泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
5−3
昼から昼へ――彼と『彼』、彼と彼女の時間
あの後、『狂乱舞踏』を訪れて締め上げたけれど、得られたのはほんのわずかな追加情報だけだった。あのB5の用紙に書かれていたことが、彼らに残されている情報の全てと言ってもよかった。追加の内容も、彼らがどのような実験を行われていたのかを断片的にと、彼らがどうやって始末されたのかを断片的にである。 しかもこの実験に直接関わった人物は、サンプル――他ならぬ『彼』の手にかかり命を落としている。順々に知っていそうな奴を締め上げたが、彼らも本当に断片的にしか知らなかった。又聞きの又聞きもいいところである。 実験の記録はたった一枚に集約され、他は全て完全に処分されたらしい。失敗した実験の結果だけをそうやってわずかに残しておき、過程及び目的と関わった人物に関する記載は全て削除する。実験体も同じように処分される、とのことだった。彼らもそうして、削除されていたのだ。 足下に散乱する紙だったものを眺める。たったこれだけの紙切れが、彼らを苦しめ、縛り付けてきた傷そのものだった。いや、こんなちっぽけなものに収まるほど、浅くなんてない。 散々身体を弄繰り回され、自分の生も死も否定され、存在すらも否定された挙句、最後はなかったことにされてしまった。 ひょっとしたら、『彼』は――自分の存在を、自分が生きているという証が欲しかったのかもしれない。そうすることでしか、確認することができなかったのかもしれない。 「悲しいよなあ……」 突っ返された上着を握り締め、一人ぽつりと呟いた。 そのままじゃ帰れないだろ、と貸したそれを、『彼』は乱暴に押し戻したのだった。 『いらねぇよ、こんなモン』 どうすればいいのか分からない、泣き出す直前の子どもの顔をしていた。 『ふざけたこと言いやがって。大体誰がいつ助けてなんて言ったよ。偽善者め』 『そうやって俺のことを見下してやがんだろ。優越感に浸ってるつもりか? 助けてあげようだなんて、そんなにてめぇは偉いのかよ?』 負い目なのかもしれない。哀れみなのかもしれない。『彼』の言うとおり偽善なのかもしれないし、本当にただの綺麗事なのかもしれない。 「それでも俺は、そう思ったんだ」 それでも。心の底から、そう思ったんだ。 「……泣きながら、ここにいてくれって叫んでる、小さな子どもみたいだって……思ったんだ」 最初は、そんなこと考えてもいなかった。凶悪な狂人は、何の理由もなく他人の命を奪う奴だと思っていた。凶暴で残忍で、自分の快楽のためなら何だってやる。周りの評価もそうだったし、自分もそう思っていた。 だけど違う。あんな悲しそうな目をしている狂人なんて初めて見た。いや、実際は狂ってなんかいないのかもしれない。彼の中の論理に基づいて、動いているだけなのかもしれない。そうじゃなかったら、自分の感情に振り回されて戸惑うはずがない。 まるで子どものようだ。あえて蓋をしていた感情に戸惑い、怯え、その理由が分からなくて苛立っている。自分の知っている感情でしか物を表現することができない。そして、その感情ですら上手く操ることができないのだろう。そのことに苛立って、また癇癪を起こす。 向けられた感情の意味が分からない。自分の知らない感情だから、どうすればいいのか分からない。分かることは、拒絶することだけ。姿の見えないもの、知らないことを、肯定するなんてできないから。肯定なんて、されたことがないから。 「……悲しいな」 上着に腕を通す。目の前にいた『彼』の姿は、なぜかひどく小さく見えた。 「……悲しいよ」 空を仰ぐ。わずかに金色を含み始めた蒼色が、風に溶けて頬を撫でる。何だかひどく泣きたい気分になり、軽く目を閉じてそれをごまかす。 