泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
5−2
昼――『彼』と彼の時間
目を開く。見飽きた商売敵が、俺を抱えている。あぁ畜生、分かってたけど最悪だ。 「お目覚めですか、眠り姫?」 「……てめぇ、何の真似だ」 にらみつけると、奴は例の笑みを浮かべて嘯いた。 「女性を守るのは男の役目、女性を助けるのが男の義務。据え膳食わぬは男の恥、ってね」 相変わらずふざけた物言いをする。俺は奴の手を払って立ち上がった。指の感触がやけに生々しく、肌に残っている。 「俺は男だ」 「お前のことじゃない」 奴は言って、俺を……俺の胸を、示した。忌々しいあの刻印を、そこに刻まれた否定の証を、示した。 「お前の中にいる、彼女だ」 「ああ?」 「俺の勘違いで、随分傷つけちゃったからな」 ――その、目。もう、笑ってはいない。表面に映る俺の顔は、我ながら腹が立つほど間抜けだった。 「うるせぇな、偽善者ぶってんじゃねえよ」 見たくない。無理やり視線を引き剥がして吐き捨てる。 「心にもねぇこと、よく言えるもんだぜ。かわいそうだとか哀れだとか、これっぽっちも思っちゃいねぇくせに」 そうだ。人間という奴は、みんな他人を踏み台だと無意識のうちで思っている。捨てるタイミングを窺いながら、偽善まみれの哀れみやら嘘臭い愛やらを施している。そんな自分に酔いながら、甘ったるい馴れ合い続けているだけ。 「あいつが利用しやすい性格なのは、俺が一番よく知ってる。だから迷惑なんだよ。俺らを巻き込むな。てめぇらの好きな仲良しごっこは他所でやれ」 あいつはこの世界のからくりを理解していない。無知だからいいように利用されて、いいように踏みにじられて、でも分かっていないから傷つくばっかりだ。傷つけられれば自分を責める、それに引きずられて俺までグロッキーになっちまう。壁越しだとはいえ、俺もあいつも根本で繋がっているから余計に面倒くさい。 「俺の代わりはいくらでもいる。あいつの代わりだっていくらでもいる。いてもいなくても結果は変わらねぇんだから別な人間と遊んでろ。鬱陶しいんだよ、一々まとわりつきやがって」 片方は望まれずに生まれた意識。片方は実験で生まれた失敗作。繋ぎとめる楔は一度『死んだ』体。生きてはいない、だけど死んでもいない。引き裂かれた二つの魂が宿っている、どっちつかずの無意味な命。 そうだ。この命は存在している意味がない。俺が今から消えたところで、違う誰かが俺の役目に収まるだろう。あいつが今からいなくなったところで、トモダチだとまとわりついていた奴らは別の誰かとつるむだろう。 今更死に損ないが一人消えたところで、世界が覆されるはずがない。もっとも――元々一度死んでいるんだから、今更もう一度死んだところで同じだな。 「一人ぼっちになりたがるのも、随分困った癖だな」 ため息交じりに奴が言う。 「なりたがる? 違うね、俺はずっと一人だった。これからだって一人だ。誰も信じねぇし、誰にも信じられなくていい」 どうせ理解なんてされないんだから、いっそのことこのままでいい。どうせ理解なんてできないんだから、ずっとこのままでいい。優越感に浸るための踏み台にされるんなら、誰も信じないままで構わない。自己陶酔の材料にされるくらいなら、誰に信じられなくたって構わない。 言外に出たのか、奴は眉を寄せて首を振る。 「それはあくまでもお前サイドの意見だろ?」 「元々この体も意識も全部俺のもんだ。勝手に居ついたあいつの意見なんか、知ったこっちゃねぇよ」 「確かに『お前』はそれでいいのかもしれないし、主導権は確かにお前にあるだろうが」 耳の奥がざわつく。その哀れむような、目が。頭の奥をかき乱していく。 「……同居人である『彼女』にだって命はある。意志はある。考えだって、心だってあるんだ。無視されていいわけないだろ。ずっと一緒にいるくせに、分からなかったのかよ?」 何が言いたい。俺を、どうしたいんだ。意図が読めない。意図が見えない。この俺が、最高階級暗殺者に数えられるこの俺が。たかだか一人の情報屋のことすら分からないなんて。 「ハッ、分からなかったのか、だって?」 腹立たしい。気持ち悪い。苛々する。吐き気がする。 「んな今更なこと、言われなくたって分かってんよ。分かってて、言ってんだよ」 耳の奥で何かが音を立てている。不快なざらざらとした音がする。 「それじゃあ、何でそういうことを言うんだよ。