泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
4−3
昼と夜
軽い足音と共に、その持ち主が現れる。どこか緊張したような面持ちで、しかし瞳には期待を込めて。 ――告白されるとでも思っているのだろうか。夜の世界を縦横無尽に暴れまわる天下の何でも屋が、まるで初々しい娘のように、小走りにこちらへ駆けてくる。 接触は、極力避けてきた。『奴』もそれに気づいてか、積極的に話しかけてこようとはしなかった。大人しい娘の仮面を被り、こちらの様子を窺いながら、日々を送っていた。それももう、今日で終わる。『奴』の目論見はここで途絶え、俺は平穏を取り戻す。この昼の世界は再び、昼の秩序で動いていくのだ。 ……なんて格好つけてはみたが、本当は豹変したときにどう言い逃れをしようか、考えている最中だった。誰に何と言われようと、怖いものは怖い。ここまで完璧に無害を装えるのだから、どう切り返してくるのかまるで読めないのだ。むしろ言葉では返さないで、直接ナイフで斬りかかってくるかもしれない。だから怖い。 一つ、息をつく。まあいいさ。なるようになる。いざというときは、口八丁でごまかそう。何も死ねとは言ってない。『奴』がここからいなくなってくれればいいだけなんだから。 「遅くなってごめんなさい」 軽く息を弾ませて、『奴』が言う。まずは普通の口ぶりだった。 「構わないよ」 俺も普通に返事をした。 翡翠の瞳が不安そうに瞬く。身体をわずかに後ろに引くが、足はその場に固定したままだった。怯えている子猫を見ているような、奇妙な心地がする。 それにしても、本当に演技が達者だな。これで何人もだましてきたっていうことか。頭の片隅でそう思いながら、用意してきた言葉を並べる。 「君を呼び出したのは他でもない――いいか、これは警告だ。これ以上俺に近寄るな」 言ってしまえば、あとは簡単だった。まるで糸を手繰るように、するすると続きが溢れてくる。 「まさか、俺が気づかないとでも思ったか? いつまでしおらしいふりをしている? もうお前の正体は分かっている。俺と同じ、夜側の人間だ。何が目的だ?」 『奴』はただ呆然と、胸を押さえて立ちすくんでいる。碧が潤み、揺れているのが分かる。まだ演じ続けるつもりなのか。誰かの台詞じゃないけれど、往生際の悪い奴。 語調をさらにきつくして、無言の『奴』にたたみ掛ける。手加減など、するつもりもない。いなくなれ。ここからいなくなればいいんだ。 「お前はこの場に相応しくない。ここにいていい存在じゃない――どうした、いつもみたいに噛み付いてみろよ。それとも言ってることが分からないか?」 少しだけ、声を溜める。沈黙の中では、相手の息遣いだけでなく、かすかに身を震わせる音ですらも聞こえてきそうだった。 怯えた目が、一度瞬いた。紅いまつ毛が伏せられ、開く。 「お前は危険なんだ。ここはお前のいていい場所じゃない。この世界では、必要とされていないんだよ」 昼と夜。あまりにも違いすぎる世界を生きるには、その世界ごとのルールに従わなければならない。だから『奴』は、元いた世界に帰らなければならない。無秩序が秩序をなし、暴力と狂気がルールとなった夜の世界に。自分の欲望も感情も抑えられない奴が、こんなところにいていいはずがないのだ。 嫌な残響を帯びたまま、放った声が砕け散る。その欠片は風に乗り、人気の無いキャンパスへと流れていく。 と。『奴』が笑った。あの嫌味な笑みではなく、ただの女の子の微笑で。悲しそうな微笑で。 「そうだよね」 俺の言葉を、肯定した。 「私……駄目だね、みんなに迷惑しか、かけられ……っ、なくて」 しぼり出すように、かすれた音で繋いでいく。 「ごめんなさい、……謝っても……許しては、もらえ、ない……だろうけど」 様子がおかしい。もしもこれが『奴』ならば、馬鹿にする台詞を上乗せしてくるはず。それがないということは、まさか、いや、そんな、違う。 混乱する意識に、突然それが滑り込んできた。 「そっか。私、いらないものなんだった」 一瞬、頭の中が真っ白になった。 いらないもの。