫が好きで、この間黒猫をプレゼントした。らしい。とにかく愛している。らしい。
 「らしい」が多いのは、ほとんど聞き流していたからである。実際はもっと長くてねちっこかった。気持ち悪いことこの上ないが、まあこういう男にはつきものだろう。要はストーカーしてますといいたいのか。冗談じゃない。
 鬱陶しい。勝手に喋りたいなら壁にでも喋れ。そう突っ返せば意味不明な反論をされ、ぶち切れて電話を切った。交渉は決裂だ。何が「僕と彼女は結ばれる運命なんですから早く調べてください」だ。本気でどうかしている。
 携帯をソファに放り投げてから、俺は同居人の様子を窺った。
 同居人は眠っていた。深く、深く眠っていた。俺が多少暴れても起きないほどに、深く、深く眠っていた。何となく安心して、パソコンに向かう。人の気配が残ってる気がするが、同居人のところを訪ねてくる奴なんていないはずだ。誰か入ったのか? まぁいいか。それより頭が痛い。面倒臭ぇな。だから引きずられるのは嫌なんだ。
 メールをチェックする。依頼数は総計五百件以上。どれもこれもつまらねぇ依頼ばかりだ。こんなことで俺が動くと思うか。即行消去。消えてる間に電話が鳴る。手を伸ばしてボタンを押す。しゃがれた男の呟きは、電波にかすれて聞き取りにくい。
『「首切り双刃」に話がある』
「何だよ。俺ぁ今うんざりしてるんだ」
『鬱憤晴らしに丁度よいだろう。ある男を殺してきてほしい。期日は翌日だ。機密文書を持って逃走した。私の立場に関わることなのだ、金はいくらでも出す』
 機密文書。瞬時に商売敵の顔が出てきて、俺はますます憂鬱になった。
 いつもにやにやしているあの男。『荒ぶる海魔』、情報屋の浪という。長年の商売敵だった。重要な文書を持って逃げているというなら、奴もそれを狙うはず。
 ならその前にターゲットを殺せば問題は無い。殺して文書の内容を覚えて一緒に切り刻んでしまえば、多少は嫌なことも忘れられるだろう。特徴を聞き出してから、仕事に取り掛かることにした。
 依頼人からメールで送られてきた写真を眺める。中肉中背の中年、特に面白い外見でもない。妻子はおらず、独身。住んでいた場所が現在空き家、現在居場所は不明。雲隠れしたというわけだ。
 が――
「……へっ……これも運命って奴かよ? 神様とやら」
 それは、俺がよく見知っている顔だった。