彼女は――」 「……うるせぇなぁ。知った風な口利くんじゃねぇよ」 耳の奥から頭の奥から流れてくる。ざらざらざらざらやかましい音を立ててあふれ出してくる。 「それとも何だ、同じ場所に立って、同じ目線から見てます考えてますって言いてぇのかよ?」 ざらざらざらざらと音を立てて。 「俺の、あいつの腹ん中を何から何まで全部理解してあげていて、それでカワイソウだって思ってますって言いてぇのか?」 目の前がぐらぐらと揺れ動いて、意識の底が焼け付いているような錯覚さえある。あぁ畜生、何だってこんなに体中がざわついて落ち着かないんだ。 「そういうつもりで言ったんじゃない、ただ……」 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい、うるさい。 「……その目をやめろ」 奴は遮られた状態のまま、口を止めた。ただ俺を眺めている。例の笑みを消したまま、哀れむような表情で。 「その、目を――」 俺の映った目が。俺を捕らえる視線が。俺の耳を貫く声が。さっきから止まないノイズが。 俺の意識を。俺の神経を。俺の全部を侵していく。侵されていく――何もかもが滅茶苦茶になって頭ん中を引っ掻き回していく。 割れそうだ。壊れそうだ。おかしく、なりそうだ!! 「――やめろって、言ってんだよ!!」 振り払おうと叫んでも無駄だった。奴の顔は変わらないまま、むしろ哀れみの色を濃くして続ける。 「お前は怯えて、牙を剥いているだけだ。向けられた感情が何なのか、その正体すら知らないから……どうすればいいのか分からなくて怖がっている。それはとても、悲しいことだ」 手が伸びる。誰のものともしれない手が重なって、ねじ伏せていた恐怖と共にまとわりついてくる。 嫌だ。それは、嫌だ。 「さわ、んなっ!!」 払った。乾いた音がして、奴の手はいとも簡単に引き下がる。体温が手の甲に残っていて、そこからじりじりと熱が広がっていく。 「てめぇに、俺の、あいつの、何が、分かるって、んだよ!!」 うまく呼吸ができない。体も肺も心臓も痙攣していて、あの残像が消えない。 奴は宙に浮いた手を戻し、ポケットから紙切れを取り出した。ちっぽけなそれを広げて翻し、小さく首を振る。B5の白い薄いそれには、びっしりと文字が印刷されている。 「ああ、俺は何も分からない。だから俺は、彼女を傷つけたあの日から、お前と彼女のことを徹底的に調べた。『狂乱舞踏』のしてきたことも、お前がされてきたことも、彼女がされてきたことも、一切合財全部をね。とはいえ……紙にすれば一枚分だけしか残ってなかった。ほとんど隠蔽のために処分されたんだろうな。当時の関係者もいなくなってるし、細かいことは聞けなかったが……これだけは分かったよ」 そうして目を細める。黒々とした表面には、俺の顔が映っている。 「意図的に作られた解離性同一性障害……通称、多重人格。お前の同居人――梔子という女性は、幼少期の君が作り出した人格だ。精神的な外傷から心を守るために、壊れそうになった自分自身を守るために、『彼女』は生まれた」 俺は唇を噛み締めて、黒に浮かぶ俺自身をにらみつける。 右目を隠すように垂らされた前髪も、肩口まで伸びた後ろ髪も、眉もまつ毛も紅い。その隙間から覗いた右目は、むき出しの左目は碧色。無理やりこじ開けられた胸もとに、忌々しい印と交錯した二本の赤線が鎮座している。 「主人格の陰に、最凶で最悪な殺人兵器を仕込む。明らかに無理難題だって分かるだろうが、奴らは絶対にできると思い込んでるみたいだな」 暴力と蹂躙、罵倒と嘲笑。あの閉ざされた空間には、それだけしかなかった。あのイカレた連中の頭ん中には、実験の成功と限界への挑戦しかなかった。その限界に耐えられたガキを生贄にすることを、あいつらは躊躇わなかった。 Aから始まった実験は、Xの最後になって初めて成就された――拷問に近い訓練と拷問そのものの実験で死ななかったガキは、最凶で最強で最悪な最高傑作になる、はず、だった。 「だけど、乖離する人格が簡単に調節できるわけがない。訓練に耐え、実験や暴行に耐え抜いたお前が生み出したものは」 「臆病者で小心者の、陰気くせぇ女だったってわけだ」 言葉を引き継いで、俺はわざと唇を歪めた。 「臆病すぎて、殺人兵器はむしろ俺だったってオチもついちまったし」 「彼女は優しかった。人を殺すことなんてできなかったし、誰かを傷つけることすら嫌がった」 奴はことさらゆっくりと、俺の言葉に音をかぶせる。 