それは、つまり、自分の命が、いらないということ。 「私には、生きる価値すらないんだった」 「浅香、さん?」 思わず、そう呼んでいた。『奴』は――違う、彼女は俺を真っ直ぐに見つめて、また小さく笑みを乗せる。 「忘れてた」 思考が追いつかない。追いつかない。感情も何もかもが追いつかない。馬鹿みたいに彼女を見つめているしかできない。 そんな、馬鹿な。何で、どうして、違うのか。 「浅香さん、君は、まさか」 「だからきっと、」 単語がうまく繋げられない。焦って転がり出た俺の言葉は、彼女自身のそれで断ち切られた。 「いなくなったほうが、いいよね」 水分を含んだ碧から、涙が一筋零れて落ちる。顎のラインを辿り、少しの時間を置いてから、彼女の足下へと染みをつくった。 いなくなったほうがいい。その通りだ。俺はそれを望んでここに来て、彼女にそう言ったんだ。それなのにどうして、何で、どうしてこんなに。 「ありがとう、綿津見君」 また一筋、流れて落ちる。濡れた瞳の色は、ドキリとするくらいに深く澄んだ光を宿していた。 吸い込まれそうな碧い色。何も言えなくなるくらい、透明な翡翠の色。純粋で無垢で、――まるで死にに行く人のような。 彼女は一歩足を引いた。引いて、満面の笑みを浮かべる。花が咲いたように、笑って。 「さよなら」 スカートの裾がふわりと翻る。彼女の身体も翻り、そして軽やかに駆け出した。 「浅香さん!」 手を伸ばしても届かない。 「待って、待ってくれッ!!」 声を張り上げても届かない。 彼女の背が遠くなる。闇の中へと沈んでいく。消えていく。消えてしまう。追いかけなくちゃ。足が動かない。追いかけなくちゃ。傷つけた。傷つけてしまった。違った。『奴』じゃなかった。彼女は彼女以外の、何者でもなかったのに。 忍び寄る夜の気配と共に、言いようもない感情が俺の心を浸していった。 * 酷い顔ね、と香佑が言う。 「いい気味だわ」 返す言葉も見つからない。 「だから言ったでしょ。表面ばかり見て、あの子自身を見ようともしていないからこうなるの」 そんなことを言われたって。沈む心でそう呟く。こんなことになるなんて思わなかった。『彼女』が『奴』じゃないなんて、想像もしなかった。できなかった。予想なんてつかない。演技をしていると思っていたんだ。だって相手は『奴』だから、だから―― 「――だから、自分は悪くない、ってね」 心の内側をそのまま声に出されてしまい、俺はそのまま口をつぐむ。 「まるで、いじめていた子が自殺したときのいじめっ子の言うことね」 香佑の声はどこか冷たい。本当にその通りだった。自分でもそう思うんだ、傍目から見てもそうに違いない。ひどくいたたまれない気分になって、うなだれる。 「どうせ、ここにいるべきじゃないって言ったんでしょ。お前は危険だから、ここでは必要とされていないって。……あんた、事情も説明しないでそう言われたらどう思うのよ。自分に自信がなくて、他人からも難癖つけられて悪口言われて。そんな子にそんな事言ったら、どうなるかくらい分かるじゃない。存在を否定されたりしたら、誰だって傷つくわ」 俺も、彼女を嗤っていた人たちと同じだ。彼女のことを知ろうともしないで、分かろうともしないで、自分の勝手な思い込みと想像とで動いていた。傷つけた。彼女の心を踏みにじってしまった。彼女はここで生きていたのに。たくさんの人に傷つけられながら、それでも必死で生きていたのに。 俺が、止めを刺してしまったのか。 「ごめん、……なさい」 「私に謝らないでちょうだい!」 珍しく、香佑が言葉を荒らげた。 「私に謝っても意味なんか無いでしょ!? あんたがしたことなんだから、謝られたって私には何もできないわよ!」 一字一句、その通りだった。俺は香佑を彼女に見立てて、無意識のうちに逃げようとしていた。俺は本当に馬鹿だ。 「……あの子に謝んなさい。私にじゃなくて。あんたがやったことなんだから、責任はあんたが取んなさい」 逃げる方法を考えるんじゃない。今は、自分のしたことの責任を取るときだ。俺は小さくうなずいて、部屋を飛び出した。 入り口の呼び鈴を押しても返事が無い。