『彼』のことを考えてこんな気持ちになったのは、今日が初めてだった。 * 理事長もどうやら逮捕されたらしい。ニュースでやっていた。息子のやっていることを権力で握りつぶしていたのだから、当然と言えば当然だ。息子の余罪はボロボロ出てくる。親も何かやってたみたいだから、再逮捕されるのは時間の問題だろう。 匿名で告発したのはもちろん俺。これからは、今まで被害を受けた女性たちも行動に出ると思われる。婦女暴行とその隠蔽、恐喝とその隠蔽、窃盗とその隠蔽、エトセトラエトセトラ。こうしてみると、いかにこの学校が危うい状態だったのかがよく分かる。我ながらよくこんなところ行ったな。ネタで選んだんだっけ。確か。 ともあれ、事件が落ち着くまで休校という話になった。勉強好きの香佑は珍しく大喜びで、ここぞとばかりに旦那を連れて回っている。何でも掃除屋の一人に知り合いがいて、珍味レストランを開いているんだとかそうじゃないだとかいう話だ。そこでレシピを教わってるらしいが、家事嫌いの香佑のことだ、どうせすぐ飽きるだろう。それよりも義兄さんが死なないか、そればっかりが心配である。 今日も今日とてデートらしい。寝ていた義兄さんを引きずる香佑と、リビングですれ違った。 「あれ、亘理。どこ行くの」 「ちょっと、お見舞い」 「また?」 テーブルの上にあるかばんを肩に引っ掛ける。それから中身を確かめて、玄関へ急いだ。 「熱心ね。帰ってこなくてもいいわよ」 「義兄さんが心配だから、夕方には帰ってきます」 反論が来る前に外へ出る。空は夏の気配を濃くにじませていて、陽射しも強くなっていた。今日もいい天気だ。休校なのがもったいないくらい。 バイクを走らせ三十分。駐輪場に置いてから、もう一度かばんの中身をチェックする。忘れ物はないから大丈夫。 呼び鈴を押すと、今度はちゃんと出てくれた。 『は……はい』 ストーカーのせいだろう、随分と怯えているようだった。 「浅香さん、俺」 できるだけ気を遣わせないように、優しく話しかける。が、相手はやはりひどく驚いたらしかった。スピーカーの向こう側で、一回とんでもない音がする。たぶん、受話器を取り落としたんだろう。短い悲鳴が同時に聞こえたから。 『あ、ご、ごめんなさい! ……綿津見、くん? どうしたの』 「や。今日もお見舞い。大丈夫かな。お土産あるよ」 ちなみに昨日も一昨日もその前も断られた。原因は不明だ。今までしてきた仕打ちを考えるなら、それも当然ではあるのだが、どうやら理由はそこじゃないらしかった。昨日ようやく判明したのは、「会ったらたぶん泣いちゃうから」ということだけだった。俺の顔を見ると泣けるということは、やはりそういうことなんだろうか。いや、当たり前と言えば当たり前なのだが。 罪滅ぼしをしたいのかもしれない。それを許してほしいのかもしれない。でもそんなこと関係なしに、今は彼女に会いたかった。 一分、二分、三分の沈黙。それから何かを思い出したらしく、私も綿津見君に渡すものがあるの、という返事が返ってきた。何だろう。何かあったっけ。誕生日はまだ先だし……って、何でそんなこと期待してるんだ俺。大体ついこの間まで、こっちがあからさまに避けていた相手に、プレゼントを贈るなんて図太さは彼女にない。馬鹿か俺は。何なんだ全く。 俺の思考回路はさておいて、彼女はどこか嬉しそうに続ける。 『それじゃあ、開けるね』 「ありがと」 ロックが解除される。それから十階まで上がり、彼女の部屋のインターフォンを押した。軽い足音と、気配。近づいてくる。錠が外されて、扉が小さく開いた。碧い瞳が覗いてくる。 「わぁ、浅香さんだぁ」 嬉しくなって、思わず変なことを口走ってしまった。彼女もやはり意味が分からなかったらしく、きょとんとしてこちらを見ている。それからほんの少しだけ微笑ってくれた。 面白かったんだろうな。って、いや、何で俺こんなテンションが高いんだろう。