泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
6−2
『彼』と彼の、夜


 警告音がする。舌打ちして、もう一度アクセスした。防御システムをいじって破壊する。錠が見つからなければ壊せばいい。
 『海魔』に情報を握られた今、奴のことを探り返す必要がある。圧倒的に不利な状態では、あの男と一対一でやり合えない。
「いくつロックしてやがんだよ」
 最後の鍵を破壊して、警告音とともに現れる英文を読む。
「『本当に後悔しませんか』だと」
 言い回しが妙に引っかかる。何だこの人を食ったような文章は。後悔も何も、提示された情報を見るだけじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
 Enterキーを押し、現れる文字列を追いかける。

 NAME:ROW/"THE LIVIATHAN"
 AGE:UNKNOWN
 SEX:UNKNOWN
 DATE:TOP SEACRET,SORRY!

 DEAR "CRAZY HEDONIST"OTOGIRI-ASAKA,
 FROM "THE LIVIATHAN",WITH LOVE.

 親愛なる『狂える快楽主義者』、浅香弟切様へ。『荒ぶる海魔』より愛を込めて――何だと、そんな、馬鹿な。
 気づいた瞬間、最後の文字が崩れ出した。違う、文字だけではない。この画面を構成している画像そのものが、崩れて流れ出していく。
「畜生……ダミーか!」
 歯軋りして、俺はパソコンのスイッチをたたき切った。
 これだけ手の込んだダミーを作るということは、俺がここを見ることを最初から予測していたと言うことか。
 頭の奥から音がする。脳の奥から痺れていく。あの日、あいつの手が俺に触れてから、この音がずっと鳴り止まない。視線が蘇る。吐き気がする、哀れむような視線が。
『じゃあ、お前は?』
 ざわざわと音を立てて、胸が波打った。奴の影が俺を惑わせる。奴の影が、俺を蝕んでいく。奴の存在が、俺を、侵してゆく。
『過去の傷も抱えて、彼女のことを守って。悪意にさらされ続けて、それでもずっと一人でいた、お前はどうなんだ?』
 胸がざわつく。親指を噛んだ。肉を歯で噛み切る。痛みと鉄の味。慣れたそれは、普段なら平静をもたらしてくれるのに。
 音が大きくなっていく。ざらざらと、不快な音を立てていく。
『お前の目――寂しいな』
 これは何だ。どうして奴のことだけ、こんなに。
 黒くなった画面の奥、あの男が笑っている気がする。今日もいつもと同じ、あのにやにやとした薄笑いを浮かべているのだろう。
 気に入らない。
「寂しい、だと」
 耳から離れない。あの男の声が離れない。ざらざらという音、奴の声。木霊する、声。全身がざわめいて、体中の血液がざらついて、胸がざわついて治まらない。肌から消えない。あの男が触れた場所が、まるで燃えているようで気持ち悪い。そこから焼け爛れていきそうな感覚に吐き気がする。
「うるせえ」
『――寂しいな』
「うるせえよ」
 知った口調で、知ったような口調で言いやがって。
「どいつもこいつも、うるせぇうるせぇうるせぇ!!」
 ちょっとデータを覗いただけなのに、全部分かったようなふりしやがって。何も知らないくせに。何も分かっていないくせに。
 そうは思うのに、脳内が痺れる。ざわついた音がさらに俺をかき乱して、かき回していく。傷からは血が流れていく。その味を何度舌で舐めても、何度指を噛み切っても、音は酷くなっていく一方だった。
「俺の何が分かるっていうんだよ、俺の何を見てそう言えるんだよ、俺の全てを見てもいねえくせに、何がかわいそうだ、何が寂しいだ、どの口がほざきやがる、上辺だけの綺麗事ぬかしやがって、ふざけんな!!」
 ディスプレイを拳で叩き壊して、初めて音が止まった。俺の荒い息だけが、部屋に響いている。手の甲が血まみれだ。ガラスの破片が散らばっている。そこに紛れて点々と紅が散っていた。俺の血。俺の手から流れ出した、俺の血液。紅い色。
 普段なら血を見ただけで気分が高まるのに、なぜこんなにも落ち着かない。一度途切れた音が、再び雑音と共に流れ出す。耳鳴りと、声。去り際に投げられた、あいつの。