あれからまだ一時間も経っていないのに。出たくないのだろうか。それとももう―― 嫌な予感がする。焦りが先行して上手く考えられない。落ち着け。落ち着かなくては。もう一度呼び鈴を押そうとしたとき、運よく外に出る人がいた。開いた扉の隙間をすり抜け、十階に向かう。一〇一〇、浅香梔子。 インターフォンを押しても返事が無い。中から確かに気配はするのに。ノブに手をかけ回してみる。鍵はかかっていなかった。 冷気が波のように打ち寄せてくる。電気はついていない。窓の外から差す夕日は、既に暗くかげりつつあった。 彼女の寝室に入る。チェストがあって、ベッドがあって、仰向けに横たわる身体があって。陽の光に染まった髪が白い枕に散らばって、まるで血のように真っ赤だった。 浅香梔子が、手首から本物の血を流して眠っていた。 「浅香さんっ!!」 思わず叫んで抱き起こす。幾筋もついた涙の跡が、蒼白い頬を濡らしたままだった。伏せられた紅いまつ毛も、同じように水分を含んでいる。手から伝わる体温と、かすかに聞こえる吐息が、まだ生きていることを確かに知らせてくれていた。 「よかった……!」 こみ上げてくる嬉しさと安堵に身を任せ、そのまま強く抱きしめる。全身を温かいものが包んでいく。自分のせいで死んだらどうしようと思っていたのかもしれない。けれども今は、彼女の存在が消えてしまわなかったことを、心の底から嬉しいと感じていた。 そっとベッドに寝かせ直し、手首の傷の具合を見る。血の流れは既に止まり、傷口も塞がり始めていた。このままでは袖に擦れて汚れてしまう。傷にハンカチを巻きつけ、服が汚れないようにした。衣服は汗ばみ、どことなく湿っている。少しだけ迷ったが、着替えさせることにした。このままだと風邪をひいてしまう。 下着姿には慣れているつもりだった。香佑がよく下着一丁でうろついているし、洗濯物を洗うときも干すときも取り込むときも片付けるときも俺がやっているから。問題は、ブラウスのボタンを外すときが一番恥ずかしいということである。何だか妙に緊張して、手が震えてしまう。何でこんなに意識しているんだ。相手は女の子とはいえ男だぞ。いやよく分からない。何を言ってるんだ俺は。 三回ほど深呼吸をして、ゆっくりとボタンを外していく。平らな胸板が露になり、続いて女性用の下着が見えた。パッドが詰められている。よほど男性であることがコンプレックスなのかもしれない。いや、当たり前か。身体が男であっても、心は女の子なのだから。 自分だけが他の人と違う。理由は分からない。不安でないはずがない。それでも何も言わず、黙ったままで向けられる悪意を受け止めてきたのかもしれない。たった一人で、傷つきながら。こんなことは推測でしかないけれど、それでも心の奥が痛んだ。 と。彼女の胸もとの中央部に、大きな傷があった。太く刻まれた二本の線が、何かを消すように交わってる。下着のさらに下にあって、ここではよく見えない。紅の線がある。どうしてか、俺はその形に見覚えがあった。 ……まさか。 「ごめん、浅香さん」 眠る彼女に詫びながら、下着をほんの少しだけ上にずらした。 ――あの狂った学者たちの集団が、シンボルとして作った紋。音符をナイフのように鋭く研ぎ澄ましたようなそれが、彼女の胸もとに巣食っていた。 頭の中で、突然思考が物凄い勢いで組み立てられていく。 記録。情報。人体実験。『狂乱舞踏』。名前も知らない彼女たちの髪と目。人間の持つ色を薄めたような、そんな色。死の満ちる部屋。生の暖かさを感じられない、冷たく冷えた白い部屋。浅香梔子。『狂える快楽主義者』。自分の命に尊さを見出せない彼女。刹那の快楽を求め人の命を奪う『奴』。とんでもない身体能力。実験体は使い捨て。一つの家に、二つの部屋。一日は昼と夜。繋がっているものは何だ。繋げているものは何だ。 「……ひとつのなかに、ふたつある」 かちり、と何かがはまる音がした。 (初回:2008.10.23 更新:2009.1.10) |
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