泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
5−1
昼――彼女と彼の時間
目覚めなければよかったのに。私は小さく頭を振って、重い体を起こした。 外は明るい。時計は午後の三時を指している。鏡を見ることはできなかった。わざわざ確認しなくても、きっとひどい顔になっていることくらい想像がつく。 授業には、もう間に合わない。行かなくてもいいか、と、何気なくチェストの上を眺めた。 昨日と何ら変わりない、薄い鉄の刃が転がっている。シーツも新しいものに変えてある。傷口にはいつの間にか、丁寧に包帯が巻いてあった。記憶がないが、途中で起きて手当てしたのだろうか。まだ未練がましく生へ執着する自分に、思わず自嘲の笑みが漏れる。 ふとその隣、無造作に置かれた本が目に入った。濃い深緑のハードカバーだ。背表紙の下部に、小さなタグがついている。見慣れたそこには、確かに大学図書館と記してあった。 「あっ……」 思い出した。図書室から借りていた本、今日が返却日だった。どうしよう。 しばらく迷って、私は顔を洗うために腰をあげた。 本を返してからロッカーに向かう。幸い四限目の真っ最中で、人影はほとんどなかった。もっとも、授業中だから当然なのだが。 忘れ物が無いかを確認する。花も供えて、それから小さな封筒に気がついた。綺麗な蒼い封筒が、ぽつんと教科書の上に置いてある。 『浅香さんへ 少しお話したいことがあります。二号館の裏で待ってます』 宛名は無かった。何度も確認したが、これ以外のことは書いていない。綿津見君の字とは違う。知らずに緊張していたのだろう、肩からふっと力が抜けた。 あんなやりとりをした後だから、会うのは気まずかった。結局いなくなれなかった私を、彼はどう言って嗤うのだろう。考えながら、私は手紙に指示された場所へ足を向けた。 二号館は校内で一番遠いところにある。やはり時間が時間だからか、人はいなかった。 植え込みのすぐ近くに、背の高い男の人がいる。手紙の人かもしれない。声をかけようとして、 「あ、浅香さん」 それよりも前に彼が片手を挙げた。 「来てくれたんだ」 嬉しそうに笑っている。淡い茶色の髪を丁寧に整えた、ハンサムな人だった。 この人のこと、知っている。確か、女の子に人気の―― 「相楽君?」 「あ、よかった。名前、知っててくれた」 彼は嬉しそうに言って、白い歯を見せる。スポーツをしている人らしく体つきもたくましい。バスケットボールサークルのレギュラーだと、噂には聞いていた。 そういえば、ロッカーで私の肩をつかんだのも相楽君だった気がする。あの時は気が動転して怖かったけれども、こうして見ると優しそうな人だった。 「あの、私に何か用事でも?」 相楽君は笑いながら近づいてくる。体が自然に緊張する。奇妙な寒気が背中を這い上がってくる。温度がない、薄い笑みが近づいてくる。 私は一歩、後退した。彼は止まらない。距離が一メートルを切った。もう一歩後退した。彼は止まらない。それ以上は来てほしくないのに。止まらない。後ろに退く。止まらない。 背中に衝撃があった。息が詰まり、軽く咳き込む。壁際だと理解したときには、私に逃げ道はなくなっていた。 相楽君の腕が、私の退路を遮るように伸ばされた。影が落ちる。閉じ込められた私は、ただ彼の言葉を待つしかできない。 「これで、分かんない?」 囁かれて、思わず肩が跳ねる。彼の声は熱っぽく潤み、こちらを見つめる視線はまるで飢えた野良犬のようだった。そんな状態の彼を前にして、これから起こることが分からないほど、私は子供ではない。 「あのときから、俺、君しか見てなかったよ」 彼を押し返しても、震えて力が入らない。