泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
6−3
彼と『彼ら』とその他大勢、共有する時間


「おめでとさん」
 なぜかにやつきながら香佑が言った。
「いや、何が」
「何がって、怪我の功名おめでとさん」
 全然説明になっていなかった。
「ついに亘理も彼女ゲット?」
「人をモテないみたいに言わないでくれます」
「告白されてるのに振る男なんか、みんなモテない男でいいじゃない」
「今あなたは全国の告白されて振った男性を敵に回しました」
「それにしてもさあ」
 無理やり話題が転換された。
「しばらく見てないと思ったら、ものすごく仲良くなってるんだもの。驚いたわ」
「あぁ、何かと思ったら浅香さんのことか……」
 今では例の場所で、仲良く話をしたりする仲になった。彼女は聞き上手だし、驚くほど知識が豊富で話題が尽きないのだ。神話や伝説、オペラのこと、西洋の文学、猫のこと、猫のこと、猫のこと。ドイツ語やフランス語の原書を読んだりしていることが、ここ最近の付き合いで分かった。
 ちゃんとした意味は分からないけれど、ここはこういう意味なのかな、とか、そうやって想像を膨らませて読むのが楽しいの。あの柔らかく諭すような口調で嬉しそうに語る彼女を、何となく眩しく思うようになってきた。それも、つい最近のことである。
「恋ね。恋だわ。絶対恋」
 断言されても困る。
「その答えは、あとでちゃんと自分の心が出しますので」
 左手でグラスに浮いた水滴を拭いながら、香佑は本当に普通に切り出した。右手はストローでせわしなく中身をかき混ぜている。
「んじゃあ、弟切ちゃんとも恋愛してるの?」
 口に含んでいたアイスコーヒー(自作)を、思い切り香佑にぶっ掛けてしまった。あぁ、もったいない。せっかく美味しく淹れられたのに。
「ちょっとー何すんのよー」
 大して慌ててもいない口調で、香佑は手早く雫を拭う。キャミソールに染みができてしまったが、たぶん義兄さんが染み抜きをしてくれるだろう。かわいそうな義兄さん。
 って、いや、問題はそこではない。彼女のことはともかく、『彼』のことはあのとき以来話していない。ましてや名前があることなんて、ほとんどの人間には知られていないはず。それを弟切ちゃんということは、それは、つまり、あの。
「まさか……最初から浅香さんの正体を知ってたのか?」
「知ってなかったら、責任取れなんて言わないわよ。むしろ全力で止めるわ」
 だからあんなに思わせぶりだったのか。結果としてはオーライで、むしろ成長できたはずなのに、何だか損した気分になるのはどうしてなのだろう。
 脱力する俺の耳に、インターフォンの音が飛び込んできた。少しの間を置いてから、もう一度。それが彼女の癖だった。それ以降はたぶんならない。そういう性格だから。
 玄関に行って扉を開けると、透明な紅い髪の女の子が立っていた。レースをたっぷりあしらったクリーム色のワンピースに、薄手の白いカーディガンを羽織っている。髪の色も瞳の色も、それによく映えていた。はにかむように微笑みながら、彼女は小さく頭を下げる。
「お邪魔します。あ……美作さん。こんにちは」
「いらっしゃーい。ごめんねぇ、うちの旦那今寝てるから挨拶できないわ」
 ちなみに、義兄さんも最初から彼女のことを知っていた。よくよく考えればこの二人、昔『彼』とやりあって生き残った、数少ない生存者なのだ。知らないはずがない。おまけに一級の情報屋、知らなかったらおかしい。あのときは切羽詰ってたからなあ。全然そこまで考えてもいなかったなあ。
 彼女の後姿を何気なく眺めながらしみじみ思う。彼らのことを受け入れるきっかけになったあの事件から、既に一週間が経とうとしていた。学校も落ち着きを取り戻し、日常が日常として再び動き始めている。そして、俺たちは少しだけ変わり始めていた。
 一番変化したのは、やはり彼女である。あれだけ避けていた綱島さんや奥沢君と、積極的に交流を始めたらしい。綱島さんは手放しで喜んでくれたし、奥沢君は……まあ、性格上分かりにくいが、たぶん、喜んでいるだろう。たぶん。この間聞いたら「語り合える人ができたな」的なこと言ってたし。彼女も怯えてなかったから、そこそこうまくいっているに違いない。
 何よりも、うつむかなくなった。真っ直ぐ前を見て歩くようになった。それから、以前よりも笑うようになった。俺と二人きりのときは、声をあげて笑うこともある。それが嬉しい。一度深く傷つけてしまったから、それだけが後ろめたかったけれど、結果としてそれがよかったのだと思う。大きく踏み込んでいかなければ、分からないこともあるのだと理解できたから。
 俺も、人の表面だけを見て判断することをやめてみた。結果として分かったことがある。案外いい奴も案外悪い奴も思ったよりずっと多かったということだ。人間いかに外面がいい奴が多いのか、身にしみてよく理解できた。男にだけいい顔する女の子とか、その逆とか。まぁ、人間社会なんてこんなものだ。
 『彼』とは――
「とうっ」
 あ、鳩尾に拳が。何してるんだあの女。
「いってぇ! てめぇ何しやがるこのクソアマ!」
 ――こんな感じで、突然会う。タイミングはよく分からない。彼女が気絶すると自動的に出てくるようだが、毎回というわけではないらしい。『彼』も出てこられないことがあるそうだ。彼女の具合が悪いときは、一日中『彼』の場合もあるし、逆に『彼』が疲れていると、彼女が一日中表に出ているのだという。今までもそうして支えてきたのだから、これからもそうあるのだろう。口では文句を言いながら。神出鬼没ぶりは相変わらずだが、以前よりも多少は「死」に関することを口にしなくなった。
 証人になってくれるんだろ。それが、改めて会ったときの『彼』の第一声だった。そして珍しく――本当に珍しく、少年のような顔で、笑ったのだった。
「おい浪! 何とかしろ!」
「『真紅の魔物』には叶いません。だって魔物だぞ。ただの海の王者が叶うわけないじゃん」
「意味分かんねぇぞ!」
「キシャー!!」
 香佑が妙な声を発しながら、彼女、いや『彼』に飛びかかる。いじくりがいのある弟がもう一人できたことで、ここ数日テンションがやたら高かった。『彼』が出てくるたびに、こうしてひたすらいじめている。愛情表現だとは分かっているが、例のコーヒーのときはさすがに止めた。
 ……つーか、いきなり来客を気絶させるなよ。
「弟切ちゃんパンツ何色!?」
「変態だ! 変態がいる!! あ、やめろ馬鹿めくるんじゃねぇ!」
「やっほー! みんないるー?」
 とんでもないタイミングで、綱島さんと奥沢君が入ってきた。五秒ほど硬直し、そそくさと入り口に戻っていく。自分で呼んでおいて自分で忘れていたらしく、香佑はしまった、という顔をした。一応学校ではクール系姉御で通っているのだが、それを自分でぶち壊したのが恥ずかしいようである。
「やっほーごめんね! お邪魔しました!」
「とんだ招待を受けたもんだな」
「いや……入ってきていいよ……」
 荒く息をついている『彼』を手招きして呼び、香佑を向こうのソファへと追いやる。パンツ見てないー、と唇を尖らせて文句を言っていたが、あえて聞こえないふりをした。何だよパンツ見てないって。意味が分からない。安堵のため息を落とした『彼』へ、小さな声で囁く。
「戻っていいぞ」
「そうするに決まってんだろうが」
 疲れ果ててはいるものの、どこか満足そうな様子だった。唇の端には、薄っすらと笑みが乗っている。『彼』もそれなりに楽しかったのかもしれない。
 俺の肩に額をつけて、少しの間目を閉じる。そんな俺たちの向かいでは、綱島さんが無邪気に問い掛けていた。
「スカートめくりして遊んでたの?」
「ただめくってるだけじゃないわよ。スキンシップ」
 この女、いけしゃあしゃあと答えやがって。パンツ何色とか聞くスカートめくりなんて、変態以外の何者でもないだろう。義兄さん今度は首に綱つけておいてください。こいつのほうが危険人物です。
「随分スキンシップ過多だな」
 呆れる奥沢君に、香佑はちちち、と指を振る。元が綺麗なだけあって、悔しいくらいによく似合っていた。
「これくらいじゃないと分からないのよ。この子たちは特にね」
 香佑と俺の視線の先、ちょうど目を開いた彼女が、不思議そうに瞬きした。『彼』と共有する碧色が、今は優しい光を帯びている。
「愛情は、身体全体で表現するものなのよ。ね、深悟」
「うん。香佑、コーヒーくれ」
 たとえ髪が寝癖まみれでも、イケメンはどこまでもイケメンだった。どこか寝ぼけたような目で、義兄さんは彼女に笑いかける。
「浅香さん。そういうことだ。この家で、溢れるばかりの愛情を『彼』と分かち合ってくれ。何、いざというときは俺の義弟が助けてくれる。ゆっくりでいい。少しずつ、知っていけばいいからな」
「え? あ……はい」
 彼女は少しだけきょとんとし、恥ずかしそうに微笑んだ。それから俺のほうを見つめて、微笑を笑みへと昇華させる。
「これからもよろしくね、綿津見君」
 何だか俺がプロポーズした後みたいだな、なんて、ちょっと思った。

