泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
6−1
彼女と彼の、昼


 マロニエの木の下に、私は腰を下ろした。草がそよぐ音と、木の葉の騒ぐ音以外は何も聞こえない。
「空が……高い……」
 手をかざしてみる。空の蒼が、私の指をすり抜けていく。雲ひとつ無い、空。木漏れ日が足下で揺れている。風が草木の葉を撫でていく。膝に乗せた本のページが、ぱらぱらと軽い音を立てて捲くられていった。
「――……」
 ふと頭の中を、先日の騒動がよぎった。
 あれから相楽君は姿を見せていない。彼の行った犯罪は、未遂も含めて十件以上にものぼるそうだ。教授から聞いた話だが、あの後彼は大学を自主退学し、それ以降行方が分からなくなっているのだという。
 相楽君はもういない。けれど、彼にされたことはしばらく忘れられないだろう。今でも、思い出すたびに震えが止まらなくなる。
 あの事件が終わった後、綿津見君がわざわざお見舞いに来てくれた。最初は、何だか胸がいっぱいになってしまって会えなかった。いろんな出来事や感情がごちゃごちゃになって押し寄せてきて、彼の顔を見たら泣いてしまいそうだったから。だけど、彼は毎日訪ねてきてくれた。私も彼の声を聞いているうちに落ち着いてきて、先日ちゃんと会うことができた。
 わぁ、浅香さんだぁ。満面の笑顔でそう言ってくれたとき、心の中に熱が灯った気がしたのだ。何だか私が必要とされているみたいな……そんな風に自惚れてしまうくらいに、心の底から嬉しかった。
 お土産ももらった。私が図書館でよく借りる本を、覚えていてくれたんだという。私も新しく買ったハンカチを返して、たくさんお話をした。あのときの冷たい目が嘘みたいに、真っ直ぐ私の目を見つめて、話を聞いてくれた。
 彼もたくさん話をしてくれた。引き止めてしまったことを後悔したけれど、彼は許してくれた。ほんの少しでもいい、私のことを考えてくれているのが、泣きたいくらいに嬉しかったのだ。
 気づけば、彼のことしか考えられなくなっていた。人ごみの中でも、彼を探してしまう。そしてあの広い背中を見つけるたびに、息が詰まるほど嬉しくなる。
 もしも――もしもあのとき、綿津見君が来てくれなかったら。
 突然、彼の温もりが鮮烈に蘇る。思わず周囲を見回して、それから自分の肩を抱きしめた。まだ身体に残っている。抱きしめられたときの苦しさと、腕に込められた強い力と。
「……私は、一体どうしちゃったんだろう……」
 こんなことは初めてで、こんな感情は初めてで。どうすればいいのかが、分からない。私は膝を本ごと抱え、額をつけてうずくまった。
 と、がさがさと音がして、今度は三角耳が飛び出した。いち、にい、さん。灰色と黒と、三毛猫の三匹。いつも来ている黒猫が、どうやら仲間を連れてきたみたいだった。
「あ、今日はお友達も一緒なんだね」
 微笑みかけて、手招きする。黒猫は銀の鈴を誇らしげに鳴らしながら、残りのお友達と一緒に膝にやってきた。毛並みも綺麗で、みんなおそろいの鈴をつけている。
 飼い猫なのかしら。三匹を撫でながらそう考えていると、誰かの声が響いてきた。
「……おーい、クウー……カイー、ミチー……どこいったー」
 声。綿津見君の声だ。姿は見えない。
「出てきてくれー、出てこないとパパ寂しくて死んじゃうよおー!」
 パパ、だって。思わず面白くて、笑みがこぼれてくる。そうこうしている間に、必死の呼びかけと足音が近づいてくる。
「カイー! クウ、ミチー! ……あっ! いた!」
 彼は三匹を見つけると、
 軽やかに跳躍した。
「え、えっ!?」
 猫三匹は滑らかに横へ移動して、成り行きを見守る体勢に入った。
 つまり。
「え!? あ、ええええっ! ちょ、タンマ! うそおぉぉ!!」
 落ちてくる――思ったときには、彼は私の上に落下していた。
「きゃあっ!」
「わあぁっ!」
 同時に悲鳴が上がる。風が一時だけ、螺旋を描いて舞い上がった。彼の顔が私の胸に当たっている。身体が密着している。頭の中が真っ白になる。鼓動が速くなる。
 きこえて、しまいそう。
「うー……いててて……」
 動けない。緊張、してしまって。どこうとするのに、体が言う事を聞いてくれなかった。
「失敗失ぱ……」
 彼は私の顔の隣に手をついて、起きようとする。それから、気づいた。視線が絡み合う。少し顔を動かせば、唇が触れそうなほどに。
 近い――
「……あ……浅香、さん……」
 戸惑ったような表情を、木漏れ日が縁取っている。深い色の瞳が、何度も何度も瞬いた。
「ご……ごめん……」
「う、ううん、いいの……私こそ、ごめんなさい……」
 動けない。彼も、動かなかった。目がそらせなくて、互いに見つめ合ったまま。静寂が、時と一緒に流れていく。どうか彼に、心臓の音が聞こえませんように。
 一心に祈って、どれくらいの時間が経ったのだろう。彼はおもむろに、私の背中を支えて起こしてくれた。
「どこも痛くない?」
「うん……大丈夫」
 よかった、と笑う彼に、また胸が苦しくなる。発作のような苦しさではなくて、でも肺が締め付けられるような苦しさでもなくて、心の奥底がきゅっとするような。そんな切ない苦しさが、胸の奥に走る。