「当時『狂乱舞踏』は大きな仕事を控えていた。数年前から組み上げられてきた、とてつもなく大きなプロジェクトだった。さすがにプロジェクトのデータ自体は削除されてたが……どうやら相当やばいシナリオが設定されていたらしいな。そのための実験だったし、そのための兵器だったんだから、当てが外れて奴らは焦った」 あぁ――そんなこともあったっけ。俺はほんの少し、記憶の糸を手繰り寄せる。しかし引っかかってきたのは、肉と骨を裂く感覚と、全身に浴びた返り血の生温かさと、背筋を駆け抜けた強烈な痺れの残滓だけだった。 「候補は全部亡くなってしまっていたし、何より時間がなかったから、どうしたって君を使わざるを得なくなってしまった」 鮮明に思い出す前に、奴は糸を断ち切って続ける。 「そのまま廃棄するのには、あまりにもお前の能力は出来すぎていた。過程で取られたデータも優秀だったし。だから奴らは、お前をもう一度利用することを思いついた」 利用。単語を聞いて、妙に笑えてくる。全く、これほど踏み台やら使い捨てやらに相応しい言葉はないだろうな。上から目線の自分勝手さを包括した奴らが好む単語だ。 薄く嗤った俺を無視するように、奴は再度手にした紙へ目を落とす。 「通常、副人格の存在を主人格は知らないはず。だが副人格であるはずの彼女はお前を知らず、主人格のお前が彼女を知っているのはおかしいと思った。それどころか、副人格が表に出ていて、主人格が裏に潜んでいるなんてありえない。……これを見てようやくカラクリが分かったよ。奴らはお前を『副人格』としてのポジションにつけた。もう二度と一つの人格に戻らないように――ありとあらゆる手段を使ってな。その『ありとあらゆる手段』はとうとう分からずじまいだけど」 俺は紅い前髪の上から額を押さえる。もう消えかかったそれは、名前すら覚えていない医者が縫った。腕がいいとか何だとか言われてて、しょっちゅう俺の体をいじくっていたあの男。 突然意識に亀裂が入る。その衝撃に、思わず呻いて膝を折った。距離を詰め始めた奴の足音が、鼓膜を引っ掻いて震わせる。やめろ。それ以上こっちに来るな。それ以上喋るな。その目を、やめろ。 唇が強張って動かない。声が喉に貼り付いて出ない。なぜだ。どうして。 「残念だが俺は医者じゃない。だから、何をどうしたかなんて検討もつかないが、どんな理由があれ、お前と彼女はもう一つに戻ることができない。魂を裂かれたまま生きることがどれだけ苦しいのかなんて、俺には経験が無いから分からない」 足音が、近くなる。息遣いも、近くなる。気配が、近くなる。 「だけど……だけど、これはあまりにも酷すぎる」 奴は紙を引き裂いて、あっという間に細切れにしてしまった。そのまま上に放り投げ、風に流してしまう。 「お前が他人との関わりに対して『仲良しごっこ』だと言い切ってしまうのも、誰も信じないと言うことも。一人になりたがる癖がついちまったのも……救いなんてない、そんな考えにさせてしまった環境が、あまりにも酷すぎたからかもしれない」 そうだ。何を今更。この世に救いなどありはしない。俺たちは生きている意味などない、ただの道具にすぎないのだと。所詮は他人など、自分の地位を確立するためのものにすぎないのだと。救ってくれる奴などどこにもいないのだと。知った。 この世界に助けてくれるものなど無い。この世界に信じられるモノなどない。信じるだけ無駄だ。助けを求めても無駄だ。だったら最初から信じなければいい。利用されるのなら、こちらから利用してしまえばいい。 この世界に――味方など、いないのだから。 伸べられた手を今一度跳ね除け、俺は体勢を立て直す。頭痛はもう治まっていた。 「今じゃ、感謝してるぜ。世の中のからくりを教えてもらって、世の中のからくりを再確認できたんだからよ」 けれど、耳鳴りはまだやまない。畜生、その目をやめろってんだ。この男はさっきから、一体何がしたいんだ。 「……だから、彼女はずっと一人だった」 俺を真っ直ぐに見据えて、奴は突然言葉を落とした。 「は、……?」 「自分がどうしてここにいるのかも分からないのに、理解してくれる人も話を聞いてくれる人も誰もいなかった。向けられる感情は悪意しかなかったんだろうな。だからずっと一人で生きているしかなかった」 いきなりのことに思考がついていかない。それでも、動揺していることを悟られたくはない。平静を装って、声を返す。 