我ながら不思議だ。 「あ、え、と」 咳払いを一つ。彼女はちゃんと待っていてくれている。 「うん」 「……上がっていい?」 「そのために開けたんだけど……」 会話が変だ。むしろ俺が変だ。落ち着け。冷静になれ。 「ごめん。お邪魔します」 「どうぞ」 咳払いをもう一つしてから中に入る。彼女が覚醒しているからか、相変わらず波のように押し寄せる冷たいそれも、少しだけ和らいでいるようだった。 「お茶、出すね」 「お構いなく」 自分でも飲もうと思っていたのだろう、銀のケトルからは温かな湯気とお湯の湧く音があふれ出していた。しゅんしゅんと柔らかく聞こえるそれに、心がなぜか安らいでいく。 穏やかな時間が、ここには流れていた。心なしか、レースカーテン越しの日光も熱を持っている気がする。 「ここ、冷えるでしょ」 珍しく、彼女から話しかけてきた。 「え」 「人の気配がね、浸みこまないの。少しでも留守にすると、空っぽになっちゃう」 不思議でしょ。もう二年もここにいるのに、朝起きたら家の中が空っぽで、空き家にいるみたいな感じなのよ。 彼女の静かな語り口は、どこか子どもを寝かしつける母親の声を思わせた。声の質や話し方も関係しているのかもしれないが、深みがあってまろやかで、心の弱い部分を包み込むように優しい。 ああ、そうか。なぜかふと、実感した。彼女は彼を守るためにやってきた。その性格や心の様が、こうして語る言葉に表れるのだ、と。 こんなこと、『彼』の一面だけしか見ていなかったら分からなかった。何から何まで全て、『彼』に当てはめていたから。 「だからね。どうしようもなく寂しいときは、紅茶を飲んで一息つくの」 「お、ありがとう」 銀の盆に乗せられたティーカップは、彼女の趣味らしく清楚な雰囲気をたたえていた。金の縁取りに小花の模様で、どこか上品なつくりをしている。スプーンは丁寧に磨かれ、日光に金色を跳ね返していた。 ポットに手を伸ばした俺に、三分よ、と彼女は笑った。それから意外に綺麗な指で、そっと砂時計をひっくり返す。男性にしては細く、爪も長い。色が白いのは手袋をしているからだと思ったが、元々の肌の色が白いのだと気づいた。 体は全く同じなのに、中身が違うだけでこんなにも印象が違うのか。何だか不思議な感じがする。同じ性別だとは到底思えなかった。 「この間は、ありがとう。……ごめんなさい」 落ちる砂を眺めながら、彼女は小さく呟いた。長い前髪が右目にかかり、『彼』と同じように覆い隠している。どこか伏し目に感じるのは、まつ毛が長いからかもしれない。 「気にしないでいいよ。それより、傷の具合はどう?」 「……大丈夫。平気」 喉を撫でながら、彼女は答える。首の傷はもうない。手首の傷も、跡形なく消えている。治癒能力も強化されているので、基本的に外傷の治りが早いのだ。こうして彼女の知らない傷が増えている理由も、それを彼女が気にしていることも、今は全部分かっている。 不器用だな、あいつも。彼女に何も知らすまいとして――彼女を傷つけまいとして、必死になっている。たった一人で、誰も頼ることなく彼女を守ろうとしている。不器用なくせに、意地っ張りで根性が曲がってて、どうしても放っておけなくなる。 昔の俺なら、考えもしなかった感情だった。 「ねえ、浅香さん。突然なんだけどさ、こういう人いたら、どう思う」 首を傾げて、彼女がうなずく。『彼』と同じ紅茶色の髪は、いつかと同じように陽を透かして透明な紅に染まっていた。 「すごい口が悪くて、人の顔みたら馬鹿にせずにはいられなくて、嫌味ばっかで……何でもできる天才だけど、本当はすごく寂しがり屋で意地っ張りで、不器用で子どもっぽい。そんな二十歳」 言葉にするとやっぱりとんでもないな、こいつ。でもたぶん当たってると思う。あのとき話したら、そんな感じだったから。何となくだけど。 