耳元に、湿り気を帯びた吐息がかかる。 「覚えてない? ホラ、一年の最初のとき。迷ってた俺を、教室に連れてってくれたでしょ」 相楽君の指が襟にかかった。声が出ない。頭が痺れる。手足がすくんで、抵抗すらできなかった。 「あれからいろんな子とこうしてきたけど」 彼の向こうに見える空、鳥が何羽か横切っていく。その小さな影がぼやけ、空の蒼に紛れて消えていく。 「やっぱり、浅香さんが一番興奮する――」 「い、やあぁッ!!」 太ももを這う体温と、生々しく動く指。私はかすれた悲鳴をあげ、彼の手を精一杯の力で払った。相楽君は驚いたように私を眺めて、そしてまた笑顔になる。もう片方の手で私の腕をつかむ。あの日、私に話しかけてきたときのように、強く握ってくる。 「何で嫌がるの? 俺たち恋人じゃん。家にも案内もしてくれたでしょ? 後ろからついてったの覚えてるよ。照れて家には上げてくれなかったけど、こうすればすぐベッドでできるよ」 一瞬、何を言われたか理解できなかった。理解したくなかった。いつも私を後ろからつけてきていた人は、玄関で電話をかけてきたのは、相楽君だったというのか。 それよりも私は、彼と面と向かって話をしたことはほとんど無い。ましてや家にも案内した覚えは当然ない。彼の中では、それでも――それでも、彼の中では既に、私は相楽君の恋人なのだ! 「そうだ。次のプレゼント何が欲しい? 黒猫好きみたいだから、もう一度黒猫にしてあげようか」 抵抗していた私の思考が、凍った。真っ白になった頭の中に、耳鳴りだけが波のように打ち寄せる。 「あ……」 今、何て言ったの? 彼は、今、なんて。 「う、……うそ……」 まさか。そんな。 「あなたが……やったの……」 あんな、ひどいことを。 相楽君は悪びれもせずに語る。 「浅香さん、猫好きみたいだからさ。少し前に、猫がいっぱい浅香さんのところに集まってたでしょ。笑ってくれてる浅香さんもすごい綺麗だったけど、ほら、俺たち恋人同士じゃん? やっぱ俺だけに笑っててほしいっていうか……余所見なんてさせてあげないよ。こうすればもう――」 彼が私の服を肌蹴た、と同時に手が止まった。信じられないものを目にしたような、そんな顔つきで私を凝視してくる。当たり前だ。女の人の持つ胸の膨らみを、私は持っていないのだから。 私は結局、他の人に迷惑しかかけられない。彼の好意を、彼の期待を、無駄にしてしまった。沈黙が降りる。申し訳なくて、いたたまれなくて、私は彼の下から抜け出そうとした。 途端、彼は無言のまま私の体を突き飛ばした。壁に体を打ちつけられて、全身に鈍い痛みが走る。重力に逆らえずくず折れて、すぐに髪がつかまれて引き上げられた。 「や、痛ッ……! やめ、て……くださ……」 「なんだ、女じゃねえのかよ」 怒りと蔑みを込めて、相楽君が吐き捨てる。引き倒される直前、ぶちぶちという何かが切れる音がした。視界の隅で、赤い糸くずが下に落ちていく。 「あぁ、そういやぁ某さんが言ってたなぁ。『浅香さんは男で女装が趣味なんだ』ってよ。ったく、まさかマジだったなんて信じらんねえ」 「え、な、何、やめて――……!」 横倒しにされ、彼の蹴りが胸に入る。再び髪をつかまれて持ち上げられ、あがりそうになった悲鳴は手のひらでふさがれ殺された。暗転しかけた意識は、二度目の蹴りで無理やり引き戻される。 もがいても無駄だった。強打された肺が、酸素を取り込むことを拒絶している。呼吸もままならない。体に力を入れることすら叶わない。腕をつこうとしても、足を曲げようとしても、まるで自分のものでないように動かない。 頭の芯が痺れて揺れて、何もかもが遠い。喉元の傷がとても熱い。包帯に粘ついた感覚が貼りつく、それだけがはっきりと分かった。 