「あ! そういえばね、虹が出てたんだよ! すっごくいいお天気だよ!」
「今日は一日中快晴だって言ってたしなー」
「そうだ、外にテーブルでも出してお茶にしましょうか」
「……あの、旦那さんが倒れてるんだが……これはいいのか」
「愛情たっぷりのコーヒーに昏倒してるだけよ。亘理! テーブル出して」
「はいはい……人使い荒いんだから」
「あ、わ、私も手伝う」
「いや! 浅香さんは待ってて。これは男のやることだから」
「らぶらぶだね!」
「ラブラブだわ!」
「外野は黙っててください。特に俺の姉のほう」

 こんな騒がしい、でも穏やかな関係がずっと続くといい。あの部屋は、これからきっと人の住む場所になる。彼女も『彼』も、ずっとこうしていられるといい。生きていると実感ができるように、俺が手伝ってあげられるといい。
 そんなことを願いながら、俺は彼女と空を眺める。
 明日もきっと、綺麗に晴れるに違いない。涙に濡れた花々の聲を、蒼の中に吸い込んで、温かな陽射しへ変えて降り注ぐに違いない。そうであるといい。きっと、そうなる。

 庭の木陰に零れる陽光が、『彼ら』の髪を透明な紅茶の色へと染め上げる。確かにこれは恋かもしれないと、心の片隅で何となく思った。





泪濡るる花々の聲 完





(初回:2008.10.23 更新:2009.1.10)


6-2 『彼』と彼の、夜



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