『なあ、お前さ』
『本当は……誰かに、傍にいてほしいんじゃないのか?』

 くだらない。誰かが傍にいたところで、踏みにじられてお終いだ。俺はあの日、あの時からそれを知っていた。
 本当に助けて欲しいときにほど、人間はどこまでも突き放して助けてなどくれない。所詮他人は自分の踏み台、道具にしかすぎないのだ。自分には関係無いという顔をして、素通りしていくのだ。ここは、エゴイストでナルシストでサディスト、偽善者ばかりが集まったくだらない世界なのだから。
 そんな世界の中で、いずれ誰かが俺の首を取るだろう。いずれ誰かが俺のことを殺すだろう。人間の出来損ないを殺すだろう。人間の成り損ないを殺すだろう。逆に俺がこのまま喉を捌いて死んでも、誰も悲しまないだろう。俺は、ここに存在しながら存在しないものだから。
 人間の出来損ない。失敗作。そんなモノが死んだところで、誰も悲しまない。道具が一つ壊れたところで、また替えを探せばいい。どうせ世界なんてそんなもの。誰かが俺に代わるだけ。そんな無意味な命に、一体どれほどの価値がある?
 俺は一人で生きていく。そして一人で朽ちていく。涙の流し方など知らない。許しを請うことは忘れた。それで命を永らえたところで、俺には意味が無い。失敗作は失敗作、所詮人間として生きていくことなどできない。そのうちに野垂れ死にするか、誰かに殺されてお終いになるだろうに。
 それなのに。
 どうして、あいつは。
『誰かに、傍にいてほしいんじゃないのか?』
 あんなに俺に、構いたがる。
 ざわざわと、ざらざらと。一層音を立てて、それが流れていく。
 こんなものは、いらないものだ。必要のない感情は捨ててしまえ。ありもしない感情に惑わされてどうする。こんなものは、いらないものだ。
「あいつのせいだ」
 俺は一人呻いた。血が、止まらない。
「あいつが……俺を、かき乱すから――……!」
 情報屋の浪。綿津見亘理。同業者にして、俺の敵である。あの男が言うことはどうせキレイゴトにすぎない。どうせそのうち、何も言わなくなる。
 思い出せ。敵は消す。敵は始末する。跡形もなく消し去る。それがこの世界のルールだ。当たり前な、単純明快なことじゃないか。たかだか一人の情報屋に、どうして踊らされる必要がある。落ち着け。俺が誰なのかを思い出せ。乱されるな。迷うな。どうせ全部嘘なんだから。
 外は雨が降っている。構わず窓から飛び出した。雨粒が頬をたたいていく。
「浪。俺をこんなにしやがった、てめぇの罪は重いぜ」
 雨に煙る暗闇に、俺は一度呼びかける。返事は、返らない。
 悪名高きこの俺を、ここまでかき乱したのはお前だけだ。認めてやる代わりに、お前を殺す。俺が死ぬその前に、殺す。この音を殺すために、この感情を殺すために、お前を殺さなくてはならない。
「滅茶苦茶にされた対価を、きっちり払ってもらおうか」
 しつこく耳の奥に響く音は、未だ鳴り止まず流れ続ける。それを止めるために、一時の悦楽で塗りつぶすために、俺は夜の街へ飛び込んだ。