「男の癖に、女のカッコしやがって。全部脱げよ。それに、女言葉とか吐き気するんですけど。目も耳も腐るからしゃべんじゃねーよ」 紅いノイズが走る視界で相楽君が嗤う。先ほどとは違う歪んだ表情は、まるで別人だった。あれだけ優しそうだった彼の顔は、偽りだったのだろうか。 「う……――っ……」 耳鳴りが押し寄せてくる。その合間を縫って聞こえるのは、布を破る甲高い悲鳴だった。ブラウスが破られているのだろうか。外気に晒されて身がすくむ。 「そういやお前、相当嫌われてるよな。仕方ねぇか、男のくせに女装してるんだし」 何とか逃れようと、私は相楽君の腕に必死で爪を立てる。力の入らない私の手をうるさそうに払って、彼は苛立たしげに語調を荒げた。 「大人しくしてろよ、人間のゴミのくせに」 誰も来ない。ここには彼と、私しかいない。お互いの息遣いと布の裂ける音が、人気のない空気を振動させているだけだ。 「女装とかマジ頭おかしいんじゃねーの? お前みてぇな頭おかしいの、ここいる価値ねぇよ。あ、そうそう。俺理事長の息子だから、あとで言っとくわ。善良な一般市民を不快にさせた人間公害がいます、ってよ」 抵抗をやめて、うつむいた。私のせいで、相楽君に、他の人にまで迷惑をかけてしまう。 「ま、どうしてもってんなら言わないでおいてやっけどよ。ただし、俺の命令全部聞けよな。変質者は存在だけで犯罪だから、今更犯罪やらせても問題はねーし。そうだ、俺が言ったってこと絶対にバラすなよ。そこから足つくかもしれねぇからな」 もしも彼がそう言うならば、私は喜んで口を閉ざそう。力なくうなずいて、突っ張っていた腕を下ろした。土の感触とわずかな湿気が、指の背中に絡みつく。 『ここはお前のいていい場所じゃない。この世界では、必要とされていないんだよ』 あのとき、綿津見君はこう言った。彼がそう言うのならば、きっとそうなんだろう。おぼろげな記憶の中にある声の言う通り、私はこの世界で必要とされていないのだろう。私には生きる価値がない。それはまるで、口を利かない死人のよう。死人にくちなし――もしも彼らがそれを望むのならば、私は沈黙したまま枯れていこう。 この世界に別れを告げられない、臆病な私だれど。それで彼らが、満足するのならば。それで少しでも、迷惑をかけた謝罪になるのならば。 しかし、相楽君の言葉が発されてから数秒後に、私が答えようと口を開いたほんの数秒前に。 「残念ながら、ちょっとそれはできない相談だな」 声は、思いがけないところから響いた。 相楽君が離れる。座り込む前に、誰かに抱きかかえられた。 「げ……わ、わ、だ……つみ……!」 「うん。綿津見亘理といえば、つまりそれは俺しかいない」 私を抱えている彼は――綿津見君は、愉快そうに嘯いた。 「しかし君、想像してたよりもかなり陰険だなぁ。かよわい女性をストーカーしたあげく、口止め強要して暴力振るうなんて」 「……ど、どこから見てた!?」 「そりゃもう、最初から最後まで一部始終一切合財徹頭徹尾全部見た。……これ、立派な犯罪だな。あーあ、かわいそうに……すっかり怯えてるじゃないか。女性の敵だね」 髪に綿津見君の指が触れた。また殴られる、そう思ってきつく目を閉じる。 が、それ以上の感触は無かった。彼はゆっくりと、私の髪を梳いている。時々優しく頭を撫でて、また髪に指を通すだけだった。そこから伝わってくる温かさが、なぜかとても安心する。 こんなことをされるのは初めてで――鼓動が勝手に、不規則に乱れていく。 「女じゃねえんだぜ、そいつ」 嘲りを含んだ相楽君の声がする。 「知ってるよ。でも、心はちゃんとした女の子だ。君みたいなのと比べたら、それこそガラスのハートなんだからな。