「ここ、よく来るんだ?」
「うん。いつもこの子たちと一緒に日向ぼっこしてるのよ」
 また膝の上に戻った三匹を撫でてあげると、彼は心底ほっとしたように息をついた。
「最近よくいなくなると思ったら、学校までついてきてたのか……全く、パパは心配で授業が頭に入らなかったんだぞ! この、この、このっ」
 それからまるで赤ちゃんに話しかけるように、彼は三匹の鼻の頭をつついて言う。それがとても可愛くて、似合わないから可笑しくて、思わず声を立てて笑ってしまった。
「あっ!」
 突然彼が声をあげる。もしかしたら、私が笑ったせいで気を悪くしたのかもしれない。慌てて彼に頭を下げ、謝った。
「ご、ごめんなさいっ」
「そうじゃないって。やった! 浅香さん、すごい笑った! すごい笑ってくれた!」
 本当に嬉しそうに、彼は言った。眩しい笑顔を浮かべて、そう言った。
「香佑や綱島さんがね、浅香さんって美人なのに、どうして笑わないんだろうってずっと言ってたよ。あんなに美人なのに、もったいないって。俺もそう思ってた」
 彼女たちにまで、余計な心配をさせてしまっていた。やっぱり私は、誰かに迷惑しかかけられないのだろうか。
 悔しさと同時に申し訳なさがやってきて、私はスカートを握り締める。
「……ごめんなさい」
「君は」
 綿津見君は苦笑する。
「悪い事をしているんじゃないから、謝らなくていい」
 少しの間、彼の言うことが理解できなかった。
「でも」
「浅香さんは悪いことしてない。だから、謝らないでいいんだ」
 だって。だって私は、存在してはいけないもの。本当は、ここにいてはいけないもの。必要のないもの。あなたはそれを肯定してくれたのに。だから私は、ためらっていた足を踏み出せたのに。
 どうして今になって、否定をしてしまうの。
「……私……は……」
 きつくスカートを握る手に、何かが触れた。彼の手だ。驚いて引っ込めようとしても、うまくいかなかった。しっかりと握られて、離してくれない。
「存在してはいけないものなんて、何も無いんだよ。浅香さん」
 震えが、伝わってしまう。彼に伝わってしまう。
「……お願い……離して……」
 かすれる声で懇願しても、綿津見君は首を縦に振らなかった。
「怖がらせてごめん。でも……離すことは出来ない」
 握られる手のひらは、とても温かかった。
「君はここにいる。ここにいてもいいんだ。少なくとも、俺は今それを望んでいる」
 今、なんて言ったの。聞き返すのが怖くて、でももう一度聞きたくて、私は彼を見つめる。
 綿津見君は小さくうなずいて、両手で私の手を包み込んだ。
「俺だけじゃない。香佑も奥沢君も綱島さんも、みんなそれを望んでいる。俺が保障する」
 私は、ここにいてもいいの。
「君は生きている。君は生きて、ここに存在しているんだ。浅香さん、今俺の手の感触、感じてる?」
 私は、ここに存在もいいの。
「俺は、浅香さんの手の温かさを感じる。君が今、俺のことを見ているのも。君の手が震えていることも、全部感じている」
 綿津見君の手のひらが、私の手を優しく握り締める。つんと鼻の奥が痛んだ。
「それは、君がここにいる証になる。だから俺は、君が生きていることの証人になる」
 私はもう、手を振り払えなかった。
「君はまだ、何も知らないだけだ。知らないことが多すぎるだけ。これから、一つ一つを知っていけばいい。俺や、みんなと一緒に――少しずつ、ね」
 もう片方の手も握られる。まるで大事なものを持つように、両方の手のひらで。
「だから、もっと笑おう。俺、浅香さんの笑った顔、すごく好きだよ」
 この手が温かいと感じてしまったから。この感触が心地よいと感じてしまったから。
「ねえ、浅香さん。それじゃあ駄目かな」
 私は初めて、人の傍にいたいと願った。この人の傍にいたいと、強く願った。
 思わず、首を振っていた。彼が笑う。太陽のように、眩しい笑顔で。
「よかった。断られたらどうしようって思ったよ」
 まるでプロポーズみたいに言う彼が、何だかとても可愛かった。
「じゃあ、行こうか。もうすぐ授業始まるから。あ、次で終わり?」
「うん」
「ラッキー。俺も終わり。あ、じゃあさ。香佑と綱島さんが見つけた穴場喫茶店にでも行こうよ。あとでみんなと行く約束してたんだけど、ちょっとくらい先回りしてもいいよね」
 人の傍にいることが、こんなに温かいなんて知らなかった。誰かといることが、こんなに素敵なことだなんて知らなかった。
 少しずつ、知っていけばいい。彼らの、この人たちの傍でなら、きっとできる。そんな気がする。

 私が「私」である場所を見つけられた。だからもう少しだけ生きたいと――願わずにはいられなかった。

(初回:2006.7.27 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)

6-2 『彼』と彼の、夜
5-3 昼から昼へ――彼と『彼』、彼と彼女の時間


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