「何を、……言ってやがる」 「彼女を追いかけていったあの日、彼女は言ったんだ。『私はいらないものだったんだ』って。生まれてきたことに負い目を感じて生きてきた。それはとても、悲しいことだ」 あぁ。またこいつは、上からの立場で見下ろしている。何を偉そうに。何も知らないくせに。何も知らないくせに、何でこいつはこんなに、 こんなに……? 「だけど、何も知らないからこそ、救われてたんだと思う。それはお前が……『弟切』、お前が、過去に受けた痛みを全部肩代わりしていたからだ」 「は?」 思考がまとまらなくて戸惑っている最中、いきなり矛先を向けられて間抜けな声が出た。 「主人格と副人格の位置を入れ替えられたのは、強制もあるかもしれないけど、それ以上に彼女を守るため。結局は裏目に出てしまったが、それでも……何も知らない方がいいことだってあると。無意識のうちに判断したんだろ?」 何だ。意味が、分からない。飲み込めない。飲み下せない。何を言っている。何を言われている。俺は、何を。 「お前が一人になりたがるのも、彼女が不必要に悪意を向けられて、傷つかないようにするためだ。傷の数が減るだけでも、痛みも大分減るからな……彼女はお前を守るためにきて、お前も彼女を守っている。こういうことだな」 片方が無傷なら、片方もかろうじて保つことができる。彼女が安定していれば、お前も精神的に安心するんだろ。だから彼女はお前が壊れないための、最後の防衛ラインなんだ――つらつらと述べる声が、耳鳴りにかき消されて遠い。 違う。違う。違う。そんなんじゃない。俺は、そんなこと、思ったことなんかない。あいつが勝手に来て、勝手に傷ついて勝手に自滅するだけ。そんなんじゃない。俺は迷惑だった。あんな臆病者で面倒臭い思考回路の女なんか、ただでさえ酷使する体が余計に疲れるだけだ。 疲れる? そんなのあるわけがない。傷がついたってすぐ塞がる。簡単には死なない体。空っぽの体。崩れて二つに分かれた心。腐りかけて壊れかけの、ただの成り損ない。痛みなんて感じない。痛くなんてない。痛く、なんて、ない。 「じゃあ、お前は?」 「……っ」 声が出ない。何を言おうとしたのかさえ、分からない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。 「過去の傷も抱えて、彼女のことを守って。悪意にさらされ続けて、それでもずっと一人でいた、お前はどうなんだ?」 どうって何だよ。知るかよそんなこと。畜生、声が、出ない。何でだ。どうしてだ。こんなのおかしい。 「お前は本当は、どう思ってる?」 嫌だ。それは嫌だ。理解もしたくない。できない。できるわけがないんだ。こんなのは知らない。そんなのは知らない。関係ない。いらないものだ。必要ないものだ。 うまく考えられない。何が言いたいのかも何を考えていたのかも何を言われていたのかも分からなくなりそうなほどにたくさんの音が流れていく。うるさい。ひびの入った意識からにじみ出して零れ出してくる。 「黙れ。黙れ、黙れ、うるせぇんだよ! てめぇに、一体何が分かるってぇんだよ! てめぇに、俺の何が分かるってぇんだよおぉ!!」 絶叫しても音はやまなくて。ざらざらと不快な音を立てて流れていく。音はやまない。くらくらする。がんがんする。足を踏みしめて堪える。 奴の声が聞き取れない。奴の気配が―― 「……やっぱり」 突然、指の触れる感触が右の頬をかすめた。瞳にかかる長い前髪を払って、手の甲に流して、その下の皮膚を撫でて、それから、それから。 体の筋肉が不自然に強張って、思い通りに動かない。やめろ、それ以上、俺に触るな。たかだかそれだけの言葉が出てこない。 出てこない。出てこない。出て、こない。 「お前の目――寂しいな」 さらに激しい耳鳴りを覚えた。ずきずきする。頭が割れそうに痛い。ざらざらと音を立てて、何かが流れていく。俺の全身を駆け巡る。 これは何だ? これは、憎悪? それとも、それとも? 何で、どうして、こいつは。 「なあ。お前さ」 奴のクリアすぎる声は、やたら響いて俺を射抜いた。 「本当は……誰かに、傍にいてほしいんじゃないのか?」 (初回:2006.7.27 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10) |
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