扱いは丁寧にしなくちゃ駄目だろ、女性の敵」 対する綿津見君は、いつものように柔らかく穏やかだった。それが気に入らないのだろう、相楽君が嘲笑する。 「女のふりをして俺をだましやがって。それに見ろよ。こいつ女装趣味があるんだぜ。それのどこが繊細だって言うんだよ? 頭おかしいんだよ、そいつ。気持ち悪ぃ」 綿津見君の心音が聞こえる。とても優しく、とても温かく、私を包み込んでいく。懐かしいような、切ないような、そんなリズムを刻んでいる。 あぁ彼は今生きているんだと、ほんの少しだけ嬉しくなった。 「君は今、言ってはいけないことを言った」 綿津見君の声が、少し低くなる。私に「警告」をしてきたときのような、冷たい音が混じっていた。私を抱く手に力がこもり、額が彼の胸に強く押し付けられる。 「自分たちと違うから、彼女をこんな風にしてもいいと? だから『人間のゴミ』? ――ホント……言うのも嫌だが人間のクズだな。驕るのもいい加減にしておけよ」 最後の台詞には、怒りさえ見えた。 どうしてなのか分からない。私に向けられた台詞に対して、どうして怒っているのだろう。私のことが嫌いだから、避けているのではなかったのか。だからこの間、わざわざ「警告」をしてきたのではなかったのか。 疑問が浮かんでは消え、消えては浮かんでいく。言葉に乗せようとしても駄目だった。綿津見君の体温に溶かされて、口にする前に全部なくなってしまうのだ。 それが何だかとてももどかしくて、私は震える指で彼の服を握り締める。 「何にせよ、しかるべき場所で裁きを受けてもらおうか。隠蔽された罪はもうすぐ暴かれるぜ。覚悟しとけよ、バスケットボールサークルのエース、ここの理事長の次男坊。相楽皇平君。俺を怒らせると怖いぜ? なんちゃって」 そうこうしているうちに、相楽君の気配が揺れた。走っていくのだろう、荒い足音が遠くなっていく。あとに残されたのは、服をずたずたにされてしまった私と、そんな私を抱きしめている綿津見君だけ。再び静まり返った空気に、私の呼吸と彼の呼吸が重なっていく。 近い。とても、近い。人の体温をこんなに近く感じたことなんて、今まで無かった。 「浅香さん」 そっと、呼ばれる。体に力が入って、所々が軋んで震えた。 「君に、謝らなくちゃと思って……追いかけてきたんだ」 「……え……?」 私は思わず額を離して、綿津見君を見た。意外な言葉に緊張が解けていく。反対に忘れかけていた痛みが蘇ってきたけれど、それに構っている余裕はなかった。 謝るとは、どういうことなのだろう。心の問いかけが顔に出ていたのか、彼は言葉を繋いでいく。 「君のことを知らなくて……ある一面にとらわれて、誤解をしていた」 よく理解できない。柔らかい微笑に、温かな光をたたえた深い瞳に、また心臓が高鳴った。 「あの日、君の言葉を聞いて……ようやく理解した。君は……ずっと一人だったんだって」 温もり。声。彼の鼓動。腕の感触。 どうしてだろう。一つ一つにとても、胸がしめつけられる。彼がここにいることが、私が彼の傍にいることが、なぜこんなに嬉しいのだろう。 涙が出そうになるほど嬉しいことなんて、今までなかったのに。 「ごめんね、浅香さん」 こんなこと、初めてで。 「いいの」 こんなこと――初めてで。 「……いいの……」 私は目を閉じる。意識が深く「私」の奥へと沈んでいく。 ――彼の優しい体温だけが、私の意識に最後まで残っていた。 (初回:2006.7.27 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10) |
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