 夕闇の中を潜り抜け、俺はターゲットを探る。ターゲットはゆっくりと歩いていく。気づいた様子は無い。人通りはまばら、だがまだ多い。
 俺はわざと足音を立てて、ターゲットを追いかける。気づいた。振り向けば隠れる。またつける。その繰り返し。幼稚だが、精神的に追い詰める効果がある。
 やがて相手が走り出した。恐怖に負ければこちらのもの。足が時折もつれて、つんのめりながら走っている。わざと追い立てて、走る。右へ、左へ、人気のないほうへ。追い詰めていく。路地のどん詰まりだ。ターゲットが立ち止まり呆然とする。そのまま殺すのはつまらない。俺は姿を見せてやった。
「よお。久しぶりだな」
 俺は嗤いの形に唇を歪めて、ゆっくりと相手に問いかける。
「覚えてるか、俺のこと?」
 恐怖に見開かれた目、わななく唇、頭は禿げかかっていた。頬骨も出て、写真よりも大分印象が変わってはいる。それでも俺は覚えている。忘れもしない。
 俺を人間でないものにした男の一人なのだから。
「え……X‐二〇……」
 懐かしい呼び名だ。笑いがこみ上げてくる。
 個体識別のために与えられた記号がXで、丁度二十人目の子どもだからTwenty。実験対象の子どもたちに与えられた識別番号、それが唯一の名前だった。
「馬鹿な……馬鹿な、どうして」
 ターゲットはただ繰り返す。目を血走らせ、筋肉を痙攣させてうわ言のように繰り返す。
「おいおい、何だ? ゾンビでも見たような顔してんじゃねぇか。ハハ、それとも何だ? 今更人間扱いしてくれるってぇわけか? 都合のいい頭だなァ」
 俺は笑った。規則正しく動いている己の心臓の真上に指を当てて、微笑んだまま言ってやる。
「何度も何度も何度も何度も薬打ってデータを取るためだって放置して、自分らの機嫌が悪けりゃ八つ当たりして、水責め火責め油責め火傷しようが溺死しかけようが骨が折れようが吊るし上げて殴って蹴って、生かされもせず殺しもされず――どれだけ死のうとしたってどれだけ生きようとしたってお前らはそれを妨害して、だから俺ぁどっちつかずの化けモンになっちまったんだろ」
 生きることも許されず、死ぬことすら許されない。生きているともいえない、死んでいるともいえない状態で、ただ部屋の隅で震えているしかできない。首根っこを引っつかまれ蹂躙され実験を繰り返されるその度に、土足で踏みにじられる心はぐずぐずと腐っていく。
 そんなギリギリの極限状態から生じた歪みと、実験の相乗効果から生まれた怪物――それがこの俺というわけだ。悲劇だなんて生ぬるい、地獄から生まれたモルモットの成れの果てだ。
「ど、どうしてお前がここにいるのだ……お前は確かに、廃棄処分にしたはず――なのに……」
「そういや、そうだったなぁ」
 散々体中をいじくった挙句、散々命令して散々強要して散々罵った挙句、自分たちの望まない結果になったから『廃棄』したガラクタ。自分たちの思う通りに動かないものは、性能がどれだけ高くても失敗作でしかない。一度失敗すれば、もう絶対に修正することは不可能だから。
 だから俺は処分された。追放の証を刻まれ、施設の屋上から生きたまま投げ捨てられた。
「それじゃ、こんな体にしたのはどこの誰だ? こんなものを作ったのは、一体どこの誰だってんだよ」
 男はただ、口を開閉するだけだった。金魚を思わせるが、こんなしわだらけの金魚はごめんこうむりたい。
「あぁ、いいこと思いついた。俺を作ってくだすった恩人のあんたに、俺から最期のプレゼントだ」
 近づく。わざと甘い声音と言葉で、俺は優しく囁きかける。
「お前にも、俺と同じことしてあげる」
 近づく。指を滑らせたナイフの柄が、擦れてかちりと小さく鳴いた。
「……失敗作に、してやんよ」
 叫ばれる前に口を塞ぐ。思い切り体重をかけて後頭部を壁に打ち付ける。手のひらをたたくのはくぐもった呻き。まだ生きている。ナイフを翻す。手首を切り落とす。腕を落とす。悲鳴などあげさせない。耳を削いで、目をえぐって、腹を捌いてはらわたをかき乱して、とうとう相手が動かなくなった。
「目ぇ深く突きすぎた」
 加減ができなかったか。軽く肩をすくめてから、肉塊と化した相手からナイフを引き抜いた。濃い血の臭いが、あたりに澱んでわだかまる。コンクリートの壁に散った色は、徐々に酸化して鈍い黒を帯びていく。
 無性に腹が立って、死体にもう一撃くれた。死体は無様に体を折り、臓腑を腕に絡めたまま止まった。
「簡単に死にやがって。ふざけんな」
 苛立たしさのままに肉塊を仰向けに蹴り転がす。紅い染みのついた文書が襟元から覗いたとき、ようやく仕事のことを思い出した。
 血溜まりに浸かったそれを拾い上げる。もう使い物にはならなそうだが、とりあえずこれで任務は完了だ。
 背後に気配がする。闇だろうそこへ目を向けて、夜に溶け込む男を認めた。
「おっとっと。参ったな。それじゃあ読めないじゃねえか」
 言葉に似合わぬ笑みを浮かべ、男は――俺の商売敵は言う。胸に引っ掛けた鮫の牙が、闇に浮いて見えた。
「お前も随分と容赦ないな。何か因縁でもあったのか?」
 『荒ぶる海魔(リヴァイアサン)』、情報屋の浪(ろう)。ありとあらゆる情報に精通し、一度尻尾をつかまれれば最後、海の魔物が獲物を食い尽くすように、たちどころにすべての情報を握られてしまうという。情報は全て正面切っての堂々勝負、情報の提供を拒絶すれば、津波のごとく相手を飲み込み翻弄し、全てを破壊し殲滅しつくして帰る。恐ろしい男だ。
 分かっていてわざと聞く。つくづく性格の悪い奴である。聞こえるように舌打ちをしたが、奴はにやにやと笑っているだけだ。
「……お前には関係のねぇ話だよ。さっさと失せろ」
「その文書、いつも通り持ってこうかと思ったんだが……気分じゃない。やるよ」
 会話がかみ合わない。再度舌打ちをしても、奴は綺麗に無視をした。ふてぶてしい笑顔のまま腕を組み、かすかに首を傾けて話を振ってくる。
「ああ、そうだ。お前にちょっとばかり聞きたいことがある」
「てめぇに話すことなんかねぇよ」
「今朝方に事件が起こったんだけどさ」
 話すら聞いていない。この男はどれだけ、俺の神経を逆なですれば気がすむのだろうか。
 今すぐそのうるさい口から二等分にしてやろうか――思いながら、手袋の上から右手の親指を噛む。慣れ親しんだ痛みと歯の感触に、気休め程度ではあるが少しだけ気が晴れた。
「とある私立の大学で、生まれて一ヶ月も経ってない黒猫の赤ちゃんが、首と手足とをバラバラにされて、かばんに詰められていた。かわいそうにな」
 舌先に残る革と鉄錆の味を、唾液に混ぜて吐き捨てる。ついでに質問も投げつけてやった。
「それが俺に何の関係があるんだよ」
 奴はただ笑っている。目だけが笑っていないのは毎度のことだ。こいつは俺を警戒しているし、俺もこいつが嫌いだった。お互い様とか言うやつである。これからも仲良くはできないだろうし、仲良くする気なんて毛頭ない。
「……そのかばんが入れられていたロッカーの持ち主は、すごくショックを受けた。可哀相なことに、気を失って倒れてしまった」
 付き合ってられるか。そもそもこいつとだべっている時間など無いのだ。仕事の完了を伝えなければならない。ポケットから携帯を取り出してダイヤルする。
 呼び出し音が鳴る奥で、『海魔』はなおも言葉を紡ぐ。
「その子、浅香梔子っていうんだけど……やったのは、お前か?」
「ふざけんな。あいつに嫌がらせして何のメリットがあるってんだよ、ちっとは考えろカスが」
 電話が、繋がった。

 ――浅香梔子。
 おどおどしていて、臆病で、生きていることも死ぬこともできない馬鹿で。

 性質の悪い、俺の同居人だ。

(初回:2006.7.1 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)


2-3 昼と、朝と夕方
1-1 昼と、昼



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