彼女は少しの間だけ考え込み、 「……ちょっと、変なこと言うけどね」 と前置きした。それからポットに手を伸ばし、紅茶を注ぐ。湯気と共に香りが立ち上り、彼女の選ぶ言葉を湿らせた。 「すごく、他人事じゃない気がするの」 「嘘」 「ううん。本当に」 彼女には、『彼』に関する記憶は一切ない。『彼』のために生まれたのだということはおろか、守る対象である『彼』のことすら知らないはず。 「それでね。守らなくちゃって気持ちになるの。不思議ね。何だか弟みたいな感じがする」 ――そうか。いくら無理やり分かたれた魂でも、根元のほうでは繋がっているのだった。記憶こそなくても、彼女は『彼』を感じているのだ。そして『彼』を、守るべき対象だと分かっている。 話す彼女の横顔は、とても穏やかなものだった。子どものことを見守っている母親のような、そんな雰囲気をまとっている。やはり彼女は、守るものなのだ。どれだけ傷ついても、守ることをやめようとしない。それどころか、相手を思いやって傷つけまいとする。戦わずして守る、そんな女性。誰かを守ろうとする人間の姿は、こんなにも美しいものなのか。 そして、つい先日まで嫌悪していた対象に、ここまでの感情を持つことができるものなのか。愛情と憎悪は紙一重とよく言うけれど、これがまさかそうなのだろうか。 「人間の心って、不思議なもんだな……」 「そうだね」 独り言に、律儀に相槌を打ってくれた。何だか急に照れ臭くなって、注がれた紅茶を口に含む。 とても熱かった。 「あっちぃ!」 「だ、大丈夫?」 平気平気、と手でジェスチャーしてみせる。何とか飲み込んだ。美味しかったが、ひりひりする。これはしばらく辛いものが食べられないな。 「ごめんね、猫舌だなんて知らなかった」 「大丈夫大丈夫」 猫舌だということは身内以外誰も知らないから、そんなに申し訳なさそうにしなくてもいいのに。 優しい人だ。とても、優しい人だ。だが、優しすぎるから苦労をする。『彼』もたぶん守りきれない。『彼』自身、数え切れないくらいに傷ついているからだ。 ……俺が、何とかしてあげられないかな。彼女のことも、『彼』のことも。そうすればこの部屋も、人の気配が染み付くところになるだろう。少しでもいい。ここを、生きている人間が住んでいる場所にしたい。死の気配を少しでも拭ってやりたい。自分たちのことを、死んだ人間だって二度と考えないように。 そんなことを、ちらりと考えた。割と本気で考えていることに、自分自身が一番驚いた。 「あのさ、……浅香さん」 「何?」 この部屋を、人の気配が染み付くところにしたい。少しでもいい。ここを、生きている人間が住んでいる場所にしたい。死の気配を少しでも拭ってやりたい。 そうすれば、彼らはきっと。 「……、あの」 言い出すのには、少しだけ勇気が足らなかった。 「き、今日はこれで帰るね」 時計を眺める。まだ三十分も経ってない。立ち上がり、言ってしまってから馬鹿だと思った。 「あのっ!」 と、彼女が突然大きな声をあげる。『彼』で聞き慣れてはいたが、発した人格が違うから鋭さも殺意も何もない。共通点は、どちらも張りのある音だということだろう。 彼女は立ち上がった俺の腕を、遠慮がちにつかんでいる。不意にドキリとして、身体がなぜか硬直した。 「も……もう少し、お話したい。綿津見君のお話、もっと聞きたいの」 見開いた碧に、俺の驚いた顔が映っている。ゆらゆらと湖面のように揺れるその色は、太陽の光を溶かして不思議な色合になっていた。 「駄目、かな」 柔らかい音に縁取られた言葉が、俺の胸に入ってくる。彼女が自分の意思で俺を引き止めた。それがなぜか、 「分かった。じゃあ、付き合おう」 自分のことのように嬉しかった。 (初回:2008.10.23 更新:2009.1.10) |
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