「……ら、この様か……」
 腕が落ちたか。馬鹿みてぇだ。
 誰もいなくなった路地裏で、俺はぼんやりと空を見ていた。足首からはだくだくと血が流れ、利き腕の左手からも同じような状態になっている。違うことを考えていたら、撃たれた。ただそれだけだ。我ながら間抜けな理由ではあるけれど。
 たくさん、殺した。男も女も、老人も子どもも。全部殺した。破壊して、破壊して、破壊して殺した。いつも通りに殺した。なのに。
「……あいつの、せいだ」
 全然楽しくない。胸の奥が重たい。こんなことは初めてだった。いつもなら、自分の手で斬り潰した命の感触で、ある程度の飢えは満たせるのに。いつもなら、徹底的にぶち壊せば全部片付いたのに。飽きるまで繰り返してればそれでよかったのに。何でだ。どうしてだ。気持ち悪い。ぐらぐらしてざわざわして、体が自分のものじゃないみたいに動かない。雨の日でもないのに、思い通りにならない。
 こんなのは――こんなのは、俺じゃない。こんな感情はいらないもの、違う、あいつのことなんてどうだっていい。なんでこんなに。
 こんなに。
「あっれ」
 こんなに――気になるというのだろう。
「偶然だなぁ、行き倒れか? おーい」
 情報屋の浪、『荒ぶる海魔』、綿津見亘理の声がした。頭上にふいと影が落ち、それから奴の顔が覗く。胸から提げた鮫の牙が、どこぞの灯かりを反射している。
「うるせぇ、黙れ」
「やめてくれよ、その言い方。冷たいなあ」
 目当ての男がいる。殺そうと決めた男がいる。右手は動く。ナイフはずっと握ったまま、腕を持ち上げてしまえばいい。
「……あ、お前、怪我してるじゃないか。それじゃ歩けないだろ」
 警戒の欠片もしないで、奴はそのまましゃがみこむ。俺の顔を眺め回して、怪我の箇所に気づいたらしい。余計なことばかり気にかけて、自分の命の心配をすればいいのに。たかだかこれくらいの傷、すぐに治る。そういう風にできているから。そういう風に、作られたから。
「どうせ、すぐ治る」
「そういうわけにはいかねえだろ?」
 傷の具合を確かめてから、奴はいやに真面目な顔でそう言いやがった。
 ……何で、俺を、気にかける。いずれ誰かが俺を殺して、俺の代わりを誰かが務める。たったそれだけの簡単な話なのに、何で放っておかないんだよ。お前には関係ねぇのに、何でそんなに。贖罪のつもりか? あいつを傷つけたから? 偽善者め。綺麗事ばかりぬかす馬鹿め。俺みたいな奴は、放置しておけばいいんだ。関係ないくせに。
 ……どうして、放っておいてくれないんだよ。
「やっぱお前、目ぇ離してると危ないな」
 意味が分かんねえぞ、と返す言葉は、飲み込まざるを得なかった。奴が俺を、背負いやがったからだ。
「な……」
「手当てしてやるよ。傷が化膿したら大変だし」
 腕が持ち上がらない。身体が言うことを聞かない。そのまま持ち上げて、横に引っ張ればよかったのに。そうすればいとも簡単に、首をはねることができたのに。
 何もできないまま、左腕で軽々と持ち上げられた。成す術なく背負われる。手からナイフが滑り落ちた。奴はそれを足で蹴り上げて、空いている右手でつかむ。
「へぇ。いいの使ってるな」
「返せ」
「もちろん」
 奴の手が、俺の腰に回る。それから小さな音がして、ナイフは鞘に収まった。屈辱だ。この俺が――『狂える快楽主義者』が、『首切り双刃』が、たかが情報屋の一人に背負われて、無様な姿をさらしているなんて。
「なあ、今日は楽しくなかっただろ。破壊工作がさ」
「あ?」
 言い当てられて、思わずギョッとした。いや、違う。突然脈絡もないことを言われて、面食らっただけだ。それだけだ。
 奴は俺の反応なんか気にもしないで、続ける。
「そりゃそうだ。誰かの命を奪うことで、無意識に自分の存在を確認してたんだから。あぁ、だけどもう平気だな」
 意味が分からなかった。少しずつ、音が割れて漏れていく。ざらざらした音が、耳の奥にこびりついて離れない。
「人を殺して楽しくないってことは、自分の存在を認めてくれる場所を見つけたってことだろ」
 理解できない。そんな話は知らない。大体何でそうなるんだよ。おめでたい奴だな。一度頭掻っ捌いて中身を見てみたいもんだ。一体どういう構造になってるのやら。
 奴はちらりと背中の俺を眺めて、なぜか笑顔でこう言った。
「だってお前、俺に恋してるしな」
 こいつ、ふざけてるのか。俺を馬鹿にしているのか。どっちなんだ。どっちでもいい。
「……ブッコロス」
「やめろやめろ。物騒だな。それに嘘じゃないぜ。お前の中の『女の子』が、俺に恋してるんだからさ」
 恋なんて、何でそんな馬鹿馬鹿しいものが出てくるんだよ。本当におめでたい頭だな。そんなものは必要ない。だから、知らない。いらないものだ。誰かに頼ることなんてしない。信じない。信じられない。信じる必要なんかない。だから、いらない。
 だけど、梔子は……いるのだろうか。そういうのが、欲しいのだろうか。よく、分からない。
「なあ弟切」
「その名前で呼ぶんじゃねぇ」
 俺の中にやってきたあいつが『梔子』だから、自分で自分に名前をつけた。あんなキレイにはなれないから、自嘲の意味も込めてつけた。血なまぐさいエピソードを持った毒草の名。薄汚れた俺にぴったりだ。
「弟切」
 やめろ。なんでそんな、大事そうに呼ぶんだよ。気色悪い奴。
「俺は決めたよ。梔子も、弟切も、俺は両方を受け入れる。どっちをえり好みとか、絶対にしない」
 何だこれは。何が起きてるのか分からない。呆然とする俺に向けて、『海魔』は満面の笑みで言い放った。
「……だからさ。弟切も、遠まわしに自分のこと殺すの、やめようぜ。これからは一緒に、生きるための手段を探そう」

「だって梔子も弟切も、今ここで生きているんだから」

 涙の流し方なんて忘れた。泣き方なんて、忘れた。誰も信頼なんてしない。されなくたって構わない。俺は一人で生きていく。そして一人で朽ちていく。そうだと思っていた。これからもずっと、そうなんだと思っていた。
 胸の奥底が熱い。苦しい。口の中が苦くて、気持ち悪い。うまく呼吸ができない。目から溢れる水が止まらない。止める方法も分からない。どうすればいいのか分からない。額を肩に押し付けて、喉から漏れる声をかみ殺した。きつく爪を立てて我慢しても、流れていくそれを止めることはできなかった。
 何だ、これは。堪えようとしても堪えられない。後から後から溢れてきて、止まらない。これじゃあ馬鹿は俺になっちまうじゃねぇか。そんなの、ごめんだ。そんなの。
「俺が、その証人になるから。だから、これからもずっと、俺は二人に生きていてもらいたい」
 そのとき俺は、生まれて初めて死にたくないと思った。生きていることを許されるなら、俺が生きているという証がもらえるのなら――
 生きていくことも、悪くない。

(初回:2006.7.27 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)


6-3 彼と『彼ら』とその他大勢、共有する時間
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